第43話 神明裁判ⅩⅩ 淡き水なる者



 ——鳥の囀りが聞こえる。



 さらさらという音と、くるぶしのあたりをくすぐる冷たい水の感触。


 天上から陽の光の暖かさを感じる。



「くぁ……ふわぁ、ぁ、よく寝たぁ……」



 伸びをして、大欠伸をひとつ。

 目を覚まして、瓦礫の上で横になっていた上半身を起こして。

 俺の眼に最初に飛び込んできたのは青い、青い空だった。


 雲一つない、透き通った青い空。

 天は高く、どこまでも遠くまで見渡せそうで、昼日中ひるひなかから空の果ての遥か先の星々にまで手が届きそうな……——いや、はは、そこまでじゃないかな。


「——あなたのことを、ちゃんと覚えていたよ」


「……うん」


 足首までを透明な水に浸けたまま。

 座り込んで空を見上げていた俺の後ろに、静かに誰かが立つ気配がした。

 ——夢の中のような、あの世界で俺と話したあの女の子の、声。


「私を思い出してくれて、ありがとう。——私を“私”にしてくれて、ありがとう。……君が私に『ほんとうのなまえ』をくれたから、壊してしまった世界を元に戻す事ができたんだよ」


「……そっか。役に立てたのなら、よかった」


 それを聞いて、俺も嬉しくなる。


 、彼女の言葉を聞いた時に、胸の中がじんわりと温かくなった。……だからきっと、それはこの身体ナギ・アラルにとってはとても大事なことだったのだろう。


 瓦礫の街となった王都を無色透明なさやかな水が流れていく。

 傷付いた街と人々は、水の流れの中でゆっくりと、だが確実に元の形に回復していく。


 倒壊していた建物は元通りに建ち並び、

 立ち枯れていた樹木や草花は色彩を取り戻す。


 遠くから人々の声が聞こえてくる。

 泣いている人、怒っている人の声もあるが、多くの人々はお互いの無事を確かめて喜び合っているようだった。


「……わたし、この世界が好き。いろいろな事があって、悲しいことも、辛いことも、沢山あったけど……」


「……うん」


「あなたと出会えて、もう一度この世界のことを好きになれたの。……あなたが、小さな私をいつも守ってくれたから」


 背中にふわり、と少女の重みがかかる。

 日向のような温かさが背中からじんわりと身体中に広がっていく。


「……っ!」


 温かさが体に染み込んでいくのに反して、俺は緊張に強張り、心は冷えていく。……この子の感謝を受けるのは、ナギ・アラルであって、何の記憶も持たない抜け殻のおれではない。——こんな風に愛情を向けてもらう資格は俺には無いのだ。


「——大丈夫」


「え?」


「ちゃんと『私』の中にあなたナギ・アラルの魂は残っている。……だから、自分が無いことを恐れないで。——私が、『肉体』と『魂』あなたたちをちゃんと元の『』に戻してあげる」


 そう言うと、彼女はまたふわりとその体を俺の背から離して、それからとても強い光の塊になった。……背後から刺す眩い光で、地面に自分の影が濃く投影される。


「私が“私”で在るように、あなたにそうという記憶や自覚がなかったとしても。……やっぱりあなたは“私のあなた”だった」


 ずっと大好きよ、ナギ——


 目を開けてられないほどの真白い光の中で、そんな風に名前を呼ばれた気がした。


 だけど、いつしか記憶と時間と「自分」という境界が世界と溶けて混ざり合っていって。


 『俺』は————




 ++



 塩の柱となって砕け散ったティアの巨体の中から現れた『揺らめく光』は、ゆっくりと高度を下げながら王城の中庭へと降りていった。


 破壊されていた城下町が再生していくのと同じくして、王城の城壁や尖塔、最上階の王の間が修復されていく。触手の絨毯爆撃によって更地になっていた中庭も、元の壮麗な庭園の姿を取り戻していた。


 裁判に詰めかけ、気絶したまま絶命していた群衆たちも次々に目を覚ます。誰も怪我一つ負っておらず、まるで夢を見ていたかのようにここで起きた全ての事を曖昧にしか覚えていなかった。


「……あれだ!」


「すみません、ちょっと通して下さいね!」


 何故ここに自分たちが集まっているかすら忘却してしまった群衆たちが、猛然と駆けてくるエルミナとイニィに驚いて道を開ける。

 ……中庭の中央に、水面みなものように揺らめく光の球が降り立ったのはちょうどその時だった。

 

 『揺らめく光』の球を間近で見て、イニィは再び背筋に冷や汗をかく。……畏怖の念を覚え、自然と跪きたくなるほどの『神気』。


(まるで、古代神殿の最奥聖域で聖体の前に拝した時のような……)


 時折、ダンジョン探索の途中に古代の神殿跡を見つけることがある。……その時に感じる神聖な空気の何十倍も濃い気配が、目の前の光球から伝わってくる。


「これはなんとも……凄まじい。【星神剣】が猛るのも無理はないな」


「——エル、絶対抜いてはダメですよ。同士の争いなど、大陸ごと滅びかねないのです」


「同感だ。流石にそれは人の手には余る」


 エルミナの胸の中では神剣が震え、いつでも解き放てる状態へと励起れいきしている。……エルミナはそれを断固たる意志の力で抑え込み、力を封じ込めていた。目の前の光の球も胸の中の神剣も、共に強い神の力を宿している。そんなもの同士をぶつけた時に何が起きるかなんて、知りたくもなかった。


 最大限に高まった緊張の中、徐々に光球の揺らめく光がほどけていく。

 光が収まった時、中からは一人の青年と真白い子犬ほどの大きさの……何とも名状し難い生物が現れた。


「ナギくんっ! ティアさん!!」


「おい、しっかりしろ! ……息はある、大丈夫だ。どこにも怪我一つない」


 二人はナギの元へと駆け寄る。


 知り合った時との人魔形態とは違う本来の顔立ちは、年齢よりも少し幼く見えた。


 白髪に変じていた髪は、鴉と同じ艶めく漆黒に戻っており、故郷の村で織られたヘアバンドでまとめられていた。服装も、人魔形態になる前に着ていた紋様が編み込まれた布の服に戻っている。

 

 ……そこには冒険者になるという夢をだけを抱えて故郷の村から出てきた、、純朴な青年の姿があった。

 ——それに絡みつくように共に眠る、白い白い怪魔さえいなければ、本当になんの変哲もない、と言い切れたのに。


「これ……」


「うん、これはちょっと」


 イニィとエルミナの二人は顔を顰める。

 ……如何に『カミ』とて、公衆の面前でそんなはっきりぐにぐに、うねうねとパートナーに卑猥ヒワイな感じで絡みつくのはちょっと……良くないと思うのだ。


「あ、あの、ティアさん……ティアさま?」


「人が見ております。お戯れはそこまでに……!」


 二人の『世界を旅する冒険者ワンダラー』が人類を代表して『カミ』にかしこかしこみ申してみると……なんというか「渋々」という空気の元、しゅるしゅるとティアの触手はナギから離れていった。……ホッ、と胸を撫で下ろす二人。


「くぁ……ふわぁ、ぁ、よく寝たぁ……」


 気の抜けた欠伸と共に、ナギが目を覚ます。

 

「あ、起きたのです。ナギくん、ここが分かりますか?」


「ええっと……ここ、王城の中庭ですかね? あっ、イニィさん、裁判はもういいんですか?」


「ナギくん……! はい、そんなのもう、今更何か言われてもブッチしてやるのです!」


「いきなり人の心配とは。……ふむ、いい男じゃないか。これならイニィのことを任せてもいいかな」


「も、もう! 何言ってるのですエル!」


「ぎゅいぎゅい」


 ご機嫌の悪そうな鳴き声が足元から響いて焦る二人。

 そんな風にわいわいと騒いでいるとナギは「ぷっ」と吹き出して、明るい笑い声を上げた。


「……大丈夫だよ、もうどこにも行かないって言っただろ。俺はお前のものだよ、ティア」


「きゅい! きゅいっ!」


(……あれもしかして今、僕フラれてます?)


 白い触手をするするとナギの腕に巻きつけて嬉しそうな声を出すティア。それに応えるナギの表情も見守るような落ち着いた横顔を見せており、二人だけの空気がそこには流れていた。


「なぁ、ティア」


「きゅ?」


「俺お前に言いたいことがあってさ。……聞いてくれるか?」


「……きゅ」


 触手同士をきゅっ、と握りしめてナギの言葉を待つティア。その瞳はやや潤みながら、最愛の人ナギのことをじっと見つめている。

 ——そして、ナギはゆっくりと口を開く。




「なぁ、なぁお前ってさ……もしかしてドラゴンじゃなくない??」


「きゅっ!?!?」



 子犬ほどの大きさで、顔の両側に合計八つの眼がついていて、背中から翼の代わりに触手がうねうね生えている。……そんなドラゴンがいるだろうか。



 ——いや、いない。いないのだ。



「いやぁ俺も今更っていうか、そんなことでティアへの気持ちは変わらないんだけど……なんかこの身体に戻ってから、みょーに気になっちゃって……」


(アレ多分洗脳解けてますよね)


(だな。一度契約が切れたからだろう)


「きゅ、きゅきゅるるるー……」


 答えにくそうなティアは、しゅるるるるっ! と腹足を高速で波打たせて地面をスルスル移動して、逃亡した。


「あっ! 逃げなくてもいいじゃんか! 待てって!」


「きゅるるるる〜っ!」


 王城の中庭に、黒髪の青年と奇妙な生き物の声が響く。

 群衆は未だ夢から醒めない頭で奇妙な夢を見ていると思い、二人の『世界を旅する冒険者ワンダラー』は笑いながらその光景を眺めていた。







 これは世界が崩壊するまだ一年前の出来事。


 古代の神々が古き名と共に蘇り、

 十二本の【神器】を操る者たちが覇を競い、

 その大乱の中を一人と一柱ひとはしらが駆け抜ける。



 そんな物語の、ほんのはじまりプロローグなのだ。

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