第42話 神明裁判ⅩⅨ 再臨 / パルーシア



 イニィが見たのは、胸から血を流すナギが赤い河へ投げ込まれるシーンからであった。


「——ナギくんっっ!!!!」


 力の限り名前を呼ぶが、直ぐに彼の姿は赤い濁流の中に隠れて、見えなくなってしまう。

 ……懐からありったけの呪符を出して、捜索のための低級悪魔の召喚を試みる。だが。


「やめておけ……もう、遅い」


「エルッ! 何故止めるのです!!」


「あそこを見ろ。……奴を覚えているか?」


「あの男……! 【葬神機関】の異端者狩り、『夜刀神ナイトブレード』!!」


 たった今、ナギを赤い大河へ落とした男に、イニィは見覚えがあった。

 テラスからナギと共に中庭に降りてきたときには気が付かなかったが、あの男は過去に何度かやり合ったことのある“仇敵”であった。


(何度か、といってももう十数年も前の話です。とっくに死んだと思っていました……)


 その男が何故、ナギの隣にいたのか。

 イニィの知り得る情報ではそれをうかがい知ることができなかったが、一つ気になる事があった。


「……おかしいのです、エル。昨晩はエドワルドの従者として教会の『殉教者マーター』がはべっていました。……教会暗部がこうも表に出てくる理由はなんなのでしょう?」


「分からない。……だが本来、彼らの教義は“神性の秘匿”を旨としている。だが、今やこの状況だ。そうも言ってられなくなったのだろう」


 今も天を覆う巨大な魔獣。

 美しい乳白色だった体躯は、今や血雨にまみれて無惨な姿になってしまった。

 ——かつて共に戦った者として、イニィはティアの痛ましい姿を見ることが辛かった。


「——彼女たち『深淵種アビス』は、名前と信仰を忘れられただ。本来の意味と力は失われていても、それでもなお人類を遥かに超越する力を持つ上位存在。……それでも、ああなってしまうと痛ましいものだ」


 天にティアの哀哭が響き渡る。

 エドワルドの特異技能ユニーク・スキル【王権神呪】を喰らった際に、これまでの経路パスは途切れて彼とのつながりは無くなっていたのだろうに。それなのに、分かってしまったのだろう。だから、悲痛な声で体を震わせて泣いているのだ。

 ……それを見て、イニィにも理解できてしまった。


「——そう。今、ナギくんが死んだのですね……」


 イニィの眼には人の霊魂や浮かばれない魂を見る事ができる『見鬼』のスキルが宿っている。

 その眼から見た今の王都では、上空に無数の魂が浮かび上がって、淡い輝きを放ちながら空気中を彷徨っていた。

 その儚くも、無惨でいて幻想的な光景の一つに、彼の魂も混ざっているのだと思うと、胸が潰れそうに苦しかった。


(また助けられなかった……。こんなことを、私たちはあと何度繰り返せばいいのですか)


 ティアは泣いているように何度も小さく悲鳴を漏らす。

 これまでの呪縛による苦痛からくる悲鳴ではなく、心が痛みに引き裂かれる悲嘆の叫び。

 イニィは彼女ティアが感じた痛みと哀しみを、同じように感じ取っていた。


「……そうか、残念だ」


 言葉には出さずに眼鏡の奥の瞳から涙を一筋こぼすイニィを見て、エルミナも瞑目する。……だが、王都に満ちる重たい空気が変わっていくことに気が付いて、目を開けた。


「……おい、イニィ! あれを見ろ!」


「…………ぇ、あれは——!」


 降り続いた血雨がいつの間にか止んでいる。

 痛苦に喘いでいたティアの動きが……止まった。



『きゅおおおおおおおおおんんんん!!!!』

 


 一際高く、天に向かって吼える。

 ティアの体の輪郭が、陽の光に透けている。

 よく見れば、脚やひれの先端からサラサラと細かな粒子となって空気中に溶け出ていっているようだった。


「——これは…………塩?」


 風に乗って飛んできた粒子を受け止めて、エルミナは指の腹で確かめる。……とても粒の細かい、真っ白な塩の結晶だった。


 ぺき、ぴき、ぱきばき、ぱ。


 ティアの巨躯は、端から徐々に塩の柱へと変化していく。塩に変わった部分は、自重に耐えられず、細かな欠片にどんどんと崩れていってしまう。


「ああぁ、ティアさんが……!」


「いや、彼女だけじゃない! 街が!」


 王都の城下町全体を押し流していた赤い濁流は、いつしかその流れを止め、静かに水を湛えているだけの状態に変わっていた。

 ——その赤い水が、すうぅっと透き通るように、無色透明の水に変化していく。


 その移り変わりは劇的だった。

 赤い雨と濁流と人々の悲鳴に覆われていた王都は、一瞬にして雲が晴れ、雨が止み、押し寄せる濁流は止まり、静かで、透明な世界に変わった。


「……一体何が、起こっているんだ」


「きっと、ナギくんなのです」


 これまでの永い生の中でもこんな現象は見たことがないと驚愕するエルミナ。その隣でイニィはあの巨きな魔獣にとっての大切な人がやってくれたのだ、と根拠なく、そう信じる事ができた。



世界破壊者ワールド・デヴァステイター


 深淵種アビス 『真白く輝く滅亡びの災厄ヌゥル・ティアマトリカ


 の『仮面ペルソナ』は消滅しました。

 

 世界創造者ワールド・クリエイター


 天壌種エターナル霊魂抱擁せる深淵の海母神ティア=ティアマート』が


 再顕現リ・インカーネイトします。】



 ティアの体が大きくひび割れ、中から真っ白で激しい光が漏れ出す——!!


 ぱきいいぃぃぃぃぃぃんんんん!!!!


 結晶体が砕け散る甲高い音が王都上空に響き渡る。


 ……ティアの巨大だった身体が砕け散り、巨きな塩の塊がどおっと地面に向かって降り注ぐ。——その中で、空中に浮かび続ける光があった。


 海の色。

 太陽光を反射して揺らめく、海面の眩しさ。

 海の底から見上げた揺蕩う陽の光。


 相反する二つのイメージが想起されるような、妖しくも美しい、そして温かい光が空に輝いている。



『くるるるるるるるるるるるるるふふふっ』



 ——王都中の水が、徐々に引いていく。

 血液によって溶かされ、崩れ落ちた建物たちが時計を逆回ししたように元の形に戻っていく。


「あ、あ、ああ、そんな」


 イニィの眼に映ったのは、空に浮かんでいる魂の光が、再び地上に向かってしている光景であった。

 

(あり得ない! たとえ神様であっても『この世界の根本原則』を違えることはできないのです! ……できるとしたら、その『根本原則』を創ったカミ、本人しか——)


 ぞおぉっ! とイニィの背に怖気が走る。

 ……一度に気が付いてしまうと、明らかにこれまでの『深淵種カミサマモドキ』の気配ではなく、もっと高く、もっとの存在であると、心で理解してしまった。


「アレは……アレは何なのですか」


「【天壌種エターナル】……!? 『深淵種アビス』が進化したのか? いや、元の形を、取り戻した……?」


 人類の守護者であるエルミナ・エンリルは目の前で起こっている現象に対して強く脅威を抱いた。……まだ、の存在が人類にとって敵か味方か分からなかったのだ。


「…………! イニィ、今なら『抜ける』ぞ」


「【星神剣】が目覚めたのですか!?」


 【星神剣セレスティアルディヴァィバー】

 人類の守護者である『神聖騎士ディヴァインナイト』にのみ与えられる神器のつるぎ

 ただし、その剣は持ち主の意思では振るう事ができず、世界の存亡がかかった危機的状況にのみ目覚める。


(……それは今この瞬間に、世界が終わるかもしれないということなのです。……あれは本当にティアさん、なのでしょうか)



 輝きの中で、その光はゆっくりと輪郭を形造り、姿を顕した——。

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