第41話 神明裁判ⅩⅧ 青く輝く永久の浜辺で


 『自分』の名前と形を思い出して、俺はやっと俺のことを取り戻した。


 その上で、ようやくこの世界がどんな場所かを認識することができるようになっていった。


「広い……これは、何の音だ?」


 そこは色彩の無い、白黒モノクロの空間だった。

 足の裏にサラサラと流れるものを感じる。

 ……細かい砂だ。踏んでも柔らかく足の裏を押し返すだけで、小石を踏んだような痛みはまるでない。


 遠くで繰り返し、繰り返し聞こえる音がある。

 俺にとってそれは、初めて聞く音だった。

 だが、同時にどこか懐かしく、はるか昔に何度も耳にしたことがあるような音だった。


 無意識に音のする方へと歩みを進める。

 この世界では歩いた時間や感覚がとてもわかりにくい。十分か、一時間か、あるいは一日かを歩いた後。俺はその場所に辿り着くことができた。


「う、わぁ……なんだ、これ……」


 俺の目の前。

 白と黒と影の輪郭だけの世界で、それだけが青く輝き、何度も何度もこちらへ打ち寄せていた。その度ごとに繰り返される優しい音が体に低く響く。


 俺はを初めて見た。

 だから、俺はそれの『名前』を知らなかった。


「ええっと、なんだっけ、確か昔何かで読んだような……」


「うみ、っていうんだよ」


 突然、俺の隣から声がした。

 腰くらいの高さからだ。


 驚いて横を見る俺。

 ……真白い服の、真白い髪の、少女がいた。

 

「ふふふ、そんなにびっくりしないで。……ここはね、『きおくのうみ』。ここにみんなのおぼえていること、おもいだしたくないこと、そしてわすれたくないことがあつまって、おおきなみずたまりになっているの」


 少女は「いこう」と俺の手をとり、砂の上を歩き出す。俺は何の疑問も抱かず、少女に手を引かれるままに歩き出した。


「ここは『わすれじのはまべ』。きおくのうみからあふれたものが、ながれつくばしょ」


「……俺は、俺もそうなのか?」


「わからない。だれかがあなたをおもいだしたのなら、そうなのかも」


 そのまま手を繋ぎながら、砂浜を歩いていく。


「あれは……」


 遠くに大きな建物が見える。

 ……古びた木造の修道院だ。


『お母さんやみんなに、酷いことをしないで下さい』


 泣きながら頭を地面に擦り付ける少女。

 ……何に懇願しているのかは、分からない。


「アリサさん……」


 だけど、その女の子のことを俺は知っていた。……だから、何があったのか、誰に頭を下げているのかは、何となくわかってしまった。


「アリサさん、アリサさん! もういいよ!」


『お願いします。もうやめて、やめてください……』


 泣きながら項垂うなだれるアリサさんに俺は声をかけるが、彼女から反応が返ってくることはなかった。


「……むだだよ。ここにあるのは、かこのきおく。いつかのむかしにあった、いまはもうかえられない、こころのきず」


「そんな……!」


 それきり黙って、白い少女はまた同じペースのまま歩いていく。

 俺もまた、手を引かれるまま、先へと進む。


 それこらも次々に色々な記憶のかけらが浜辺に打ち上げられていた。


 中には楽しかった思い出や嬉しくて感激した瞬間の思い出もあった。


 だが、それらの多くは悲しい出来事、悔しい思い、強い怨みなどの辛い記憶がほとんどを占めていた。


「君は、ずっとここにいるの?」


 俺は隣の少女にそう問いかけた。

 ……こんなのをばかり見ていて、彼女まで辛くならないかと思ったのだ。


 俺の問いかけに、少女は少し目を伏せる。


「……わたしは、ずっとまえからここにいる。わたしのせかいはここで、ここいがいをわたしはしらない。……だから、あなたがきてくれて、とてもうれしいの」


 顔を上げた少女の目には、どろりとした、何か熱っぽい感情が込められている気がした。

 ……少し、俺はたじろいでしまう。


「ねぇ、あなたもずっとここにいてね。わたしをおいて、どこかへいったりしないで。……ここで、ずっといっしょにいようよ」


 少女は足を止め、両の手で俺の腕を掴む。

 強い力ではなかったが、必死だということは伝わってくる。


「ごめんよ、俺は……探してるんだ。きっと、この浜に居るはずだから。俺が絶対に忘れない、大切な……あれ」


 大切な……何だっただろう?

 ついさっき、いや何日か前に、その名を呼んだ、呼んだはずの、名前は、名前は何だっただろう……。


「あ、れ……俺、どうして……」


「おもいだせない? ……でも、それはあなたにとってはいいことなのかもしれない。ここはしんだあとのたましいが、おもたいにもつをおいて、“とうめいなたましい”にうまれなおすためのばしょ。だからみんな、たいせつなことをわすれていく」


「え……」


 死んだ? 俺、死んだのか?

 ……そういえば、ここに来る前の記憶が酷く曖昧だ。


 天を覆う大きな影。

 頼もしさと共に恐ろしさを感じる。

 俺が助けなくちゃいけない、という思い。


 断片的な記憶だけが、浮かんでは泡のように消えていってしまう。……それが取り返しのつかないことのようで、俺は急激に息苦しくなる。


「……なんだ? 俺は、何を、何をしなくちゃいけなかった!? ダメだ、忘れるな! 忘れちゃ、ダメなのに……——」


「だめ、むりにおもいださないで。あなたがここにいられなくなる。……たましいが、こわれてしまう……!」


 ピシッ


 左側の視界が欠けた。

 顔の左半分に、大きなひびが入ったみたいだ。

 それでも俺は、何かに、何かを、手放したくないものをもう一度手に取るために、必死で、必死に思い出そうとする。


 ビキッ、パキ、ピキン、ビシッッ!


 きっとそれは、摂理に逆らうことなのだろう。

 それはこの世に残る「未練」で「呪縛」なんだろう。……全部忘れて、透明な魂に戻った方が、きっと本当は良いんだろう。


 でも、俺は、どうしてもそれが嫌だった。

 大切で、絶対に忘れたくない。

 死んだって、魂が砕けたって、俺は——



【魂魄への過負荷により、ナギ・アラルの存在に対する不可逆の変容が発生します。これは凡ゆる手段で回復が不可能です。】



 『世界の声』がこんな場所でも聞こえる。

 でもここが何処かとか、俺がどうなるとか、そんなのは全部全部どうでも良かった。


 思い出そうとするたびに、指先が砕けて落ちる。脚が膝下から砕けて、俺は砂浜にひざまずく。

 ……ちょうど同じくらいの目線になった少女が、泣きそうな顔で俺のことを見ている。


「もう、やめて。やだよ、あなたがこわれていくなんて、わたしはみたくないよ。もう、あきらめてよ」


 白黒モノクロの世界の中で、

 真白い少女の眼から、

 透明な雫が零れた。


「……ごめんな、俺、ちゃんとそばにいるって、約束したのにな」



【警告。魂魄の損壊が回復限界点を超えました。ナギ・■ラ■の存在が■滅し■い■■す。】



「やだよ。どこにもいかないで。わたしのそばにいて。おいていかないで」


 消えていく。

 四肢が先端から多面体の泡に変化して、弾けて消えていく。体が失われるたびに、能力と記憶と意思とが消えていく感覚が分かる。

 ……だけど、消えていく記憶の奥底に、一番大切にしている、一番大事な記憶が浮かび上がってくる——。


「ちがう。この記憶じゃない。これも違う……!」


 あの日、あの森の、小さな祠のそばで。

 忘れないように、って神様の名前をもらったんだよな。


 森の小さな祠の中の、

 子供の頃から見守っていてくれた

 俺の、かみさま。






「……ティア。……ティアなんて名前、どう……か、な?」



 

 バキン



 全身を繋いでいた胴体に大きな亀裂が入ってて、砕けた。ついに俺は、粉々になって砂浜に散らばる。



「……っ、それが、わたしのなまえ。わすれないでいてくれた、あなたがくれた、わたしの大切な名前!!」



 きゅるるるっ!!



 少女が嬉しそうに

 その一声で世界が、白黒の世界が空に反転するみたいに捲れ返って、裏返っていく……。

 

 

【■■■:ナギ・■ラ■によって第三の鍵『神愛アガペー』を確認。『真白く輝く滅亡びの災厄』の封楔が最終段階まで解放されます】



 ザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザ

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 ザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザ

ザザザザザザザザザザザザザザザザザザザザ



【■■■■による真名のの痕跡を発見。元型アーキタイプへの復元を試みます】




【“驚異的成功クリティカル!!” 

 『はじまりのなまえアーキタイプ』の完全復元に成功しました。


霊魂抱擁せる深淵の海母神ティア=ティアマート』が再顕現リ・インカーネイトします。】

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