第15話 迷宮迷路Ⅲ 目醒め


 ぴちょん、と顔に水滴が落ちた。


 

 水滴は連続して垂れて頬を打ち、雫はそのままつぅーっと溢れていく。


 ひんやりしている。

 体に籠った熱が冷めていくようで、気持ちが良い。

 ……でも、ちょっと生臭くない?


「ん?」


 いつにも増して重たいまぶたを何とかこじ開け、ぐらぐら揺れる視線を時間をかけて前方にピントを合わす。


「んー?」


 ギラギラと輝く、金属質の光沢を放つ牙。

 血の色をした長い舌がぞろり、と俺の顔を一舐めし「わぷっ」、


「ごぉああああああああああああっっ!!」


 一声、鳴いた。


「ええええええ!!!? なにコレ!?」


 思考が一気に明瞭になる。

 俺の上半身ごと一噛みで両断できるだろう、このずらりと並んだ歯牙の持ち主は——!


(魔獣、マンティコア!? 何でこんなところに!)


 人間の顔と獅子の体躯、蝙蝠の羽と蛇の尾を持つ半人半獣の魔獣。ダンジョンの下層以下にしか出現しないはずのモンスターが、何故俺の眼の前に!?


 この時の俺のことをクロウさんが見ていたら「判断が遅い!!」といってダブルラリアットを喰らっていた事だろう。あぁ、そんなことばっかりに思考のリソースを回していたら、逃げ遅れた。ってか、あれ、身体が上手く動かない!?


「ぐあーん」


「いやぁぁあああ!! 成人男性は食べても美味しくないですよーっ!!」


「くるるるっ、ふしゅっ!」


 ひゅっ、ぱぁあん!!

 風を切る音と、空気の壁を突き破る裂帛音。

 ティアの真白い触手が、視界の外から雷霆の如き速度で振るわれ、マンティコアの頭蓋骨をトマトのようにばちゃーん!っと叩き割った。


 ざばしゃーっ!

 目の前で粉砕されたマンティコアの頭部から噴き出す血飛沫をまともに浴びて、俺はようやくしっかり目が覚めた。


「お、おはようティア。なかなか素敵な目覚めだね」


「きゅーっ、るるるる!」


 ティアは嬉しそうに喉を鳴らす。

 俺の着替えの服は……うん、無いよね。考えるのはよそう。



 ++


 改めて、現状を確認したい。

 

「ティア、ここがどこだか分かるか?」


「……きゅいきゅい」


 ……そうだよなぁ。ティアもダンジョンに潜るのは今回が初めてだ。一度通った道ならばそれでも分かるかと思ったが、周囲はどう見ても一層、二層の景色ではない。


 稲光が轟く黒雲立ち込める断崖絶壁。

 一歩歩くだけで今にも崩れ落ちそうな岩壁の回廊をひたすら進んでいく構造。……これは。


「おいおいおい。ここ、もしかして“下層”なんじゃねぇか……?」


 痺れてまともに動かない体を、なんとかよじって上半身を起こす。

 見渡す先に、俺も先輩冒険者からの話でしか聞いたことのない光景が広がっていた。


 ダンジョン下層。

 ダンジョン入り口から上層、中層を踏破してきた多くの冒険者たちが、更なる名誉と報酬を目指して挑戦し、屍を積み上げていったのがこの『下層』だ。

 そこはこれまでの階層と比べると桁違いに高い経験値と貴重なアイテムが入手できる反面、悪夢じみた怪物たちが普通に闊歩しているような魔窟だ。


 下層に踏み入るために、冒険者ギルドが推奨する水準は『最低、中位冒険者以上』。【クラスチェンジ】を経て、超人的な能力を得た冒険者が、それでも呆気なく命を散らす場所が『下層』なのだ。

 

 難易度と死亡率を跳ね上げている理由として、下層に出現するモンスターがそれまでのエリアと比べて「ただただ、圧倒的に強い」ことが挙げられている。

 一つ手前の中層最終階層を危なげなく踏破したパーティが「下層に挑戦する」と言い残して消息を断ち、砕けた装備品だけが発見される事例は、偶にだが発生する。


 安易に踏み入るものを生きては返さない魔境——そんなダンジョン下層に、今俺はいた。


(あれ、俺、何でこんなところにいるんだっけ……?)


 ここに来る前の記憶が曖昧だ。

 そうだ、俺は確か、三人の新人冒険者たちに頼まれて、ダンジョンの案内を——


「っ!! そ、そうだ! アリサさんたちはっ!?」


 瞬間的に、脳裏に光景がフラッシュバックする。


 崩れ落ちる岩壁。

 ティアの絶叫。蠢く無数の触腕。

 誰かの嘲り笑う声。

 アリサさんの手に握られた血の付いた小刀ダガー


(そっか、そうだった……。はは。思い出しちゃったよ)


 ……そうだ。

 俺、騙されてたんだっけ。


 一緒にダンジョンに潜った三人。

 彼らが冒険者として新人だというのも、皆が幼馴染であるというのも本当だろう。だから、彼らから俺がつかれた嘘というのは、最初から俺のことを罠に嵌めるつもりで近付いてきた、という一点だけだ。


(そっかぁ。やっぱりそうだよなぁ。俺自身はまだ何も成し遂げていないもんなぁ)


 ……頭で分かっていても、結構ヘコむなぁ。

 自分でも恥ずかしくなるほど、彼らから向けられる先輩冒険者への尊敬の視線が気持ちよかったんだろう。


「……あー、俺って本当に進歩がない。ちょっと考えたら分かるだろうに、浮かれやがって」


 俺はダンジョンに潜ってからの自分の行いを振り返ってみた。……うん、後輩に頼られて調子に乗ってたな。相手は新人と侮り、まるで警戒心がない。さぞかし、騙しやすい事だったろう。


 それで、あの『屑捨て場』は恐らく転移系の罠が仕掛けられた部屋だったのだ。だが、新人冒険者でダンジョンに潜った経験に乏しい彼らがあの場所を始めから知っていたとは考えにくい。——誰かからの入れ知恵だろうな。


 俺のことを罠に掛けた主体者が彼ら三人じゃないと考えると、他の誰かの思惑が見えてくる。


 利用された新人冒険者たち。

 猛毒の小刀ダガー

 転送罠。

 そして、そこに誘い込むシナリオ。


 脳裏に浮かぶのは、ニヤついた口元と下卑た笑い声。

 ……自らの手を汚さない回りくどい手口が、逆にヤツの存在を際立たせていた。


「————ギース……っ!!」


 奥歯をギチリ、と噛み砕かんばかりに噛み締める。目の前が真っ赤に灼けるほどの怒りを覚える。

 ヤツの腐ったやり方はよく知っている。だから、ガドやザックス、アリサさんが何を理由にギースの命令を聞かされていたか、俺には容易に想像が付いた。……それが、臓腑が煮え繰り返る程に腹立たしい。


(平気で無関係な人間を巻き込みやがって……! 次に会ったら、必ずツケを払わせてやる)


 首謀者はおそらくギースで間違いないだろう。

 だがそれが分かって、逆に彼ら三人の意思ではなかったと信じられる要素となった。それに——


『ナギさん、ごめんなさい。


 毒の小刀ダガーを突き刺す瞬間、アリサさんは俺に治癒魔法【解毒キュアポイズン】を掛けてくれていた。

 結果としてナイフで刺された瞬間に毒の効果は一瞬だが俺に回り、あの場では意識を失うことになってしまった。——だが、これまでのアリサさんの言動から、彼女は本当には俺を殺す意志は無かったんじゃないかな、と思う。……これも、考えが甘いだろうなぁ。


「るるるるる……!」


「……う、ごめん。ティアの言う通りだった」


 ティアは怒った声を出しながら、頭を俺のお腹に擦り付けて、無事を喜んでくれている。

 心配かけてごめんなぁ、反省してるよ……ん? てかキミ、ちょっと大きくなった?


「きゅ?」


 つぶらな八つのお目目で見返してきて、とてもきゃわきゃわではあるのだが、目線の位置が、上半身を起こした俺と同じ高さにある。

 ……理由は定かではない。定かではないが、ティアは体高約一メイル程に成長していた。

 


 ……その時俺はまだ気が付いていなかった。


 このダンジョン下層に俺とティアが転送されてから俺が毒から回復して目覚めるまで、実は丸一日近い時間が過ぎていたということも。


 俺の後ろで長く長く伸ばされたティアの触手が、頭を潰されたマンティコアの死骸をザリザリと地面を擦りながら『マジックバッグ』であるバックパックに引き摺り込もうとしていたことも。


 


 体の痺れが取れず、いまだに上手く身体が動かせない俺は、そんなこと、一つも、気が付いていなかった——。


 

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