【第一部完結】超越のリプロトコル

喜楽寛々斎

序章 捜査官の隠し事

 もし、その捜査官が己の秘密を守ることを優先していたら、花巻はなまき皐月さつき警部補はあえなく殉職じゅんしょくしていたに違いない。


「朝倉ぁ!!」


 叫びと、ガラガラァン!と金属ポールが地面にぶつかる音が、空気を裂いた。


 迫る死に反射的に閉じた目を開けると、犯人と皐月の間にすらりとした背中が割り込んでいる。思わず息を呑んだ。皐月をかばった朝倉捜査官の左前腕が大きくえぐれて、ぼたぼたと血がしたたっている。


「朝倉さん!」


 皐月は悲鳴を上げて彼の左腕に取りすがり、しかし次の瞬間、違和感に気づいて動きを止めた。血溜まりができるほど出血しているのに、血の匂いが全くしない。


 ———……これ血じゃなくて、循環液……?


 自分の手についたものをよく見れば、赤ではなく透明感のあるだいだい色の液体だ。見覚えのあるそれは、現代テクノロジーの粋を凝らした人工人類に使われる循環液だった。


「大丈夫、パーツが外れただけですから」


 この騒ぎの原因から視線を外さないまま、彼は何事もなかったようにそうささやく。皐月は信じられない思いで、その横顔を見つめた。


 ———朝倉さんってアンドロイドなの?全然わからなかった……


「ぁあ、あアぁ……」


 背筋が冷たくなるようなうめき声が、皐月を物思いから現実へと引き戻す。二人の視線の先には、右手に〝止まれ〟の標識ポールを持った細身の青年が立っていた。彼はまるで酒に酔ったかのように揺れながら、掠れた声で呟く。


「……もう一匹、いた、のか……」


 ところ構わず暴れていたところを通報されたその若い男は、電子ドラッグでも使っているのかひどく錯乱した状態だった。駆けつけた皐月や先端技術犯罪対策局ACBの捜査官たちが何を言っても会話は成り立たず、それどころか彼は左手に持っていたスクールゾーンの標識ポールを槍のように投げつけてきたのだ。もし朝倉捜査官が弾き飛ばしてくれなければ、力任せに捻り切られたその凶悪な先端に貫かれ、皐月は無事ではすまなかっただろう。


強化義体サイボーグか……そうじゃないなら、ドラッグのヴァンピーかも……ここまで筋力が増強するなんて聞いてませんけど」


 唇を噛んで、皐月は呟く。普通の人間に、あの太さの金属ポールを捻じ切ることはまずできない。ひょろりとした頼りない体つきをしている割に、青年はさきほどから信じがたい怪力を発揮していた。その上、正気を失っている。非常に危険な状態だ。


 ———私のスタン銃だと効かないかもしれない……


 皐月の持つ銃型のスタンガンは、普通の人間であれば十分な威力がある。しかし異常状態に陥っている相手にはどうにも心もとなかった。


 ———実弾を撃つ覚悟も、しておいた方がいいかも……


 そう思いながら腰のホルスターに手をかけた皐月の視線の先で、ゆらゆらと揺れていた青年がふいに表情をやわらげる。彼は何もない空間をしばらく見つめてから、ひとつ頷いた。


「大丈夫……僕が、守るから、ね」


 その言葉を聞いた瞬間、朝倉捜査官が苦々しげに呟く。


「これはたぶん、〝英雄ゲート〟ですね」

「英雄ゲート?」


 皐月が聞き返すと、彼は険しい顔で青年を見つめたまま頷いた。


「生体干渉系の変身トランスフォームアプリの中でも、最近流行りだしたたちの悪いやつですよ。ヴァンピーより厄介かもしれません。AIによる自然な性格誘導補佐アプリをかたっていますが、インストールすると悪質な侵食が行われます。ちょっと勇気を出しやすくしたかっただけなのに、英雄のように振る舞えているのは使用者の認識の中だけで、気づいた時には肉体も社会的な部分も致命的にズタズタになっている。そういう悪意のアプリなんです」


 朝倉たちが所属する先端技術犯罪対策局ACBは、時に皐月たち警察官と功を争う油断ならない相手でもあったが、反面こういう時には非常に頼りになる。不正な変身アプリの存在は皐月も知っていたが、ここまで細かい情報はまだ耳にしていなかった。


「おそらく、今の彼には我々が化け物のような姿に見えているはずです。そしてその化け物に怯える、架空のか弱い人々の姿もね」


 朝倉捜査官が付け足したことに、皐月は愕然とする。


「……それじゃ、さっき私に攻撃してきたのも……なにかを守ろうとしてのことだったと」

「ええ。彼の認識の中ではね。本当、胸糞の悪くなるアプリですよ。悠仁さんの睨んだ通り、これは完全にうちの案件ですね。拘束しますので、少しお下がりください」


 言いながら、彼は一歩前へと踏み出した。


「お兄さん、いいんですか? 今のあなたは人を守る英雄ヒーローではなく、おびやかす悪役ヒールの方に勝手にされちゃってるみたいですよ?」


 しかしその呼びかけも、やはり届いてはいないらしい。青年は不明瞭な呻きをあげるばかりで、何の反応も見せなかった。もしかしたら近くにいる人間の声は、彼の中では化け物の鳴き声のように変換されているのかもしれない。


「仕方ありません。強制確保に入ります」


 言うなり、朝倉捜査官は一気に青年の方へ踏み込んだ。その急な動きにも反応した犯人は、人間離れした力でポールを振り下ろす。それを危なげなく受け止めると、朝倉捜査官は逆にポールを強く握ったまま引き寄せ、相手の動きを固定した。


ブレインマシンインターフェイス部以外は全て生身です!」

「———了解」


 いつの間にか死角に回っていたもう一人の捜査官が、驚くべき速度で青年に肉薄し、そこからはあっという間だった。捜査官が持つ多目的銃マルチガンから強い火花が散り、次の瞬間、犯人はあっけなく崩れ落ちる。意識を失った青年を手早く拘束している彼らを、せめて手伝おうか、余計なお世話だろうかと皐月が迷っていると、


「花巻! 大丈夫か!?」


 応援を呼んでいた東堂警部が駆け戻ってきた。


「私は平気です。……情けない話ですが、危うかったところを彼らに助けていただきました。犯人の錯乱の原因は、英雄ゲートという生体干渉系の変身トランスフォームアプリのようです」

「ああ、あれか。噂には聞いていたが、遭遇したのは初めてだな。彼らが来てくれて幸いだった。犯人は……」


 捜査官たちの方を見た東堂の顔がいぶかしげに歪んで言葉が消え、まさか犯人が復活したのかと慌てて振り返ったが、青年は拘束具をはめられて相変わらず地面に伸びている。


 しかし次の瞬間、皐月は驚愕した。犯人を取り押さえたがたいのいい鋭い目つきの捜査官———確か嘉口と名乗っていた———が、殺気を放ちながら多目的銃マルチガンに向けていたからだ。


 ———ちょっ、ちょっとちょっと、どういうこと!?


「あらまぁ悠仁さんったら、それは冗談がきついですよ」

「そうか? 違法アプリで変身したちゃちなヒーロー殿より、お前の方がよほど問題があるんじゃないかと俺は思うが……なぁ? 朝倉」


 何がどうしてそうなったのかわからないが、間違っても口を挟める雰囲気ではない。なにしろ皐月は彼らの事情どころか、ほぼ同時に現場に駆け込んできた時に名乗りあった所属と苗字しか知らないのだ。


「落ち着いてください。話せばわかります」

「人間の振りをして紛れ込んでいるAI野郎と話すことなんざ、ひとつもないと思うが」

「やですねぇ、そんな意地悪言っちゃって。嘘も方便ってやつじゃないですか」


 今にも視線で殺戮を始めそうな相棒とは打って変わって、銃を突きつけられている朝倉捜査官は呑気のんきな調子で受け答えしている。


「ほらほら、花巻警部補と相棒さんもびっくりしてるじゃないですか。とにかくその物騒なものを下ろしてくださいよ。じゃないと、今度はあなたが通報されちゃいます。不適切対応でせっかくの特務捜査官が降格にでもなったら、もったいないじゃないですか」

「気遣い痛み入るが、俺は元々自分の階級にはこだわっていない。むしろお前のせいで、今すぐ降格したくなった」


 察するに、どうやら朝倉捜査官がアンドロイドであったことが問題であるらしい。


 ———でも、先端技術犯罪対策局ACBの特務捜査官の副官が、高機能AI制御の何かなのは周知の事実だと思うけど……


 自分の相棒にも関わらず、どういうわけだか嘉口捜査官はそれを知らなかったようだ。そしてそれは彼にとって、反射的に銃を突きつけるほどに大問題であるらしい。


「お前は一体なんなんだ、朝倉」

「あなたの頼れる相棒ですよ、悠仁さん」


 心底憎々しげな問いかけに、朝倉捜査官はにこりと笑ってそう答えた。


 結局その不穏な膠着こうちゃくは、血相を変えた彼らの上官が現場に走り込んでくるまでしばらく続いたのだった。

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