三章 ルカの正体②

「おひっこし〜おひっこし〜」

「黙って歩けないのか、お前は」

「喜びはすかさず表現するたちでして」

  

 苦虫を噛み潰したような顔の悠仁に連れられて、ルカは機嫌よくライムグリーンのスーツケースを引いて歩いていた。引っ越しのため今日は珍しく定時で上がり、新居へと向かっている真っ最中である。

  

 悠仁が暮らしている部屋は、本局から徒歩で十五分ほどの距離にあるらしい。もともとルカにあてがわれた部屋はもっと近かったが、なにしろ単身の下級捜査官用のワンルームマンションだったのでかなり手狭だった。


 一方、特務捜査官ともなれば様々な点で優遇され、部屋は借り上げの高級レジデンスになる。もれなく不機嫌な家主はついてくるが、住環境は一気に良くなる———何はともかくミニキッチンが海外製の高級ビルトインキッチンに進化する———のだから、ルカにとっては悪い話ではない。

  

 基本的にバイク通勤の悠仁だが、今日は帰りがけに馴染みの修理屋に寄って愛車を預けてきた。大型のスーツケースがあるため無理に乗れば過積載になってしまうし、〝どこかの誰かに無茶苦茶させられた〟チェックもかねて、整備に出すことにしたようだ。

  

「おい、なんなんだよ、これは」

  

 彼は自分が肩にかけている、歩くたびにガチャガチャ鳴る買い物袋を睨んで呟いた。ルカが日本に来て以来買い足して、スーツケースに入り切らなくなったものをチャックつきの袋に入れたのだが、金属製のが思い切り外に飛び出しているため気になったらしい。

  

「愛用の鉄のフライパンですよ。食材が美味しく焼けるんです。あとは調味料とかも入ってます」

「AIのくせに妙に食い意地が張っているとは思ってたが、料理まですんのか?お前は」

「もちろんです。ちなみに、悠仁さんが時々純君から渡されてうまいと褒めていたお菓子たちは、何を隠そうこの私が作りました」


 ルカが笑いながら伏せられていた真実を明かすと、「小林の奴……!」と悠仁はうめいた。


「ちなみに職人仕込みの美味しい餡子あんこだって炊けちゃいますよ。引っ越し挨拶がわりに、ルカちゃん特製ぜんざいとか最中もなかをご馳走してあげますからね」

「いらん。俺は餡子は苦手だ。豆が甘いのはどうにも違和感がある」


 それは初耳だ。そういえば、彼は出張のお土産が色々置いてあった中で、饅頭には手をつけていなかったことを思い出す。


「そうですか。じゃあ抹茶タルトにしますね」


 さらっと代案を出したが、こっそり観察してきた限りで、彼が一番断らないであろう選択肢を抜かりなく選んでいた。次点の候補はチーズケーキだ。


「……勝手にしろ」


 狙い通りの返答にルカが満足げな顔をしたところで、ふいに大きな声が聞こえてきて二人はそちらに目をやった。

  

「本当に申し訳ありません!」

「大丈夫大丈夫、水だから大したことはないよ」


 どうやら店先の鉢植えに水をやっていたところ、うっかり手元が狂って通行人にかけてしまったらしい。店員たちが平謝りしながらタオルを差し出し、受け取った中年の男性は寛容に笑って服を拭いている。


 一瞬あらわになったその右腰に、刺青いれずみが入っているのが見えた。円形に文字が並び、真ん中に氷のような模様が入っている。なんの意匠だろうかと気になったルカは、その画像記録を内部データに残してから彼らの脇を通り過ぎた。



  *    *   *


  

「お邪魔しまーす。いえ、相応しいのはただいま、でしたね」

  

 悠仁の部屋はひどく静かだった。人感センサーですぐさま明かりはついたが、それだけだ。


「あれ? このお部屋……住居用のAIコンシェルジュ、ついてないんですか?」


 地方であればいざ知らず、この都市部において備えられていない部屋は昨今珍しいだろう。なんにしても便利であるし、多少の話し相手にもなるからだ。もちろんその部屋のグレードによって、どのくらいの性能のAIがつくかは変わってくるが。


「切ってる。俺がそういうもんが嫌いなのは、お前も身に染みてわかってるだろうが」


 悠仁はぶっきらぼうに言うと、鞄をソファにガチャンと降ろした。


「便利ですのに」


 ルカはそう言いながら、これまで見てきた誰のものとも違う様子の部屋に、思わず押し黙ってあたりを見回す。


「……」


 生活感が、まるでなかった。


 住宅展示場のような整った部屋ということではない。人間らしい生活に必要なものさえ、揃っていないように見えた。がらんどうとでも言うのか、人の暮らす家の持つ温もりや空気感がほとんど感じられないのだ。


 一部打ちっぱなしのコンクリート壁は、本来であればスタイリッシュを狙ってのことだろう。しかしこの空間においては、ただ寒々しくしか機能していない。まるで打ち捨てられたガレージかなにかで暮らしているようだった。


 AIコンシェルジュが稼働していないため調光もされておらず、白色味の強い灯りが冷たい部屋の中を一層白々と照らしている。


「……あらまぁ、せっかく送ったハグロビィも箱に入れっぱなしですか」


 ただ適当に置いたのか、あるいはAI嫌いのあまりにその機体すら見たくないのか。卵に近い形状をしたハグロビィが覗ける前面部ではなく、注意書きが書かれた箱の背面が見える状態で部屋の隅に追いやられていた。


「だから使わねぇって言っただろうが。ああそうだ。責任とってこれはお前の部屋に引き取れ。ご同輩に世話してもらったらどうだ」


 嫌味と共に押しつけられた箱を受け取り、ルカはなんとも言い難い気持ちで悠仁を見上げる。


「びっくりするぐらいミニマルなお部屋ですね。いかしたソファセットがあったのがせめてもの救いですが……ヴィンテージがお好みですか?」

「そのソファは引っ越し祝いとか言って、笹尾局長と百瀬課長が勝手に置いていったものだ」


 予測を遥かに上回る悠仁の無頓着さに、ルカは小さくため息をついた。恐らく課長たちが置いていかなければ、彼はそのまま床で生活していたに違いない。二年も前からこの部屋に住んでいるはずなのに、リビングにはコーヒーテーブルはおろか、敷物すらなかった。というか、ソファとその上に乗ったタブレット端末以外なにもない。


「……なるほど」


 恐らく湯を沸かすくらいしか使っていないのだろう。ルカは立派な置き物と化してしまっているらしいキッチンを覗いた。そっけないデザインのケトルがひとつ置かれているだけで、やはり料理をした痕跡はまるでない。


 作りつけの棚に、かろうじて皿が一枚と先端技術犯罪対策局ACBで配布されたらしい記念マグ、それからフォークとスプーンが一本ずつ。プロテインの大袋とシェイカー。その隣に置かれた使いかけのインスタントコーヒーのボトルを見れば、半年も前に賞味期限が過ぎている。


「悠仁さん、これ期限切れてますよ」

「問題ない。飲める」


 こともなげに彼は言った。引き出しの取っ手に引っかけられたゴミ箱代わりらしいビニール袋を覗けば、エネルギーバーの包み紙が所在なさげに転がるばかり。

  

「おい、なにしてるんだ、早く来い。……こっちがお前の部屋。好きに使え。ただし俺の生活には干渉するなよ」


 それだけ言い残して、悠仁はさっさと部屋を出て行った。


 ———まずはカーテン、ですね……


 日が暮れ始めた眼下には、ぽつぽつと灯りが増えつつある。悠仁の部屋はこのレジデンスのなかでは中層に位置するが、周りに高い建物はあまりないため眺めは良さそうだ。


 恐らく彼の入居以来、なにも置かれていなかったであろう空箱のような部屋の中で、ルカはさきほど目にしたものを思い返し、どうしたものだろうかと考え込んでいた。

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