十章 リ・プロトコル③

「ハハ……いや、なるほど、なるほどね……これは嬉しい誤算だ。ユージーン、君の再手続きの鍵リ・プロトコル・キーは、まともに起動するんだね?……さすがは偉大なる先達の手によるものだ」


 笑うテオドールのその声が、妙にゆっくりと聞こえた。声だけではない。ありとあらゆるものが、やけに遅く見える。まるで誰かが世界にスロー再生をかけたかのようだ。


 これまでの自分はなんだったんだろう、と悠仁は思った。肉体の重さを感じない。重力を感じない。思考の雑音ノイズを感じない。不要な概念は取り払われ、ただ軽く、全てが明瞭で明晰だった。それは例えるなら、何かを望めば一直線にそこへ向かう道筋がわかるような。ここには阻む時間も、距離すら存在しないのだ。


「おわっ……!!」


 突然ガガッと地面が大きく振動して、ブライアンは盛大に体勢を崩しテオドールとぶつかった。悠仁はふらつくこともなく立ったままだ。


 ———島が降下する。


 どうやら百瀬がコントロールルームを見つけて操作したらしい。高度が下がり始めていた。


「やれやれ、これはが悪いな。仕方がない。今回はこれで退こう、ライアン」


 呟いたテオドールは、その無事を確かめるようにふところから何かを取り出す。中に何かが入った、透明な円筒だ。ブライアンも気遣わしげにそれを見つめた。


 ———あれだ。二人がぎりぎりまで、ここを離れなかった理由は。


 見た瞬間に、なぜかわかった。それがなにかもわからないのに、なぜかそれだけはわかった。


 悠仁は二人に駆け寄り、迷いなく手を伸ばす。気づいたテオドールの顔に、初めて余裕以外のものが浮かんだ。彼はそれを悠仁から遠ざけようと掴んだ手をぎりぎりまで伸ばし、悠仁の指先が筒にかすった勢いで、それは弾かれて地面に落ちた。ごん、と思いのほか重たい音を立てて、そのまま転がっていく。液体に満たされた透明な円柱の中には、テオドールの目ととてもよく似た色の、正八面体の鉱石のようなものが見える。二人は互いに相手に奪われまいと、懸命に手を伸ばした。


「ライアン!」


 ヘリポートの床には、有事の時のための武器が仕込んであったらしい。そこから散弾銃ショットガンを取り出したブライアンが、間髪入れずに撃ってくる。悠仁は危なげなく跳び退いて、その無数の弾をかわした。


「……ワォ。さっきの麻酔弾といい、今の散弾といい、偶然じゃなくてやっぱり避けてるよね? どうなっているんだい、君」


 ———弾がどこを通るのかを知っているのだから、そんなものは当たり前だ。


 当然のようにそう思って———


 ———いや……俺はなぜそんなことを知っている?


 そう疑問に思った瞬間に、唐突にその無とも無限とも思える時間が終わった。


 何が起こったかわからないまま、身体が突然重力を思い出したように、冷たいヘリポートの地面に倒れ込む。


「……ぐ」


 激痛で、身体中がきしんだ。腕も足も、どこを動かそうとしても微動だにしない。


「テオ、何をしたんだい?」

「なにも」


 円筒を拾い上げて懐に入れ直したテオドールは、戻ってくると首を振って悠仁を覗き込む。


「最適化する時間の余裕はなかったのだろうな……恐らくどこかしらの過剰負荷だ。人間の肉体は、非常に繊細なバランスの上に成り立っている。ましてや今までと違う手続きを踏んで急に動かせば、それは言うまでもない」


 彼は眉根を寄せて島の外を見つめた。


「本来ならなんとしても連れて行きたいところだが、島が降りきってしまえば我々は袋のねずみだ。余計な荷物を持っていれば、逃げ切れないかもしれない。今回は諦めるしかないな」


 テオドールはそうため息をつくと、悠仁を見下ろす。


「君が無事に生き残ることを祈っているよ、ユージーン。それでは、縁があればまた」


 身体が全く動かないため、急ぎ足でヘリポートを去っていく二人を追うことはできなかった。


 ———……寒い……


 風になぶられながら、朦朧もうろうとして横たわっていた悠仁の視界に、ふいに白いものが映る。ぼやけた視界の中で動くそれは、どこか見覚えのある形状フォルムをしていた。ぼぅ、としばらく見つめて思い至る。ハグロビィだ。


 ———遊園地用の機体か……?


 家のあるものは青いアイライトをしていたが、この個体の目は柔らかなだいだい色をしている。


 ———あいつに……似てるな……


 霞んだ視界の中、そのハグロビィが心配そうに覗き込んでくるのを不思議に思いながら、悠仁はそのまま意識を手放した。

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