5章① 帰りたくない家

 ――今日は用事があるから、《ラブコメタイム》はなしで。


 美空にメッセージを送信して、俺は携帯から顔を上げた。

 どんよりとした鉛色の雲が覆う梅雨空に、高層ビルが高さを競うように乱立している。

 これぞまさに大都市東京といった景観。同じ東京でも俺が住んでる下町の景色とはまるで異なる。車の排気量の多さに空気は淀み、雨後の筍のようなビル群は不必要なまでに経済拡大を追求しているようで、行き交う人々の繰り出す一歩は常に忙しない。


 苦手だった。小さい頃からこの喧噪の中にいるのが。


 唯一ホッと息を吐ける場所はビルの谷間にある小さな本屋だった。物語の森のような本棚の囲いが外界のめまぐるしさから遮断してくれた。


 その本屋とっくに潰れてしまったが。


 ビル群の底を縫うように進むこと数分、一流ホテルを思わせる近代的なタワーマンションが眼前に現れた。

 そのタワマンが俺の実家だ。

 無駄に広いエントランスを横切り、カードキーでオートロックを解除してエレベーターに乗る。パネルの階数表示が上昇していくにつれて嫌な気分も嵩んでいく。


 ――できることなら来たくなかったけど……さっさと用事を済ませて帰ろ。


 チン、と目的の階層に到達してエレベーターの扉が開く。

 壮観。都心を一望できる大パノラマが視界いっぱいに広がる。ステータスが高い者だけが味わえる享楽。

 けど、俺の心はまったく揺らされなかった。

 俺の感動はこんな場所にはなかった。


 大都市の眺望を尻目に実家の部屋番号まで移動し、玄関扉を開錠して中に入った。チャイムは鳴らさなかった。挨拶だってろくにしなかった。実家だからの気安さじゃない。ここに住んでいる人間に配慮するエネルギーを一カロリーだって使う気が起きなかったからだ。

 昼下がりだが薄暗い廊下を進んで扉を開けると、ゆうに二〇畳はある広大なリビングが視界に飛び込み、そこで思わず両足が固まった。


 見知らぬ女が眠っていた。


 リビングソファに横たわって無防備な寝顔をのぞかせている。年齢はおそらく三〇代半ば頃。肌の露出が目立つ袖なしドレスが着崩れている。服装からして水商売か。

 どうせ親父がまた金に物言わせてキャバクラかどこかで引っかけてきたんだろう。


 ――クソが。


 次の瞬間、ガンッ、とソファの角を蹴っていた。

 ビクッ、と女が跳ね起きた。寝ぼけ眼の驚き顔を左右に振って、俺を確認すると目が点になった。だれ? と唇が小さく動く。


 だれかわかんないか。

 クソ親父とも顔が似てないもんな。親子なんて思わないよな。


 俺は一睨み返すだけで答えず、呆然とする女を放置してリビングを横切る。

 いくつかある部屋のうち、俺は迷わずその部屋の扉を開けた。

 その部屋はロボットのコクピットを思わせた。室内の中心にはスタイリッシュなデスクチェアが置かれ、周囲に複数のパソコンモニターが展開されている。大画面モニターとサブモニター合わせて計七台。それぞれの画面には株価チャートなどが表示され、数字とグラフと文字が目まぐるしく変動している。

 いわゆるトレードルームだ。そこにクソ親父がいた。


「おう。来たか」


 順調に儲けているのか、株価チャートに薄笑いを浮かべていた親父がその顔のまま俺に視線を移した。

 髪は短髪で、肌の色は焼けた小麦色で、サーファーを思わせる風貌。肩幅が広く肉体は引き締まっており、タワマン併設のジムで鍛えてるのか四〇代でも精悍で若々しく見える。

 顔も、体格も、雰囲気も、まるで俺とは正反対。並んで立ってもまず親子とは思われないだろう。

 無理もない。血が繋がっていないのだから。


「連絡した通りだ。これにサインしろ」


 俺はカバンからプリントを取り出す。学校の書類で保護者印が必要になるから実家を訪れた。


「ハッ、ペーパーレスのご時世にまだハンコとはな」


 親父がデスクの引き出しからハンコを手にしてプリントに押印する。

 これで用件は済んだ。

 さっさと回れ右して帰ろう。


「――で、いつ出んだよ。オマエの本」


 が、ぴたりと足が止まった。


「あ?」


 無視できず、つい振り返っていた。


「いまが六月。高校卒業まであと九ヶ月か。九ヶ月以内にオマエの本が書店に並んでんのかって聞いてんだよ」

「年がら年中数字とグラフしか見てねえあんたに創作の話をしたって理解できねえだろ」

「なんだ逃げるのか、階。オマエが啖呵切ったんだぞ。高校卒業までに商業デビューして小説を出すって」

「逃げてねえよ、ハゲ。株やら不動産やら要は商品券を右から左に流して儲けることしか考えてねえ野郎に、〇から一を生み出す創作を理解できるわけねえって言ってんだよ」

「パチパチとキーボード叩くだけのオマエのおままごとはそんなに高尚で価値があるのか? まだ一円だって稼いでないのに」

「あんたはいつもそうやって金でマウント取るしか能がねえな」

「オマエがまだなんも結果を出してねえから馬鹿にしてんだよ。二年だぞ。オマエがこの家を出てもう二年。オレなら二年ありゃ港区のタワマン程度余裕で買える」


 親父は勝ち誇ったようにパソコンモニターの株価チャートを指差した。


「この業界で生き残れるのは一〇%にも満たない。オレは勝ち続けているぞ、競争に。なのにオマエはどうだ。賞レースなんて言うほどだ。オマエのそれも突き詰めればほかの作家との競争だろ」

「勝つさ」


 まなじりを決して告げる。


「勝てば六〇〇万は俺の金だからな」

「ああそうだ。オレが渡した六〇〇万はオマエの金だ。あと九ヶ月以内に勝てれば、な」


 親父の声に切れ味が増す。


「だがオマエが高校卒業までに商業作家になって本を出せなければ、就職して六〇〇万きっちり返してもらうぞ」


 こちらの心臓を射貫くような眼光。息子だろうが一切譲歩しない。金が絡むときの親父の目はいつだってこうだ。


「作家デビューに失敗すれば就職。働いて六〇〇万返済するまで一切創作活動を行わない。そういう決まりだ。それでいいとオマエが納得したんだ。いまさらやっぱやめたなんてのはなしだぞ」

「ナメんな。二言はない。撤回なんかしねえよ」

「フッ、それならいいがな。しかしオマエの高校は進学校だろ。みじめだぞ。ほとんどの生徒が大学進学するのにオマエだけ就職ってのは。楽しそうに大学に通う人間を横目に自分は夢破れたんだと汗水流しながら働くってのは」


 酷薄に笑う。

 他人事のような物言いだ。戸籍上は息子であっても血の繋がりもない。俺のどこにも親父が愛する要素はない。

 親父が愛してるのは俺の母親であって、母親の連れ子である俺ではないのだ。


「逆に――」


 だからどうだっていうんだ。

 俺だって親父を尊敬することも愛する義理もない。

 親父が生意気なガキに現実の厳しさを説いて愉悦に浸るつもりなら、俺は俺で親父のステータスを利用してせいぜい金をふんだくってのし上がるだけ。


「逆に俺が作家デビューすればあんたから借りた六〇〇万は返せなくていい。そういう決まりでもある」


 それが俺と親父との契約であり、そして賭けでもあった。

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