5章③ 帰りたくない家
「愉しみだよ。啖呵切って出ていったガキがどこまで結果出せんのか」
「ああ愉しみだな。俺が作家になって六〇〇万失ったことを悔やみながら、俺に頭下げるあんたの姿が」
フッ、と親父が挑発的に口端を吊り上げ、俺は今度こそトレードルームを出て行こうとし、だが最後に、数字とグラフと欲得に塗れたこの空間に一言だけ残していった。
「いい加減目を覚ませよ。どんだけ金稼いだって、もう死んだ人間は返ってこねえぞ」
親父がどんな顔をしたかわからない。確認する前に俺はもうトレードルームを出ていたからだ。
リビングに戻ると視線が刺さった。ソファに居た女が不愉快そうな目で俺を見て、タオルケットを掻き集めて胸元を隠している。
――金も、女も、母の埋め合わせか。
俺は女を横目に実家を出た。
エレベーターで下降している間、足下がぐらぐら揺れている感覚に乗り物酔いのような気分が悪くなった。
吐き気を感じながらエントランスを出た際、入れ替わるように若い夫婦とすれ違った。
母親は抱いた赤ちゃんに穏やかな微笑みを向け、父親は食材でパンパンに膨らんだレジ袋を提げている。
そのレジ袋の重さはまさに家族のための重さに見えた。
注文住宅CMに出るような理想的な家族像を目の当たりにして、ふと、もしも母さんが生きていたらどうなっていただろうと想像した。
母の記憶はほとんどない。
憶えているのは俺が五歳の頃に病に倒れたことだ。医療機器に囲まれ管に繋がれた母の体はいたたまれず、幼いながらに重い病気なのだと察した。
でも、ネガティブな記憶がすべてじゃない。
母の手作りカレーの味はいまも鼻と舌に残っている。エプロン姿でキッチンに立って黄金色のカレーをおたまですくう母の後ろ姿。フルーティーな香りが部屋に漂い、口にすると優しい甘さが広がった。
母と一緒に生活していた頃の親父の記憶もほぼないに等しい。
ただ、スーツを身に纏った後ろ姿は記憶の片隅に残っている。株や不動産に没頭しているいまと違って会社勤めをしていたのだろう。住居もタワマンではなく安普請のアパートだった。
後はそう、「君の父親だ」と言われたんだ。
正確には再婚なので「新しい父親」なのだが、まだ幼い俺に小難しい説明は不要だと配慮したのだろう。
そうだ。その時の夕食がカレーだったんだ。
家族のはじまりがカレーだったんだ。
母が亡くなって、親父は株や不動産取引にのめり込んだ。それはもしかしたら母の高額医療費が十分に支払えなくて、その無念さ無力さにいまも憑かれて躍起になっているのかもしれない。
もしも母さんが生きていたら、きっといまごろ違う光景が……。
頭を振った。
やめよう。もしもを考えたって現実はなにひとつ変わらない。
あるのはこの
この目に映る
現実……俺がいまだ作家デビューできていない現実も正しいのだ。プロになれない理由があるのだ。
その理由、その問題点は……。
「あと九ヶ月でどうにかしなきゃ……」
急にどっと疲労が押し寄せてきた。
食欲は湧かず、コンビニでサラダだけ買った。スカスカなレジ袋を提げたときの軽さに、ああ、と無性にむなしさと孤独を覚えた。
――俺は自分のための荷物ばっかり抱えてんな。
ぐったりとした心と体を引きずるようにして歩き、ようやく自宅のボロアパート前まで戻ってきた。
「あれ……?」
俺の部屋の灯りが漏れていた。
照明のスイッチを切り忘れていたのかな?
「うっかりしてんな」
はあとため息を吐きながら玄関扉を開ける。疲労はピークですぐさま畳の上に崩れて落ちてひと眠りしたい気分だったが、実際は玄関前で両足が硬直した。
「おかえりなさい」
一人暮らしではまず聞くことのないその挨拶。
思わずレジ袋を落っことしそうになる。
「美空……?」
「お邪魔させてもらってます」
思わずまぶたを擦って見直した。まぼろしではない。美空が制服の上にエプロンを着込み、キッチンに立っておたまを持っている。
「……え? え? エプロン? 料理中? なんで美空がここに? 今日は《ラブコメタイム》はなしってメッセージを送ったはずじゃ……」
「ええ、《ラブコメタイム》がないのは確認済みです。でも、《ラブコメタイム》以外に手伝えることがあるかなと思って」
「手伝い?」
「だからその、例えば料理とか。ほら、道成さん年中不健康そうですからね。こないだもフライドポテトパクパク食べて野菜で栄養を摂ってるとか明らかに栄養が偏った発言してましたし。ちゃんとバランスの取れた食事をとってもらわないと執筆に支障がきたしますからね。そうです。そうですよ。せっかく私が協力してるのに倒れられたら困りますし」
料理?
美空が晩飯を作りにきた?
《ラブコメタイム》関係なしの協力ってこと?
あまりに唐突な展開だった。美空自身もまるでいま理由をとってつけたような早口だった。
「晩飯作ってくれるのは……そりゃ助けるけど……」
美空はそれでいいのか――思わずそう聞き返しそうになる。
最近美空とそばにいることが多くて錯覚しそうになるけど、あくまで美空が協力してくれるのはラブコメ制作に限ってだ。フッたフラれたの気まずい関係の美空だからこそ《ラブコメタイム》が活きるわけで、ラブコメ制作以外では距離を取る方針。
それなのに夕食作りなんて、直接的にラブコメ制作と無関係なことをしに来てくれるなんて……。
「あ」
ふっ、と香ばしい匂いが鼻腔をかすめて思考が中断する。思わず唾液が出そうなスパイスとフルーティーな香りが漂い、その匂いはノスタルジーを湧き起こした。
この匂い、知ってる。
「カレー……」
「はい、カレーを煮込んでいました」
美空が弱火でことこと煮込んだカレーをおたまで小皿にすくい、口づけするように味見して上出来だとばかりに頷く。
「カレーなら多めに作って次の日アレンジしてすぐ食べられますしね。忙しい道成さんにはうってつけです。ただ、私が辛いのが苦手なので割と甘めにしてます。玉ねぎをみじん切りにして煮込むんですよ。すると溶け出して甘みがぐっと増して、それが我が家のカレーの作り方で……って、どうしたんです道成さん?」
美空が心配そうに目尻を下げる。
「どうして泣いてるんですか?」
あ。
泣いてる自覚はなかった。指先を目尻に当てて涙滴の温かさにようやく気づいた。
「もしかして……甘いカレー、泣くほど嫌いでした?」
違う。そうじゃない。
「腹が……減って」
それも違う。俺はなにわけわからないこと口走ってるんだ。
「俺、俺……さっきまで気分悪くて、吐きそうで、食欲なんてまったく湧かなくて……」
でもいま、美空がおかえりと言ってくれて、エプロン姿でキッチンに立って美味しそうなカレーを作ってて、そしてその匂いはまるで母さんが作ったカレーと似てて。
「でもいま、カレーの匂いがしたら、なんか気持ち悪いの吹っ飛んで、ただただ腹が減った」
違わない。
そうだ。違わないんだ。
「そうか。腹減ってのか俺。腹減ったんだな。そっか、そっか……はは、ははははっ」
「今度は笑った……ええっと、泣いたり笑ったりして、大丈夫ですか……?」
美空は頬を引き攣らせて若干引いていたが、俺は腹の底から込み上げてくるものを堪えられず笑った。
笑えば笑うほど疲れとか不安とか彼方のほうに吹っ飛んでいくようだった。
「美空、食事の準備手伝うよ。俺はテーブル拭いてコップとスプーンを用意するから。あ、そうだ。ちょうどサラダ買ってきたんだよ。ほらこれ。半分ずつしよう。で、食べ終わったら美空の家まで送っていくから」
「いえ、送る必要はないですよ」
「見送りまで距離取るつもりかよ。フッたフラれた気まずい関係維持って言っても、さすがに夜中に女の子ひとりで帰らせるわけにはいかないだろ」
「そうじゃありません。今日は帰りませんから」
「へ?」
いま、なんて言った?
「今日は家に帰らず、この部屋に泊まっていきますので」
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