5章② 帰りたくない家(回想)

 親父は父親として俺を育てる気なんてなかった。


 朝昼は株と不動産投資に熱中し、夜は俺の食事代だけ置いて飲みに出かけ女を引っかけて帰ってくる。


 どこか母の欠落を埋め合わせるように。


 俺にとっては本来母がいるはずの空間に見知らぬ女がズケズケと居座るのは苦痛だった。

 ある時、女がこう言った。


 ――なにあの子? 連れ子? うわぁ、大変だね。


 傷ついたとか、悲しかったとか、そういうことより自分の立場を思い知ったような気分になった。


 ああそうか。俺はお荷物的な存在でしかないのか。


 早く大人になって自分の力で稼いで、さっさとこの家を出て行きたかった。

 しかし当時小学生の俺にはどうしようもなかった。金も、地位も、年齢も、社会で生きるにはなにもかもが足りなかった。


 クソみたいな日常の中で、唯一の救いはエンタメだった。

 アニメやゲームはもちろんのこと、とりわけ小説は最高だった。物語にのめり込んでいる瞬間は嫌な現実を忘れさせてくれた。

 でも一時でしかない。

 エンタメは一時夢を見させるだけだった。

 どれほど冒険ファンタジーに胸躍らせたって、本を閉じた瞬間にクソみたいな現実はなにも変わってないことを思い知る。


 転機が訪れたのは中学生の時だった。

 たまたまライトノベルの巻末に載っている新人賞宣伝ページを見たとき、俺の中でかみなりに撃たれたような衝撃を覚えた。


 ――大賞賞金三〇〇万。


 すげえ。

 三〇〇万だってさ。

 そこに加えて本を出した印税まで入るんだ。

 しかも過去に高校デビューした作家もいるのかよ。俺と年齢そんな変わらないじゃん。すげえ……すげえすげえ!


 そうだ。

 プロの作家になればいいじゃん。


 他者から与えられるエンタメでは俺の現実はなにひとつ変わらない。

 けれど、俺が創ったエンタメならば俺の現実を変えられる。


 賞金と印税。その金があればガキの俺でもひとり立ちできる。

 しかも作家という物語に関われる仕事にだって就ける。

 この職業はパソコン一台からはじめられるし、年齢だって関係ない。大人だろうが子どもだろうがエンタメの世界は完全実力主義。


 面白ければ正義。

 面白さがあれば地位なんて関係ない。


 どうしていままで作家になるという発想がなかったんだ。

 いや、わかってる。さすがにそう簡単に作家になれるなんて甘いものじゃないくらい。

 しかも小説なんて読みはしてきたけど書いたことは一度もないのだ。競争激しい賞レースを勝ち抜いて即デビューなんて生易しいわけがない。

 一年は試行錯誤して中学生の間に作家デビュー……というのはさすがに厳しいか。なら高校だ。高校三年間で結果を出して家を出ていく。中学生の間は小説の技法を学びつつ、学校では小説の設定となる知識を蓄え、さらに優れた成績で特待生に選ばれ進学先の高校で授業料を免除してもらう。狙うは都内の進学校……いや、通信学校にすべきか。勉強は小説の知識として必要だからできればちゃんとしたいけど……仕方ない。昼は高校の勉強し、夜はバイトして一人暮らし用の金も溜めるか。余った時間はひたすら小説を書く。


 決めた。

 なる。絶対高校生のうちに作家になってやる。


 ――ほう。金ができたら家を出て行くんだな。ならこうすりゃいいじゃねえか。


 そんな決意を親父に話すと、親父は立ち上がってマンションの壁に埋め込まれた金庫を開けた。

 なにをするのかと思いきや、金庫の中に積まれていた札束を鷲掴みにし、ドンッ、ドンッ、と俺の前に六つもの札束を重ねた。


 ――本当はいますぐ家を出て行きたいんだろ。

 六〇〇万ある。

 義務教育までは一応オレが食わせるが、中学卒業したら自由だ。この六〇〇万を使って家を出ろ。


 六〇〇万……。

 札束の迫力に息を呑んだ。

 中学生の俺には目が眩むほどの大金だった。


 ――作家デビュー目指すんだろ。腹括ったんだろ。なら半端はなしだ。いいか、この金を使うならバイトはするな。バイトする時間を小説を書く時間にしろ。通信高校じゃなくて本来通いたい学校を目指せ。そこでの学びや出会いを小説に活かせ。この六〇〇万はそういうための金だ。


 そこだけ聞けば親が子の夢を応援する心優しい発言に思える。

 だが決して優しさからの発言ではない。


 ――階、人はどんなときに心が折れるかわかるか?


 ドスの利いた低い声で、白濁とした目玉をぎらりと光らせた。


 ――全力ぶっこんで通用しなかったときだよ。

 だからバイトに時間奪われて小説書けませんでしたからなんて言い訳させねえ。本来通いたい学校で勉強できず小説に活かせませんでしたなんて逃げも許さない。

 全力でやれ。

 そして無理だったと知れ。

 オマエのキーボード叩くだけのおままごとじゃ一円にもなんねえよ。


 六〇〇万は夢の応援ではなく、逃げ道を封鎖するためだった。


 ――仮にオマエが作家デビューできたら六〇〇万は返さなくていい。オレが無理だと思ったことを成し遂げたオマエの勝ちだ。だが、それまでにデビューできなかったら就職して返してもらう。


 俺の覚悟の度合いを測るように親父は続けた。


 ――オマエはこの六〇〇万を受け取る覚悟があるのか?


 眼前に置かれた六〇〇万。これほどの大金を稼ぐのにどれくらいかかるだろうか。

 中学生の俺には途方もなかった。

 札束の圧力に一瞬怯みかけた。

 けれど。


 ――なにあの子? 連れ子? うわぁ、大変だね。


 クソ親父のお荷物で居続けるのはまっぴらごめんだ。


 ――ナメんじゃねえぞ。やってやるよ。


 中学卒業と同時に家を出れて、なおかつ作家デビューできたら六〇〇万丸ごと手に入れられる。悪くない条件だ。

 だから俺はそう啖呵を切った。


 が、親父はさらに俺の覚悟を問うてきた。


 まだ中学生が粋がっているだけと思われたのだろうか。突然、親父がどこかに電話をかけた。するとすぐに仕立てのいいスーツを纏った男がマンションにやって来た。

 その男は行政書士だった。

 行政書士がいきなりなにをするのか見ていると、親父の指示に従ってその場で俺と親父の話の内容を契約書として作成した。


 驚愕した。

 親父はガチだ。

 わざわざ行政書士まで呼びつけて書類を作成して、一時のテンションの高さで決定したと言い訳を許さないつもりだ。


 作成された契約書にどれほど効力があるかはわからない。就職の義務付け。六〇〇万返すまで一切創作活動できない。そんな法的拘束力が有効なのかも疑問だ。


 だが、この契約書の本質はそういうことではない。


 てめえの覚悟を口だけじゃなくて形として残せ、親父はそう突きつけてきた。


 頭の中の血が急速に下りていく。

 失敗したときに言い訳なんてするつもりはさらさらなかったが、それでもこの契約書にサインすれば本当の本当に逃げの口実なんて通用しない。


 ひざが震えて崩れそうになった。

 それでもクソ親父の前で啖呵を切った自分だけは崩すわけにはいかなかった。


 親父が覚悟問うてくるなら、俺もまた逆に親父の覚悟を問うてやるんだ。


 ――その書面に追加しろ。俺が作家デビューできたら、〝キーボード叩くだけのおままごと〟って創作を馬鹿にしたことを誠心誠意謝罪すると。


 ――おいクソ親父、あんた俺との賭けに負けて頭下げる覚悟はあるのかよ?


 親父は口角を持ち上げた。いいだろう、と俺の条件を追加した上でサインした。だから俺もまたサインした。

 そうして俺はこの家を出たのだ。

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