5章⑤ 帰りたくない家

 自宅に戻って、俺は美空にパジャマ代わりとなるTシャツと半ズボンを貸した。


「これが、道成さんの家着……」


 美空がTシャツを着込むと、襟元をすんすんと嗅ぐ。


「あ、もしかしてにおう? ちゃんとコインランドリーで洗濯してるんだけど……」

「あ、いえ、失礼しました。におうとかそういうつもりではなくて……ああでも、そういうつもりじゃないと変態みたいになっちゃうから……やっぱそういうつもりで!」


 ……どっちなんだよ。


 どうにも調子狂うな、と思った瞬間。

 男性用サイズのTシャツのせいか、ぶかっとした隙間から黒色のブラジャーが目に入った。


 ドキッとした。

 デカい。想像以上に。

 これはいわゆる隠れ巨乳というやつでは……って、そうじゃなくてっ。


 目を逸らす。ああよくないぞ。精神衛生上マジでよくない。

 こういうときはさっさと寝るに限る。


 枕もふとんもひとつしかないので寝床は美空に貸し、俺は畳の上で直に寝ることにした。美空に何度も遠慮されたがさすがに畳の上で寝せるわけにはいかない。

 消灯して、互いに背を向けた格好で横たわる。

 長かった一日がようやく終わる。


「…………」


 ――いやいやいや眠れねー。


 無理もない。背後には美空がいるのだ。あの常に気まずい距離感があった美空といま同じ部屋で寝泊まりしているんだ。

 意識するな、なんてほうが無理だろ。


「道成さん、起きてます?」


 しんと静謐な部屋に、美空のソプラノの声が染みこんでいく。


「起きてるけど」

「おふとん、本当に私が使っていいんですか?」

「だから遠慮しなくていいって。俺は執筆中によく寝落ちするから、畳の上で直に寝るのは慣れてるんだよ」

「道成さん」

「しつこいぞ。ふとんは美空が好きに使ってくれていいって」

「今日、どこに行ってたんですか?」


 急に話題が変わる。というよりそっちが本命の話題に思えた。


「どこって……話したって別に面白くもない場所だよ」

「気になります」

「気にするほどのことじゃない」

「気になりますよ。だって自宅に帰ってきたときの道成さん、心配になるほど疲れた顔をしていましたよ」

「…………」


 部屋は闇を敷き詰めたように暗く、二人だけの宇宙を漂っているような気分になる。


「……実家に戻っていたんだよ。ちょっとした用事で」

「実家、ですか」


 そこで美空は一度口を噤んだ。「実家」というワードにどこまで踏み込んでいいものか考えあぐねている様子だった。


 美空が俺と家族との関係について疑問を持っていても不思議ではない。

 なぜ高校生で一人暮らししているのか、とか。

 生計はどうやって立てているのか、とか。

 両親はどうなっているのか、とか。

 そういった事情を俺は美空に一切話していないし、そもそもだれにも明かしていない。


「なあ、俺からも聞いていいか」


 一応美空からの質問に答えたことで、今度は俺が質問する。


「俺はラブコメを、もっと言えば恋愛をちゃんと書き切れると思うか?」


 いま俺は『僕と彼女の夢』のプロット作成と同時に序盤の執筆もしている。プロットとセットで序盤の原稿を担当編集に送り、作品のイメージを摑んでもらう作戦だ。

 だが、どうにも筆が重い。

 ラブコメお約束展開から流行りのキャラクターまで、人気が出そうなポイントを《ラブコメタイム》で試して作品に注ぎ込んでいるけど、どうにも既存作品の表面部分を都合よく掬い取って、それらをつぎはぎして作品を作っているだけではないかと不安になる。


 作っているだけで、創ってはいない。


 俺がこの作品を書く意味がどこまであるのかという疑問がキーボードを叩いている瞬間に何度か立ち上がった。

 言い換えれば、俺自身の哲学や美意識や価値観といった類いがどこまで作品に注ぎ込まれているのか考えてしまう。


 もしかしたら俺はラブコメ恋愛とはなにかという、俺自身の答えを見つけ出せていないのかもしれない。


「――特別な時間」


 ぽつりと、しかし意思を込めて、美空がそう口にした。


「まだ道成さんの完成原稿を読んでいないので、恋愛が書けているかどうか私が決めるのは早計だと思いますが……あくまで私の考えですけど、恋愛は特別な時間のことだと思います」

「特別な時間?」

「好きな相手と過ごす時間は、友達や家族と過ごす時間とは全然違うんですよ。もう時間の流れの早さから違うんです。あっという間に時間が過ぎ去って、その一瞬一瞬がほかの人と過ごすのとは違う特別なものになっていって。会ってる瞬間はもちろん、会えない時ですらも。二人だから時間が特別になっていく。ううん、もっと言えば二人で時間を特別にしていく」


 恋愛はそうであってほしいと、夜空の星々に願うような声音だった。


「『運命の人』なんて言葉がありますけど、それってどこまで正しいんでしょうね。なんだか最初から神様がそういう存在を用意してるみたいに聞こえますけど、でも実際は『運命の人』なんてどこにもいなくて、いま私が説明したような特別な時間を重ねていった結果のこと『運命の人』っていうんじゃないでしょうか。だから『運命の人』ってのはいるんじゃなくて、お互いに『運命の人』になっていくことだと思うんですよ。だから――」


 美空の声がトーンダウンする。続きの台詞は闇に紛れてハッキリと聞き取れなかった。ただかすかに聞こえた気がした。


 だから、そういう『運命の人』になりたかった。と。


「ごめんなさい。なんだかとりとめのない答えになりました。恋愛観について少しでも執筆に役立てられればと思ったんですが、その、私自身、ちゃんと恋愛をしたことないので……」


 俺がフッたせいだ。


「今度は私が聞いていいですか?」


 ひとつ聞いたらひとつ答えるみたいな流れになっていた。


「道成さんが高校生の間にプロ作家になる目標って……ご実家が関係しているんですか?」


 ごろん、と寝返りを打つ音がした。美空がこちらに向いた気がした。

 慎重にうかがうような、前々から気になっていたかのような、そんな思いを含んだ眼差しを背中に感じる。


 ――二人で時間を特別にしていく、か。


「だれにも話してこなかったことだけどさ」


 いままでだれにも話したことない内容だから言葉がのどに引っかかると思ったけど、いざ口に出してみると思いのほか滑らかに言葉が出た。


「親父との賭けなんだ、俺がプロ作家を目指してるのは」

「賭け?」

「俺さ、ずっと実家を出たい出たいって思っててさ、そしたら親父が六〇〇万用意してこう言ったんだ。中学卒業と同時にその金で生活して、そして作家デビューできたら一切返さなくていい。けど、高校三年間でプロ作家として書籍を出せなかったら就職して六〇〇万返済しなきゃいけない。完済するまで一切創作活動禁止。そういう賭け」

「なに、それ……作家になれなかったら就職? 返済するまで一切創作活動禁止? めちゃくちゃですよそんなの!」


 美空の怒った声が六畳に響く。


「契約でもあるんだ。実際に契約書にもサインした」

「なんでわざわざ契約書なんて。親子の話でしょう。どうしてそんな、親が子を試すようなこと――」

「親じゃないからさ」

「え」

「正確には、血の繋がった親じゃないから」


 美空が静かに息を呑んだ。


「とにかく俺としてはあんな家に居たくなかった。一秒でも、一瞬でも」

「だから家を出たんですか?」

「そう。家を出た。中学生にとって大金の六〇〇万を震えた手で摑んで、作家デビューするために脇目も振らず努力するんだって。高校の入学したその日から書いて、春も夏も秋も冬も書いて書いてとにかく書いて、それこそ夢の中でだって書いてたよ」


 まさに寝ても覚めてもというやつだった。


「でもさ、書いても書いてもまったく通用しない。新人賞の一次選考には嫌ってほど落選したし、ウェブ小説もやってみたけど全然評価されなくて、やっと目をかけてもらったと思った担当編集には使えない原稿だって突き返された」


 ――女の子書くのが苦手だから逃げたわけじゃなくて?


 あのとき、編集部では逃げたわけじゃないと言い返したけど……。

 そうか。そうかもな。

 あの家で育ったら苦手意識を抱いても……。


「プロへ通じる扉をぶっ叩き続けた。全力の拳で。でも一向に開かない。あとどれだけ汗と涙を流して殴れば開くのかもわからない。残り九ヶ月。時期的に考えていま取りかかっているこのラブコメが最後のチャンスだ。だから絶対にプロットを通さなきゃいけない。いけないんだけど……」


 ――道成くんってさあ、この世界のなにを愛してるの?


「編集はさ、おそらく作品に愛とか好きをふんだんに詰め込めって言いたいんだと思う。『ファンタジーの世界観が好きすぎて書きたい!』とか、『メイドを愛してるから絶対メインヒロインにしたい!』とか、そういう情熱的なエネルギーは作品の爆発力に繋がるから」


 ――自分の趣味で書いた小説がまさかアニメになると思っていませんでした。夢のある業界ですね!


 あの後、阿藤天の作品を読んだ。

 阿藤天の作品がまさに愛を結晶化したような作品だった。

 本を開く前は嫉妬やら悔しさやらで胃の中が焼けるような思いだったが、本を閉じた後はただただ凄かったという思いに圧倒された。


 SFドラマが好き。メカが好き。ボーイ・ミーツ・ガールが好き。死が隣り合わせにある戦場の緊張感が好き。好き好き好き好き好き……。


 小さな小さな文庫サイズの世界に、作者の好きも愛も全部詰め込まれた壮大に広がるSFヒューマンドラマが広がっていた。


 じゃあ俺は?

 俺がこの世界で愛しているものは?


「……ないんだよ。そういうもの」


 自分の内側にもうどうしようもなく狂おしいほど愛するものなんてなかった。

 だから俺はその空虚さを作劇的な技術を磨くことでカバーしようとしていたんだ。


「そりゃまったく好きなものがないってわけじゃないよ。生きてれば好きなものがひとつや二つぐらいできるから。でもさ、ほかの作家と熱量が違うんだよ。俺の好きは〝本物の好き〟じゃない」


『君も明日から小説家になれる!』的なハウツー本に書かれたストーリー技術論。序破急。三幕構成。ミッドポイント……。

 それらを片っ端から頭に叩き込んだ。

 さらに人気キャラクター作成における必要な要素。大目標。キャラクター独自の思考や態度。共感できる弱点の設定。ウェブランキングに載る人気作の構成やキャラクターも分解して研究。ほかにも読者が次を読みたくなる引きの作り方。いまウケてるジャンル。作劇における緊張感の作り方――。


 だからダメなんだろ。


 いや、技術を学ぶことを悪いと言っているんじゃない。しかし技術というのは作者の愛とか好きとか表現したいことを表現するための術でしかない。


 チャラ担は俺を上手いと称した。

 ただしそれは賛辞ではない。


 上手いだけだという限界を示唆したんだ。


 俺は

 阿藤天は


「俺はさ、たぶん、創作が好きってわけじゃないんだろうな」

「好きじゃない? そんなことないでしょう。だって毎日毎日身を粉にしてやっているじゃないですか。私は知ってますよ。みんながカラオケ行ってるのにひとりファミレスで夜通しアイデアを考えるほどやってきたじゃないですか」

「確かに嫌いってわけじゃないよ。小説を読むことも、書くことも。だけど、思わされるんだよ。本当に好きで好きで書くのがやめられない作家を目の当たりにすると、俺なんて所詮〝努力の範疇の好き〟でしかないんだなって」


 俺は小説家になりたくて小説を書いてる。小説家という形を目指して最速最短でなるための技術を磨いているに過ぎない。

 阿藤天は書きたい小説があって小説家になっている。書くのが止められないほど愛しているものが胸にあってその情熱は技術論を超越する。


 俺は所詮小説家に『なろう』としているだけだ。

 阿藤はみずからの道を進んで世間とか流行とか関係なく小説家に『なっている』。

 その差。その違い。


「キーボードから手が離れたときさ、ふと、魔が差すことがあるんだ。ああ、俺はこの道を選んで間違えたんじゃないかって」

「間違い……?」

「物語を心から愛したから作家になりたいわけじゃなくて、作家という形になりたくて物語を書いている俺は、そんな倒錯した俺なんかが、目指しちゃいけない世界だったんじゃないかって」


 不安の澱がぶわっと舞い上がって口からこぼれ出る。


「高一の時はまだ時間的な余裕があった。なんとかなるって思ってた。でもいまはもう高三だ。あと九ヶ月だ。時間がない。時間が」


 一度不安を吐き出すと堰を切ったように溢れ出す。


「うちの学校で進路希望調査票に就職って書くの、俺だけだ。周りはどこの大学行くかって話とか、予備校の話とかしてて……みんな望んだ進路に進もうとしてんのに、俺は……」


 声が震える。


「化物ばっかなんだ、表現の世界は。自分の書きたいものを書いてレーベル最速でアニメ化した化物もいるし、俺と同じ高校生なのにウェブ小説から人気出て書籍化した化物もいる。そんな連中相手に俺が、俺なんかが……」


 全身まで震える。


「全部懸けて作家になれなったら、俺は……」


 抑えていた弱気が漏れる。


「怖い……。汗も涙も青春すらも全部ぶっ込んだって、結局、永遠に扉は開かなかったと、ここが行き止まりなんだと、そう思い知る日が来るのが怖くて、たまらないほど怖くて……」


 瞬間だった。


 どっ、と背中に柔らかな感触がぶつかった。


 リアリティを感じる確かな肌ざわりと、暖かな季節のような温度が背中に広がっていく。


 真っ暗闇の中で一瞬なにが起きたかわからなかった。

 自分の心臓の鼓動に重なるように、別の鼓動が肌を通して響いてきて、そこでようやくわかった。

 後ろから美空に抱き締められているのだと。


「大丈夫」


 最初はラブコメ展開を試しているのだと思った。


「大丈夫だから」


 でも、抱き締められるなんてイベントはプロットには存在していない。


「大丈夫。絶対大丈夫だよ。がんばってるもん。がんばったらちゃんと報われるよ。私知ってる。知ってるから。ずっとずっとがんばってる姿。だから大丈夫、大丈夫。全部全部大丈夫」


 表現の世界に努力したら報われるなんて根拠はない。

 しかしそんな根拠なんかどうでもいいと言わんばかりに、ぎゅっと細腕で俺の胴回りを強く抱き締めた。


 もしかして、美空は……。


 本当は、最初から……。


   ※ ※ ※


 どうやらいつの間にか眠っていたらしい。

 東向きの窓から射す朝日に目を覚ますと、いい匂いに鼻がひくついた。

 ミニテーブルの上に塩おにぎりが三個と卵焼きがラップして置かれていて、その横にメモ書きがあった。


『部活の朝練があるので、一足先に失礼します。』


 その文章は梅雨明けを予感させるようなキラキラした朝日に透けて輝き、そして締めにはこう綴られていた。


 『次はデートイベントですね。』

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