7章② もう一度ラブコメを

 自宅のボロアパートに帰ると、重力に潰されるように畳の上に突っ伏した。

 水族館で美空と別れてから、まったく小説に手をつけられなかった。


 焦ろ。いまさらだろ。

 動け。なんの意味が。

 書け。なにを書けば。


 二律背反する感情。このままなにも書かずに終わっていいのかという気持ちと、そもそもなに書きゃいいんだよと途方に暮れている。


 ラブコメが通用しなかったのは、さすがにダメージがでかかった。

 これからなにを書いてもどうせ無駄じゃないかという気持ちにさせられる。

 賽の河原で小石を積むような気分だ。積み上げては崩壊して、積み上げては崩壊して、また最初から、ふりだし、これまでのすべてが無意味……。


 ――美空との時間は無意味だったのか?


 ふと、リフレインするその問い。


 美空と共に考え出したラブコメヒロインも。

 美空がヒロインを演じてくれた《ラブコメタイム》も。

 一緒に食べたカレーも。

 銭湯でのやり取りも。

 弱さを漏らした〝あの夜〟も。

 全部が全部無意味だったのか?


 ――最後は先輩がどう思ってるかでしょ!


 丹羽田の言う通りだ。

 無意味かどうか決めるのは、結局のところ俺だ。俺次第だ。

 だとしたらリフレインしたその問いは正確ではない。

 厳密に問うならこうだ。


 ――美空との時間を無意味だったことにするのか?


 目線を横に向けた。

 がらんとした部屋の一畳に、〝あの夜〟、俺を後ろから抱く美空のまぼろしが立ち上がった。


 ――好きな相手と過ごす時間は、友達や家族と過ごす時間とは全然違うんですよ。もう時間の流れの早さから違うんです。あっという間に時間が過ぎ去って、その一瞬一瞬がほかの人と過ごすのとは違う特別なものになっていって。


 美空との時間に意味はあった。

 特別な時間という意味が。

 だが、俺が特別で意味があると思っていても、それはあくまで俺の内だけに留まっているだけに過ぎない。


 それでいいのか?

 俺が特別だと思っているだけで?


 よくない。

 だって美空はそう思っていないから。


 いま美空は無意味な時間を俺に送らせたと後悔している。美空にとっては無意味だと思ってしまっている。

 それで終わらせたくない。


 ならどうする?


 美空の前で意味があったと主張すればいいのか。

 声高に叫べば美空は特別な時間だったと思い直してくれるのか。


 そうじゃない。

 いや、声に出して伝えるのは必要だと思う。

 しかし反面、俺のやり方としてはまだ別の方法があるだろう。


 それはどんな手段?


 文字だ。文章という表現方法を持ってしてだ。

 俺は書くことしかできない。逆に書くことならできるとも言える。

 美空はラブコメヒロイン化という演技を通して俺との時間を特別にしていった。俺に特別な時間だと感じさせてくれた。ならば今度は俺からだ。俺は書くことを通して美空との時間を特別にしていく。美空に特別な時間だったと感じてもらう。真っ白な原稿の上に、自分が特別だと思った記憶を、瞬間を、血も骨も魂すらも注ぎ込んで、丁寧に丁寧にひとつひとつ言葉を積み上げていき、唯一無二の物語の王国を築く、それが――。


 それが、作家。


 あ。

 ああ。

 そうか。そういうことだったのか。

『なろう』とするものじゃなくて『なってるもの』……それってこういう感覚のことを言って……。

 だって、わかったんだ。

 なにを書くべきか、痺れるように悟ったんだ。


 ――美空先輩のことだから、きっといま……。


 丹羽田との別れ際、丹羽田は美空がどこに居るか予測していた。

 そのときは本当にそこに居るのか半信半疑だが、いまはいてもたってもいられなかった。


 圧倒的な感情に突き動かされて立ち上がる。慌ててスニーカーを引っかけ、だがそこで呼び止められた気がして振り返った。

 デスクの上、窓から射す夕陽を受けて銀色に輝いていたそれは主張していた。

「忘れるなよ」と。

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