7章④ もう一度ラブコメを
月光色が
充血した瞳。目尻には涙の跡。
海の中にいるような仄暗い空間演出は、いまは幻想性よりも美空を苦悩の底に溺れさせているように映った。
「なんで、階くんがここに……?」
嬉しいような、でも苦しいような、複雑な美空の表情。
階くん――。懐かしい呼び名を口にするのは、いまは気まずい関係の「疎遠美空」ではなく、ましてやラブコメ化した「ミソラ」でもなく、「ありのままの美空」だということだ。
「丹羽田に教えてもらった」
「丹羽田ちゃんに? 私、丹羽田ちゃんには心配しないでって返信したけど、どこに居るかなんて教えてないよ」
「メッセージアプリのプロフィール画像、この水族館に変えたろ。丹羽田が分析してたぞ。美空先輩ここでデートしてはしゃいでたんだなー、わかりやすい匂わせだなー。きっといまごろ思い出に浸って心の傷を癒やしてんだろうなー、って」
「じょ、女子の心理に対して鋭すぎない丹羽田ちゃん!? ちょっと怖いレベルなんだけど!」
「美空」
襟を正す。
改めて真剣な声音で彼女の名を呼ぶ。
「どうしても直接伝えたいことがあって、ここまで来た」
「伝えたいこと……?」
「まだ終わってないぞ」
確信を持って、俺は告げる。
「ラブコメ小説は、まだ終わってない」
「それは……ダメだったでしょ」
美空は小さく首を横に振った。
「だって、プロットが通らなかったんでしょ。卒業時期までに出版することを計算したら、あのプロットが最後のチャンスだったんでしょ。終わりだよ。もう間に合わないよ」
「ああ、間に合わないだろうな」
「だったらもう」
「プロットを出してたら、間に合わないだろうな」
えっ、と伏し目がちだった美空の目線が上がる。
「また一から新たにストーリーや構成を考え直してプロットを作成し、担当編集に提出してやり取りを重ねていく。通常のやり方ならまず間に合わない。だから別の方法を取る」
「別の方法……?」
「完成原稿を提出して一発で仕留める」
美空が長い睫毛をパチパチと上下させた。まだ完全には理解してない様子だ。
「要するにさ、プロットの工程をショートカットして一気に完成原稿を提出しちまうって作戦。で、編集からオーケイもらって卒業までに出版まで持っていく」
「完成原稿を出す……確かにそれならプロットの工程を省ける……でも、ちょっと待って、原稿を完成させるって口で言うほど簡単なことじゃないでしょ」
「幸い、今日から夏休みだ。その時間全部ぶっこむ。一分、一秒、文字通り全部使って八月中に作品を書き上げてみせる」
「けど、たとえ完成したって、編集者が原稿を気に入らなかったら終わりだよ」
「編集の意向は無視しないさ。指示された通りラブコメをやる」
「ラブコメをやってもダメ出しされたら? またふりだしに戻っちゃうよ」
「そのときはそのときだ」
「そ、そのときはそのときって……今度こそ失敗したら取り返しつかないんだよ! 第一、どんな内容を書くつもりなの? ラブコメは一度やって上手くいかなかったんだよ。またラブコメをやるにしても編集を納得させるストーリーとかキャラとかが必要でしょ。大変だよ、そんなの」
「ストーリーやキャラの組み立てについては、もう決まってるんだ」
「決まってる? どういうこと? なにを書くつもりなの?」
「俺と美空のこと」
美空が目を白黒させた。
「四月からの三ヶ月間、俺と美空がフッたフラれたの気まずい関係ながらも手を取り合って挑んだラブコメ作り、それをモデルにしたラブコメを書く」
「それって、つまり……」
「――美空がメインヒロインのラブコメ」
美空が唖然としたまま表情を固めた。
自分の顔を指差して「私?」とまばたきを繰り返し、そしてかぁぁぁっと赤面した。
「わ、わわっ、私がメインヒロインのラブコメ!?」
「そう。前にファミレスで『私があなたのラブコメヒロインになります』なんて言ってたけど、本当にその通りになったな」
「待って待って、ちょっと待って。私と階くんが過ごしてきた時間を物語にって、急にそんなこと言われてもっ」
「安心してくれ。あくまでフィクションだ。ところどころ脚色する。身バレしないように配慮だってする」
「そ、そうはいっても、《ラブコメタイム》のあれこれが文章になるんでしょ。パンチラのあれとか、銭湯のすっぴんのあれとか……や、やだ、顔が熱くなって……あっ、違うの、階くんにラブコメヒロインとして書いてもらえるのがやだってわけじゃなくてむしろ嬉しいというか……いや、いやいや、嬉しいってなに喜んじゃってるの私! ああもう!」
熟したリンゴみたいに赤い頬を両手で押さえ、やんやんと気恥ずかしそうに身じろぎする美空。
まんざらじゃなさそうな態度に見えたが、しかし次の瞬間、冷水を浴びせられたように頬の熱は消え、表情は石のように硬くなる。
「やっぱり、ダメだよ……」
「どうして?」
「だって私、この三ヶ月間で階くんの作品作りになんの役にも立てなかった。それなのに今度はもっと重要なメインでラブコメヒロインなんて……やめたほうがいいよ」
自信なさげに長い睫毛を下げる。
「外ヅラはきちんとしてるように見せてるけど本当は結構抜けてるし、学校を見渡してもメイクが上手でスタイルいい子なんて私以外にいるし、こんな私をヒロインにしたって、魅力的で可愛い他作のラブコメヒロインにちっとも及ばないよ。だったら別のヒロインを考えて勝負したほうが勝算があるよ。これが最後のチャンス。長編の執筆をはじめちゃったらもう引き返せない。本当の本当に終わり。失敗しちゃったらもう終わりなんだよ」
「ああ、そこで終わりだ」
「ダメだよ、そんなのダメ!」
「だがそこで終わっても納得できる!」
啖呵を切った。ありったけの感情を込めて。
「美空と手を取り合った三ヶ月、美空をラブコメヒロインにした物語で敗北したなら納得できる。これでダメなら俺がほかに書けるラブコメなんてないと晴れやかな気持ちで筆を折れる」
「そんな……。なんで、なんでそこまで……」
なんでか?
んなもん決まってる。
「書きたいから」
――道成くんってさあ、この世界のなにを愛してるの?
かつて返答できなかった問い。
その答えは、いま、俺の瞳に映って――。
「はじめてなんだ。物を書きはじめての経験なんだ。技術論から生まれた発想じゃなく、流行や分析から計算して作り上げたものでもない、心の奥底から湧き上がるような衝動は。美空は自分が役に立たなかったなんて卑下するけどさ、俺にとっては意味のあった三ヶ月だったんだ。特別な時間だったんだ」
「特別な時間……」
「だからさ、俺のヒロインは美空なんだ。そして美空に納得してもらうんだ。美空をラブコメヒロインにするって言うなら、まず美空に原稿が良かったと納得させてみせる。俺が感じた意味を、特別な時間であったことを、物語という表現で証明する。美空が演技という表現でこれまで俺を助けてくれたみたいに」
美空が口にて当て瞳を潤ませた。
「助けなんて、私は君の力になれたことなんて……っ」
「助かったさ!」
腹の底から断言する。
「助かったから、それをこれから証明するんだ。美空がメインヒロインのラブコメで」
「私……私が君のヒロイン……」
「原稿を書いた分から美空の携帯に送る。それを読んで判断してほしい。美空自身ラブコメヒロインとなることを了承するかどうか」
俺はポケットから合鍵を取り出し、美空の手のひらにそっとのせる。
「わからない。わからないよ……」
美空は合鍵を受け取っていいのか困惑しながら続けた。
「書きたいからって言っても、なんで私なの。どうして私なの……」
「本当にわからないのか?」
答えはとうに胸にある。
だが、いまはまだ口にすべきじゃない。
俺がそれを口にすべき瞬間は、作品とちゃんと向き合って、きっちり苦悩して、もがきながら書いて、全身全霊で書き上げて、美空がこの物語でいいと納得してくれたときだ。
だからいまここで俺がすべき宣言は、ひとつ。
「待っててくれ美空。必ず書き上げてみせるから。美空がラブコメヒロインの物語を」
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