第4話 西暦2342年

 国や公的な機関であれば、保護してもらえるかもしれない。

 俺はそう信じてずぶ濡れのまま歩き続けた。そして、どうやら〈下層〉と呼ばれているらしいこの地区にも、そういった公的な施設があるらしいことが判明した。

 下層にそびえ立つ三本の巨大な支柱。それらはすべて企業ビルとしての面も持ち合わせているらしい。そこならばもしやと、俺はそのうちの一柱へと向かおうとした。


 ――そして、断念した。


『にいちゃん、そいつはやめときな。あそこには、俺たちスラムのやつらを、見てくれるほど、優しいやつは、いねえ。そもそも、あそこに行くまでの電車賃で破産しちまう。……あんなもんは、見てるくらいが、ちょうどいいのさ』


 やたらと間延びさせたような喋り方をする老人。

 おそらくタバコではない何かを吸い続ける白髪の汚れたホームレスは、歯が一本も残っていない口を開けるたび、人生に諦めたような調子で話すのだった。


『金もない、力もない、運もなけりゃ、寿命ももうない。……もう目を背けるぐらいしか、することはないのだから、のう……』


 トタン屋根から雨が滴る狭い裏路地で、老人は段ボールにくるまりながら質問に応えてくれた。老人が寝返りをうつときに、俺はふと、彼の腕に真っ白な模様のようなものが走るのが見えた。


「じいさん、あんた、腕に白いアザみたいなものが……」

『……あのヤブ医者にのう、『もうあんたはダメだ』って言われてよ。……〝しんしょくすてーじ〟が、もう5に近いんだとよぉ……』


 近くの雨樋あまどいから水が跳ねる音が響くなか、多くの見知らぬ単語を投げかけられ、俺はなかば狂乱するようにして彼の体を揺すった。


「おい、なら、今が西暦何年か分からないのか……‼  そもそも侵蝕ステージってなんだよ、この世界はどうなっちまったんだよ‼ 」

『ぅ……、あァ……』


 思わず彼のビニール製のハウスを揺さぶりながら、叫ぶほどの声量で彼に質問を投げかける。

 だが、彼は眠ってしまったのか、なんの返事もすることはなかった。



「無駄だよ、無駄――。そのじいさんは、もうまともに会話すら出来やしないよ」



 傍にあった屋台を切り盛りしているのだろう、肉のような何かをコテで焼き続ける腹の出た中年のおっさんが俺に話しかけてくる。


「そのヒトはもう、脳まで侵蝕されちまってるからな。まともに話すのすら無理だよ。それに、そろそろ来るんじゃないか? ……『三ツ橋』の開発部門か、あるいは――」


 鉄板が熱いのか、店主らしきおっさんは汗をかきながらも誰一人来ない客のために肉を焼き続ける。そして何かを言いかけた――



 ――その直後だった。



『こちら、月庵げつあん「臨界不浄研究機関:洗浄科」の侵蝕体捕獲車両だ。侵蝕ステージ5リストに記載された者がここにいるとの通報を受けた。これより都市政府の侵蝕対策マニュアルに従い、対象者を連行させてもらう』


 緊急用のランプを回転させた黒塗りの走行車両が、拡声器の声をハウリングさせながら上から降りてくる。そして地面へとタッチダウンした瞬間、すさまじい風圧があたりを襲った。

 ほこりやゴミが舞い上がるなか、腕で顔を抑えながらその装甲車を見ていると、ハッチから複数の完全武装した集団が降りてくる。車両の装甲には『医療総合財団』『GETUAN』といったロゴが描かれており、武装集団は紫色の発光ケーブルを全身に張り巡らせたような装備をしていた。


『我々はその老人を連れていく。……どいてもらおうか』


 一瞬にして彼らが目の前までやってきたとき、俺は『老人』を指す言葉が後ろで寝ているホームレスのことだとそのとき初めて気が付いた。そして、彼らならば話を聞いてくれるのではないかなどと愚考さえもを巡らせてしまう。


「あの、俺、助けてもらいたくって――」

『下がれ。さもなくば、この場で射殺する』

「でも、俺は――」

『聞こえなかったのか? もう一度だけ言ってやる。――下がれ、さもなくば射殺する』


 次はない、とでも言うように、彼らは何のためらいもなく銃口を俺に向けた。トリガーに指をかけ、誰が見ても明らかな殺意をあらわにする。その銃は、雨でぬれて鈍い光を放っていた。

 そのあまりにも剥き出しの感情に晒され、俺は耐え切れず道をゆずった。


『協力、感謝する』


 感謝の意などまるでないと言わんばかりの淡白な言葉のあと、老人は担架たんかに乗せられて装甲車両へと運ばれていくのだった。

 装甲車両が飛び立ち、去っていくと、一瞬で通行人たちは日常へと戻ってしまう。まるで映画撮影か何かのエキストラのような反応に俺はついていけず、その場で立ち尽くした。


 いや、違う。

 彼らにとってはこれが日常なのだ。


 見も知らぬホームレスが正体不明の組織に連れていかれようとも、彼らにとっては日常以外の何物でもないと、暗にそう言っているのだ。

 俺は老人を乗せて飛んでいく装甲車を見上げると、この街の天井近くをゆっくりと飛行する飛行船に吊り下げられたホログラムの広告が目に入る。そして、そこに書いてある情報に愕然とした。


『NMM全国ニュース、お昼の放送です。大災害から約三世紀が経ち、西の今年も漂白地帯の水没範囲はさらに広がる見通しだと思われ、専門家からの――』


 西暦2342年。

 そのあまりにも突拍子のない数字の羅列られつに、俺は突き付けられた現実を理解する他なかった。


 ここは元いた時代ではない。

 三百年という月日が経った世界だった。

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