第7話 エディ・テイラー

「雨、すごいな……」


 ビルとビルの間にある……、いや、小さな街のブロックとブロックを繋ぐ巨大な連絡橋の上で、俺は眼下に広がる下層全域を俯瞰しながら男に話しかけていた。


「ああ、今は雨季だからな。上層で排水しきれない水が中層へ、中層でも排水しきれない水がこうして最終的には下層に降ってくる。都市周辺の『漂白地帯』は水没してるだろうし、しばらくは下層でも排水スプリンクラーが稼働し続けるだろうな」

「…………」


 橋の上には歩行者のための天井が設置されているため、俺たちが濡れることはない。そろそろ夕方ぐらいの時間なのだろうか。夕日こそ見えないが、閉鎖された缶詰の街並みにも夜の気配が忍び寄り始めていた。


「それで、お前さんが中層出身なのかどうか、聞かせてもらおうか」

「……やっぱり、言わないとダメか?」


 俺は手すりに寄りかかりながら、経口栄養補給液が入ったパックを口につける。スポーツドリンクのような味がするソレが、この時代に来て初めて口にしたものだった。


「正直に言うと、分からないんだ」

「……というと?」

「中層ってのが何かも分からないし、気づけば俺は鉄屑スクラップの中で目が覚めた。変な施設で目が覚めたのは覚えているんだ。……だけど、記憶が混乱していて」


 混乱しているというのは事実だ。

 だが、コールドスリープから目覚めたばかりの過去からの人間です。と言えばどうなるだろうか。『カソウオチ』が何かは分からないが、ぼかしておくに越したことはないだろう。

 エディは神妙な面持ちで顎をさすると、何かに思い当たったようにして口を開く。


「ははァ、そりゃ記憶が消されているんじゃねえか?」

「……記憶が?」

「ほら、記憶の消去デリートってのは珍しくない。とくに何か重い罪をやらかしたやつは釈放されるときにもう一度、同じことをやらかさないために記憶を消されるもんだ」


 そうなのだろうか。

 しかし、さっき得た情報によれば二百年は時間が経っていることになる。それだけの時間を眠っていたとは信じられないが、記憶に何らかの障害が発生しているのは間違いない。現に下の名前が――



「そういえば、傭兵になるっていうのは……いったい……」



 俺はエディの注意を逸らすようにしてそう言った。


「そのまんまの意味さ。オマエも遭遇したことはあるんじゃないか? 人外のバケモノだよ。虎、狼、蟲、蛇。――色んな種類がいるが、あれをぶっ殺すために都市から正式に認可された職業……それが『傭兵』ってやつだ」


 雨は激しく揺れるカーテンのように降っており、ちょっとした嵐の中にいる感じさえする。眼下では、ビルとビルの間を縫うようにして飛行する車両が軽い渋滞を起こしており、ときおり鳴らされるクラクションに、ずらりと密着するようにして赤いテールランプが並んでいる。


「あれを、倒すのか……」


 そう呟きながら、俺はすこし前に襲いかかってきた猫のようなバケモノを脳裏に浮かべる。気味の悪い紫色に光る眼球に、粘つくヨダレを垂らす凶暴な口元、なにより俺を殺そうとしたあの殺気は紛れもなく本物だった。


「そうだ……、そうでもしなきゃ俺たちはこの都市で生き残れないからな。こんな街じゃ一度でも足を踏み外せば、海底鉱山の鉱夫になるか、何らかの方法で企業の実験体になるか、そうでなくとも法外な仕事で食っていくしかない。もう一度、日の目を見るためには傭兵になるくらいしかない」


 怖い。

 ふいに浮かんできた言葉を、俺は口の中で噛みしめた。だが、きれいごとだけでは生きていけないことを、俺は同時に感じ取っていた。


 『下層』と呼ばれるこの街の日常では、薬物を吸うホームレスの老人に、詐欺まがいの露店で品出しする者たち、闇医者ディールを含めた裏社会で生きる者たちが、さも当たり前のように倫理を逸脱している。

 それは彼らがそうまでしないと生きていけない社会なのだと、この都市での理不尽を暗に説明しているようにも感じたからだ。鬱屈とした空気、媚びたネオン、金が倫理をレイプする社会。俺はそれを悟ってか、必要以上に泣きそうになっていた。


 また、あんな殺されかけるような目に合うのは嫌だった。誰が好きで、自分の命を危険にさらさなければならないのか。それならいっそ、死んだほうが――




【■■■■■■、□□□□――】




 キィン、と耳鳴りがする。

 俺は耳を抑えながら、帰りたいという言葉を胸の奥へ、奥へと押しやっていく。


「お前、見たところ金もなさそうだし、今日は俺の家にとまっていけよ」


 俺は持っていた栄養補給のパックを飲み干し、空になったゴミを押し込むようにしてポケットへと押し込むと、男の歩き出した方向へとついていく。


「そんで明日、お前も養成所の審査を受けろ。そしたら、タダで飯と寝床が見つかるはずだ。なに、入るだけなら誰でもできるさ。その後を覚悟しなきゃならねえだけでな」


 その言葉の意味は分からなかったが、いまの自分に他の選択肢がないことだけは理解できた。当分の間は、この男と共に行動するのが良いのだろう。俺は見知らぬ土地で、ようやく出会えた案内人のような男についていくことだけを考えていた。



        ***



「わりいな~、最近、他のやつを家に上げることなんて滅多になかったもんだから、めちゃくちゃ散らかっててよ。……ま、上がってくれや」


 パシュウ、と自動で横スライドする玄関を開けると、中からはまさしく『汚部屋』と言うのがもっとも正しいであろう手狭な“1LDK”が姿を現した。


「ここらは違法住居地区でよ。勝手に建てられた住居に、勝手に住み着くしかないからこんな汚い部屋になっちまった。……運が悪けりゃ、明日にでも都市が火をつけてブルドーザーで更地にしてくるからな。しゃーねえわな」


 男は天井高くまで積まれたゴミの山に持っていた大型の銃を放り込むと、ゴミ山は倒壊しそうになりながらも銃を受け止める。ついでにガサガサと黒い物体が足元を横切った気がしたが、それを俺は見ないことにした。

 男がいかにも古そうなプルスイッチ型の照明、そこから垂れ下がる紐を何回か引っ張ると、それは寿命が近いのか点滅を繰り返してから部屋の中を照らし出すのだった。


 キッチンには洗っていない食器や鍋、食材などが床にまで山積みになっており、床にはペットボトルや缶などから液体が漏れ出した形跡がある。そのせいで床材が腐っているのか、ゴミをどかすと茶色く変色したシミができた床が現れる。

 そこで俺は、ゴミ山のなかに埋まった写真立てがあることに気がついた。思わず引き抜いて写真を確認してみると、少年と車いすに座る黒人の女性が映っていた。


「これは?」

「その写真か? そいつは、俺のおふくろだな」

「へえ、今はどこにいるん――」

「…………」


 男の背中を見て、俺はしくじったことを悟った。雰囲気からして、どう考えても地雷の類の話題だ。

 触れていいものではなかった。

 ……だが、当の本人の表情は意外にもあっけらかんとしたものだった。


「……ま、ちょっと事情があるってやつだな。……外でタバコ吸ってくるわ。テキトーにスペース作って、それまで寝床確保しといてくれ」


 尋常じゃない量の空の酒瓶に、部屋を侵食する段ボールの数々。それらを手で脇に寄せ比較的きれいなスペースをつくると、俺はそこの壁に寄りかかるようにしてもたれかかった。

 窓の外には依然、街の光が部屋にまで入ってきており、どこかから緊急車両のサイレンの音が聞こえてきていた。家の階層が高いせいか、それは急激に近づいてきて窓の外ぎりぎりを飛行したあと、何事もなかったかのように去っていく。


 男が部屋を出ようとしたとき、座りこんだ俺を見て何かを思い出したような表情でタバコを口に咥えたまま、質問を投げかけてくるのだった。


「そういやオマエの名前、聞いてなかったな」


 名前。そうか名前だ。

 たしかに、彼らの前で一度も名乗ったことはなかった。


「俺はクロノだ」

「なんじゃそりゃ、昔のニホンジンみたいな名前だな」


 その言葉に、なぜかドキリと心臓が跳ねる。


「……ま、名前なんてどうでもいいや。今後、長い付き合いになるだろうからな。よろしく頼むぜェ~~」


 そのままベランダと思しきスライド式ドアを開け、部屋から出ていこうとする大柄な男を俺は慌てて呼び止めた。


「ちょ、ちょっと待ってくれ。あんたの名前を、まだ聞いてない」


 あんた、などと呼び方をとっさにしてしまい、柄の悪そうな目の前の男と話したことすらなかったせいで、内心、冷や汗をかいてしまう。


「お、そういえばそうだな。俺も名乗っとかねえと、気持ちわりいもんな」


 ――が、幸運にも男が機嫌を悪くするようなことはなく、目の前の男は「ふむ」とでも言いたげな顔のままアゴに手をやり、思い出すようにして自分の名前を口に出した。


「俺の名前はエディ――、エディ・テイラーだ」

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