第43話 歪な約束


 ステラはテーブルの脚に寄りかかるようにして、床で膝を抱きよせるようにして座りこんでいた。シャワーで濡れた髪をろくに拭きもしないまま、タオルだけを頭にかぶせながら。どうやら変な夢でも見ていたらしい。いつのまにか目には涙が溜まっている。


「…………」


 ガラス窓で弾ける雨水が、パラパラと音を発している。

 天井でプロペラを回すシーリングファンが、窓から差し込むネオンの光を浴びながらゆっくりと回転している。ときおり部屋の近くを飛行する反重力車両が、モーターを回転させるような音を鳴らしては過ぎ去っていく。


 空路を飛ぶ車のヘッドライトが、窓からときおり部屋の中を照らしだし、青年のシルエットを影として壁に映しだす。


 部屋は暗く、どこまでも藍色に染まっている。

 海底を彷彿とさせる部屋のなかで、肌にまとわりつく冷気はひんやりと体を包み込み、ステラはペトリコールの臭いをわずかながらに感じ取った。


「どうして、わたしなんかを、たすけたの?」


 思わず、そんな言葉が口から漏れた。

 サイズの合わないシャツとズボンの裾をまくることもせず、ステラはじっと下を見つめている。頬を伝いそうになる涙を隠そうと、指で拭ってはまた自分の世界を守るため膝を抱き寄せる。

 脱衣所からはガタンゴトンと、かすかに洗濯機の稼働する音が聞こえてくる。


「…………」


 返事はない。

 青年は雨で濡れたネオンの街を、窓枠に座りながら、微動だにすることなく眺めている。


 マンションの一室はロクに掃除もしていないのか、床やテーブルなど至る所にごみが散乱していた。アルコール飲料の空き缶の山に、吸い殻の入った汚水入りペットボトル、何かのジャンク品のネジやチューナー、畳むのも面倒くさいとばかりに一ヶ所に山積みにされた衣類。


 ステラはふと、リビングの床に一枚の写真が落ちていることに気が付いた。そこには四人の人物が仲睦まじげに笑い合い、カメラに向かってポーズを決めている写真があった。


 右から、褐色の肌をした大柄な男性。金色の長髪に白い肌を持つ女性が、満面の笑みを浮かべており。くすんだの茶髪に一番若く見える少年が、若干呆れた表情を浮かべている。そして、真ん中に珍しい純黒の髪を持つ青年が、他の三人に絡まれて笑っている光景だった。その青年は、窓際で座っている青年と同じように見えた。


「…………」

「…………」


 しばらくの間、沈黙が部屋の中を満たす。


 人は生きて、何かの営みをするために明かりを灯す。

 だが、ここにはガラス窓から見えるネオン街を眺める青年がいるだけで、部屋に明かりが点くことはなかった。点けるつもりもないらしい。


 青年は手に持っていた缶に唇につけると、中の酒をすこしだけ口に含んだ。まだ中身の残る缶を見下ろしながら、やがて、青年はポツリと言葉を漏らした。


「……それが、アイツとの約束だから」




             ***




「俺たちはいつだって――、何かに雁字搦めにされて、溺れるようにして生きている」


 ガラス窓に自分のやつれた顔が反射して映っている。

 眼球には街の明かりが灯っており、それはどこか朧げな色を放っていた。


「溺れないよう、もがいて、もがいて……、そうして彼方遠くにある、微かな希望を求めて生きるんだ。たとえそれが、蜃気楼のように幻想からできた光であったとしても……」


 ふと、窓の外にリリーの顔が見えた気がした。

 その顔に生気はなく、真っ黒に陥没した目はしきりにこちらに向けられている。業を背負えと、そう言っている気がした。


「だから俺はもがいた。きっとそこに俺の求めた希望があると、かつて求めた「生きたい」という渇望に駆られて、必死になって……」


 俺はチルドレンに斬り飛ばされ、義手に成り果てた左手を眺めるようにして掲げた。左手の指を見えない何かを掴むようにして動かす。だが、動かしてもモーターの回転する音が聞こえるだけで、それは空気をすこし動かしただけだった。


「でも、そこには何もなかった。希望も光も、すべてが消え去って、ただただ何もない空間だけが、俺を嘲笑っていた。この手に何も残りはしなかった。……結局は、何も掴むことができなかったんだ」


 俺は右手で持っていた缶をくしゃりと握り込んだ。

 アルミ缶の軋む音が響き、次いで酒がすこしこぼれた。


「何かを望めば、それを誰かに奪われるかもしれない。大切な何かを持てば、その何かを失うかもしれない。そんなことは小さいころから知ってた。だから、死なない程度の食事があって、雨風を防ぐ程度の家があって、寒さを凌ぐ程度の服を着ることができれば、何でもよかったんだ。ただ、それだけだったのに……」



【■■■■■■、□□□□――】



 また、どこかからかノイズが聞こえる。

 だが、今度はあまりに音が小さかったため、不快感を覚えることすらなかった。


「普通のものを食べて、普通のことで笑って、普通として生きていく。……でも、そこに笑い合える仲間を入れることをこの世界は許さなかった。ほんのすこしの惰性が残るだけの日常であっても、世界は容赦なく奪い去っていった」


 俺はひしゃげた缶に口をつけると、ゆっくりと中身を飲み干した。

 折りたたむようにして空き缶をさらに握り潰し、散乱した空き缶の山に投げ込んだ。その空き缶はカランと軽快な音を奏で、数回跳ねた後に、傾いたままの床に従って不規則に転がりだす。


「怖かったんだ、何かを失うのが。道を踏み外して、何かを間違えることが。だから、溺れてもいいやとしだいに惰性で流されることばかりを選んでた。……キミを助けたのは、キミのためなんかじゃない。俺はきっと、もっと身勝手で、矮小な人間なんだ」


「ふざけないで――‼ 」


 部屋の中にステラの叫び声が響き渡る。


 俺がチラリと部屋の中へと顔を向けると、そこにはいつのまにか白髪の先端を赤く焦がすステラが立ち上がっていた。感情と同期して炉心の温度が上昇しているのか、ステラの髪先と目の色が赤くなっていく。彼女の何を刺激したのかは知らないが、俺はズボンのポケットから発ガン性物質の塊を取り出すと、それを口に咥えて火をつけた。


 軽快な音と共にライターはタバコの先端を焦がし、役目を終えると、ふっと音もなく消失する。

 最期には行く当てもない放浪とした煙のみが揺蕩っており、やがてはそれも空気に呑まれて消えていった。


「ふざけないで、わたしはなにも、こんな形で助けてほしいなんて言ってない。わたしは、……わたしは、ただ……」

「…………」


 ステラの声は今にも消えてしまいそうなほど、震えていた。ステラは両手でぎゅっとシャツの裾を握りこむと、やがて下をうつむいた。それは彼女が他に行く当てもなく、孤独に打ちひしがれているが故のものだった。俺はステラに目をやりながら、下を向いて白煙を吐いた。


「本当なら、あそこに帰りたいのに。……もう、帰れない。……あそこは、わたしが思ってたような場所じゃなかった。そのことに、気がついたから」

「…………、……俺には分からないな。……もう帰れないのなら、行き着いた場所で生きていくしかない。もう戻れない過去を悔やんだって、どちらにしろ何も変わらない。……俺も、キミも、ここで生きていくしかないんだ」

「――――っ、それは……」


 心の底で覚悟していたことを言い当てられたことで、ステラが義体をわずかに揺らして動揺するのが分かった。彼女の心には膿がたまっている。それを出させるにはどうすればいいのかと思いながら、俺はしきりにタバコで肺を汚していく。

 そして白煙を細く、長く吐き終わるのと同時に、俺はようやく口を開いた。


「……ラウンドゼロ。キミの生きてきた世界のサーバーの名前らしい。キミの生きてきた世界は偽物だった。よかったじゃないか、それが分かって」


 せせら笑うようにして、俺はステラにそう言った。本心だった。心の底から羨ましいと思ってしまったからこそ、俺にはこう言うしかなかった。

 彼女はしばらくの間、何を言っているのか分からないとばかりにぽかんと口を開けたあと、ようやく理解したのかカッと顔を赤面させた。同時に真っ白な髪の先端と瞳が、いっきに赤色へと変わっていく。


「――――っ、この――ッ!!」


 ステラは激昂し、こちらへとつかみかかってくる。俺は一切抵抗することなく襟につかみかかる彼女を眺めながら、おおよそ少女の持つ腕力とはかけ離れた力で押し倒された。後頭部を硬い床にガツンと打ちつけた拍子に、持っていたタバコがどこかへと消えていく。


「ステラだって、好きでこんな場所に来たわけじゃない! 本当なら今ごろ学校に行って、いつもみたいにクラスで友達に会って、いつか外の街で一緒に買い物に行こうねって笑い合ってた! なのに、気がついたら変なカプセルに入れられてて、爆発に巻き込まれて、勝手に改造されてッ――‼ 」


 唇をわなわなと震わせながら、ステラは行き場のない怒りを露わにするようにして、小さく拳を振りかぶった。俺は少女に馬乗りにされながらも、そこまで強くもない力で顔を殴られていく。だが、たとえ全力で殴られてないとはいえ義体の合金骨格からなる拳は硬く、俺はわずかに血の味がするのを感じていた。


 ステラはしだいに殴る力を弱めていくと、やがて嗚咽(おえつ)を漏らしながら、俺の首を絞めはじめた。いっきに首にかかる圧力が強まる。気道が圧迫され、首の骨と筋肉が軋む音が脳内に響き渡る。


「なんで、抵抗しないの……?」


 ステラはぽつりとそう言った。

 自分のやっていることが、ただの八つ当たりだということを理解しているからなのだろう。それでも、俺は彼女を突き放すような言葉を放つ。


「……本当にやりたいのなら、やってくれ。キミに殺されるなら本望だ。……もう今さら、この世界に未練なんてない」


 首を絞められたまま、かろうじて出した言葉はこれ以上ないほどに掠れていた。

 ステラの長い白髪が顔にかかり、窓の外で煌めくネオンの光が遮断される。そのせいで彼女の顔が陰になって見えない。それでも、頬に落ちてくる水滴と漏れるような呻き声から、彼女が泣いていることだけは確かだった。


「勝手なこと、言って……っ‼ 」


 自分の髪をベットの天蓋のようにしながら、ステラは俺の首に手を当て続ける。ステラの右腕の義手がひんやりと首筋に当たっている。無機質で冷たい義手は、彼女の声と同じだけ震えていた。


「……キミが俺を殺すことで、最初から最後まで誰も助けられなかった俺にも、すこしは誰かの役に立てたんだと思えるから」

「そんな、そんなこと……っ!!」


 ステラが悲鳴を上げるようにして泣き叫び、今度は首ではなく胸ぐらをつかんでくる。

 そのとき、ステラの瞳の中にリリーの顔がちらりと見えた気がした。



【■■■■■■、□□□□――】



 今度はハッキリと聞こえるノイズと強い頭痛が襲ってきたせいで、俺は思わず顔を顰めさせた。やがて、視界がぼんやりと藍くぼやけていく。瞳孔が散大するのが感覚で分かる。


『人も物も、一度失ったものは、二度と戻ってこない』


 ステラの顔と焦点の合わない虚空を見つめながら呟くと、俺は口を動かし始めた。


『後悔は何度してもしたりない。納得だって出来るわけがない。でも、俺一人では避けられない結末も、そこには確かにあったんだ』


 ステラは真っ赤な瞳をこちらに向けているらしい。

 俺は青黒いような視界の中で、どこか紫色のようにも見える彼女の瞳をぼんやりと見つめ返す。


『どうしたら、良かったんだろうな』


 ぼそりと呟くと、少女は苦しげに唇をまた噛んだ。


『どうしようも、出来なかったんだろうな』


 勝手に動く声帯のままにそう言うと、何かが俺の中で恐ろしいまでに気持ちが整理されていく感覚がした。心の底に蓄積されていた力のない自分への憤りや行き場のない怒り、やるせなさ、そういったものがすべて穴の開いた水槽のようにしてどこかへと消えていく。


『どうにか出来ないことも、この世にはあるんだろうな。それこそ数えきれないほど、たくさん……』


 俺は呆然としたまま、何かを諦めてしまったかのような口調で、挿入されたカセットテープの内容を反復する機械のようにそう呟いた。しばらくの沈黙がその空間に満ちる。だが、それは先ほどの張り詰めたような空気ではなく、どこか包み込んでいくような、そんな空気だった。


 俺はあのときのリリーの言葉を思い出していた。


 リリーはあのとき、『抱きしめてもらえれば、それでいいのにな……』と呟いていた。だけど俺は、それを聞こえないふりをして誤魔化した。リリーは俺に、支えてほしい、守ってほしいと言っていた。それを俺は、暗にできないと拒否したのだ。


 クロノという人間に、リリーを守り切れるだけの力はなかったから。

 クロノという青年に、誰かを守り切るだけの甲斐性はなかったから。


 ――だから、リリーは死んだ。


 誰にも頼ることができず、誰にも支えられず、誰にも抱きしめてもらえなかったから。

 それは今なお、変わっていない。



 ステラが求めているのは、居場所だ。



 俺が最初この都市に流れ着いたとき、感じたものと同じだ。


 ステラは居場所を探そうとしているのだ。知り合いなどおらず、誰も助けてなどもらえず、どこにも存在を認めてもらえない。そんな世界で、不安や孤独に押しつぶされそうになりながらも、どこかに自分の居場所を見つけようと必死になっている。いまにも消えてしまいそうな自分を支えてほしいと、ステラは暗に言っているのだ。


『いつか、わたしの代わりに……困っている子がいたら……』


 声が聞こえる。

 リリーの顔が脳裏をよぎる。助けろと、体が勝手に動きだす。


『助けて、あげてね……』


 それでもリリーが最後に漏らした言葉は、俺の心に深い、深い楔(くさび)を打ちつけた。

 助けろという強迫観念が、無意識に体を突き動かす。呪いともいえる最期の約束を、俺は果たさなければならない。リリーが初めて会った日に、俺にしてくれたやり方で。だから――



「キミは、もっと、他人を頼っていいんだ』



 俺はのろのろと馬乗りでこちらを見下ろすステラの頭に手を伸ばすと、ぎゅう、とステラの体を抱きしめた。ステラの人工心臓が、トクン、と大きく跳ねる。俺はステラの頭をなでながら、か細い体をゆっくりと抱きしめる。首筋にステラの息があたり、しきりにステラの白い髪先が肌をくすぐる。


 一線を超えてしまったことに、ふいに俺は涙が頬を伝っていることに気がついた。


『…………、…………」


 安堵ではない。

 心に走る激痛によって、無理やり流された涙だった。

 しばらくのあいだ、俺たちは窓から入るネオンの光を浴びながら抱き合っていた。ステラの小さな呼吸音が部屋に響き、俺は死骸のように静止したままステラの体を抱き寄せる。


「最後に、聞かせてください」

「…………」


 ステラが俺の耳元で、囁くように口を開く。


「あなたは、数あるアンドロイドの内、どうしてわたしを選んだのですか。どうして、わたしじゃないといけなかったのですか。……明確な理由があるのなら、教えてください」

「…………」


 俺はフードの男に渡された記録媒体のことを思い出したが、そんなことを言っても仕方のないことだと、その記憶をどこかへと追いやった。ステラの今にも消えてしまいそうな声に対して、俺はぽつりと言葉を漏らした。


「分からない」

「そう、ですか……」


 そう言うと、半ば覚悟していたとばかりにステラは目を伏せた。

 俺は自分の意志でもない理由を、再生機能を押された装置のように吐き出す。


「別れ際に、仲間だったヤツに言われたから。……自分の他に、困っている子がいれば助けてあげて欲しいと。もう会うこともできないあいつに、言われたから」


 俺は上体を起こし、ステラと至近距離で顔を合わせる。

 崩壊炉も落ち着いてきたのか、ステラの瞳や髪先はすっかり緑色へと落ち着いていた。


「ステラ、俺はキミにいつか背中を預ける日が来るかもしれない。そのときは、ステラは自分の選択に後悔をしないでほしいんだ。そうすれば、俺はステラに安心して背中を預けられる」

「…………」


 こくりとステラが頷くと、俺は無理やりにでも口角を上げながら笑いかけた。


「ああ、任せたよ。これからよろしくな、ステラ」


 守れるかどうかも分からないのに、『キミを守る』という約束を、俺はこうしてステラと交わしてしまった。正常な動作をするステラの緑色の義眼は、その奥でどこか俺に寄りかかるような澱みを孕んでしまっている。それを裏切る瞬間を想像するだけで、俺は耐えがたいほどの苦痛に襲われた。



 ――最低だ、俺って。



 このときから俺は、自分のことが心底嫌いになった。

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