第42話 外の世界


「着る服がないと寒いだろ。……これ、やるよ」

「…………」


 そう言って投げるようにして渡されたのは、彼が普段使っているであろう替えの白シャツと簡素な黒いTシャツ、それだけだった。下着はなく、スカートの類もないらしい。青年は火のついたタバコを咥えたまま、わたしの頭に黒いTシャツをかぶせると、後は自分でやれとばかりに手を離した。


「キミの名前は、ステラ、……でいいのか?」


 わたしはかぶせられた黒いTシャツに袖を通しながらこくりと頷くと、青年は分かったとばかりに頷いた。青年の着ているサイズが大きいせいか、Tシャツの裾がぶかぶかとしていて、局部が見え隠れしそうになってしまう。

 これではまるで、際どいミニスカートのようだ。

 それとなくTシャツの裾を引っ張ることでそのことを伝えると、青年はそれしか持ってないとばかりに頬をかくと、またもや視線を逸らした。そして、着替えを見ないように配慮してか、そのまま踵を返すのだった。


 男の人なんて、初めて見た。


 学園では、初等部、中等部、高等部を通して、こうして話したことも会ったこともなかった。

 あそこで習ったのは、銃砲・刀剣、怪物を倒すための体の動かし方だけだ。異性と話すための交渉術なんて習ったこともなく、わたしはひたすらに刀と銃を握らされていたから。


 どちらにせよ、いま目の前でタバコを吸いながら後ろを向く青年を、わたしは信頼してもいいのか判断しかねていた。


「……着替え終わったか」


 青年はそう言ってこちらを向くと、生まれたての小鹿のように震えるわたしの左足へと視線を向けた。

 そして何を思ったのか、青年はわたしに近づいてきては目の前で腰を下ろして、しゃがむのだった。


「左脚、あんまり動かないだろ。……俺の義手も着けたばかりは動かしづらかったからな。……乗っていけ」


 どうやら背中に乗れと言っているらしい。だが、わたしは青年の背中に乗ることに、思わずためらってしまった。

 濡れた自分の体から漂う腐臭はかなり酷く、すえたような臭いはいまや青年の貸してくれたTシャツへと染み込んでいる。そんな状態で背中に乗れば、間違いなく青年にも臭いが移ってしまうだろう。


「早くしてくれ。強化服のバッテリーを充電するのだって、タダじゃないんだ」


 だが、青年はしきりに早くしろと急かしてくる。わたしは仕方なく青年の肩に手をつくと、そのまま彼の背中へとゆっくり体を預けるのだった。

 青年がわたしが乗ったのを確認した後、ぐん、と勢いよく立ち上がった。落ちないように青年の腕で支えられてはいるが、それでもまだ不安定な姿勢だったため、わたしは彼の肩にひたいを押し付けると息を吐いた。


 青年と同じ高さの視点を眺めながら、わたしは部屋の中で殴った拍子に気絶したままのネズミ男へと目をやった。強姦されると勘違いした拍子に、鼻血を出すほど殴って気絶させてしまったネズミ男は、どうやらあの対応で良かったらしい。


 傍にいたカマキリのような義体者とカエルのような見た目の男、そして、自分を背負ったまま歩きだす青年はみな、ネズミ男に対して気にも留めていないようだった。


(危なかった。もし、このひとたちの怒りを買っていたら、死んでたかもしれない……)


 あのときは思わず逆上して殴ってしまったが、もし、青年たちが何らかの不穏分子や地下組織だった場合、自分はロクな目にあっていなかったのだろう。最悪、殺されていてもおかしくなかった。


 授業で見た映像の中には、裏切者の肉をすこしずつ削ぐ拷問をする麻薬組織や、斧で産業スパイの首を生きたまま切断する地下組織などがいた。外には残酷な人たちがたくさんいると教えられ、わたしたちはそれまでに対抗する手段を持たなければと訓練を課されてきた。


 ここはあそこよりもずっと臭いが細かく、視界に映る物は解像度をどれだけ上げても粗がないようにすら感じた。わたしは青年の肩ごしに見える世界への不安と寂寥感を感じながら、歩くたびに揺れる体を彼へと密着させた。


 やがて、青年の手によって重厚な金属扉が、ギィと軋んだ音を鳴らしながら開いていく。

 そうしてわたしは、授業でしか習ったことのない本当の外の世界へと歩きだしたのだった。



           ***



『現在、異常気象による積雪地域は「漂白地帯」全域で、現時点での積雪深は三メートルとなっています。また、降雪量は増加する見込みで、傭兵許可証のない一般人の都市外部への外出は禁止されています。NMM都市政府は、下層への浸水も懸念しており――』


「…………」

「…………」


 ひんやりと冷たい雨が降っていた。

 わたしがいたところとは違って、空は見えない。それどころか、配管やダクトが剥き出しの天井が蓋をしている。作り物じみた青空ばかりも飽きるけれど、だからといってこんな街がいいとは決して思えなかった。


『――速報です。首都三大企業の一社である【月庵】が、近日中に東京爆心地跡の最深部への探査部隊を派遣することを表明しました。実に十五年ぶりの調査隊ということで、都市政府は三ツ橋重工への協力も要請をしたとのこと――』


 アスファルトが黒く濡れている。青年は行き交う通行人とは違って傘を持っていないのか、しきりに雨粒に当たらないようにと走っていた。幸いにも雨の勢いはそこまで激しいものではない。しとしとと優しく降る雨を、青年は唇を噛みながら忌々しげに眺めている。


『企業間契約を、先ほど無事に締結することができたとのことです。現院長である月庵宗次郎氏は、今回の契約締結のなかで『人類が未知なる領域へと至るキッカケになれば』と、語っており――』


 大通りの商業ビルの壁面モニターからニュース番組が流れている。どうやらこの街の外では雪が降っているらしい。青年もまたチラリとモニター確認すると、なぜか、すぐに眉間にシワを寄せながら顔を逸らした。


 もう一度見てみると、どうやらニュース番組は終わり、代わりに販促用のCMが映っていた。

 ビルの壁面など至る所でネオンに彩られた広告が、湯水の如く電力を消費しており、購入や契約を催促する騒々しい音を延々と垂れ流しはじめている。


 広告塔のピエロが半透明のホログラムを限界まで拡大してきながら、とあるコードを見せびらかしてくる。しかし、それが視界に入った、その瞬間――


「…………」


 ふいに、わたしの視界に『ポン!』というポップな音とともに、ひとつの不気味な広告が展開された。見出しに【Neo-Fiber!】と書かれたオレンジ色のサイトには、どうやら何かの人工筋肉が商品として売られているようだった。

 さっきまでビルの街頭モニターにいたピエロが、剛健型、敏捷型、強化型、はたまた解体用の資材運搬用アームの拡張型筋肉と、ところ狭しと自社の商品をアピールしている。だが、わたしが何もこんなサイト興味がないのにと思った、次の瞬間だった。


 街のあちこちに点在する視界に入るよう調整された無数のコードから、一斉に、企業サイトが目の前に展開されたのだ。企業ビルの街頭モニターしかり、街中の広告パネルしかり、さらには行き交う人が着るジャケットのコードからも――。

 洪水のような激しさで展開される広告が、ポップな音と連動して濁流のように鳴り響き、一瞬で視界を埋め尽くしていく。まるで獲物に群がるハイエナのようにして、広告はやがて外の世界が見えなくなるまで広がっていった。


「……ぁ……」


 頭に鋭い痛みが走るのを感じた。

 わたしが思わず小さなうめき声をあげると、青年がこちらを見てくる気配がした。


「……どうした?」


 青年が心配そうに具合を聞いてくる。

 視界を埋め尽くす広告で前は見えないが、直後、ひんやりとした何かが自分のひたいに当てられたのが分かった。

 視界は今なお別の広告のサイトで埋め尽くされているが、それでも、それが青年の義手なのだと気づくまでそう時間はかからなかった。


「……すごい熱だ。どこか痛むのか?」


 その青年の言葉で、自分の頭がかなりの熱を持っていることに気がついた。

 きっと目の焦点も合っていないのだろう。やたらと通信を喰う広告が一斉に表示されたことで、脳核が発熱してしまっているのかもしれない。


「広告ブロッカーを入れてないからか。……今から海賊版をインストールするわけにもいかないし」


 青年はぼそぼそと何かを言うと、体を揺らしてわたしを背負いなおしながら、次いでこう囁くのだった。


「少し回り道をするが、いいか?」


 言われるがままに、わたしは痛みに耐えながらも訳が分からないままに頷いた。

 直後、ぐんと体が下に引っ張られるような感覚と浮遊感が訪れ、次いでどこかへと着地する感覚が訪れた。わたしが青年の体に抱きついていると、やがてどこかへとゆっくりと降ろされる。


 目を閉じていても表示される主張の強い広告は、吐き気さえ催しそうになるほどの頭痛を併発させている。そのせいか、わたしは自然とまぶたをぎゅっと閉じていた。青年の手がなにやら、わたしの後ろ首あたりをいじっている。


 そして、何かがカチリと鳴った瞬間、驚くほど重かった頭が軽くなるのを感じた。


「目を開けてみな」

「……ぇ……」


 ゆっくりと目を開けてみると、どうやって跳躍したのか、いつのまにか小さな雑居ビルの屋上にわたしたちはいた。あれだけあった広告は今や一つも見当たらず、しとしとと降る雨粒がコンクリートの屋上で弾けているのを見ることができる。


「ステラの受信装置をオフにした。このままだとネット自体にも接続できないから不便だけど、これで広告は表示されてないはずだ」


 そう青年は言った後、吸っていたタバコが濡れてまずくなったとばかりに吐き捨て、吸い殻を排水溝へと軽く蹴った。わたしは表通り沿いに車道と空路を行き交う車を眺めながら、同じくらいの高さの背の低いビルが建ちならぶ街並みを俯瞰した。


「大丈夫か」

「…………」

「……大丈夫そうだな」


 青年は段差に腰かけるわたしと目線を合わせると、こちらの顔を覗いてきて、眼球の色彩を確認すると頷いた。


「まだ、ターミナルまでは距離がある。悪いが、すこし急ぐぞ」


 青年は靴のかかとに付着したガムをアスファルトにこするようにして、さらに走るスピードを上げる。そして、わたしは青年に背負われたままターミナルへとたどり着くと、中層行きの車両へと乗り込むのだった。



           ***



 中層という区画の青年の家に連れ込まれるや否や、青年は玄関で濡れたまま立ち尽くすステラの頭にタオルを乗せると、脱衣所へと放り込むのだった。


「とりあえず、シャワーを浴びてきてくれないか。服はそこに置いておいてくれ。着替えはサイズが合わないかもしれないが用意しておくよ」


 青年にそう言われるがまま、ステラは浴室の照明をつけて中に入ると、そのままシャワーのレバーを引いて温水を浴び始めた。


「…………」


 ざァ、と義体の表面をシャワーの温水が伝っていき、湯気が浴室のなかに充満していく。鏡を見てみると、シリコンの皮膚が取り付けられていない右腕の義肢がやけに痛々しく映った。左脚の義足は膝よりも上から白い包帯で巻かれた接続部を境目に、虹色の金属光沢がある剥き出しの人工筋肉が伸縮を繰り返している。


「……ぁ……」


 ふいに、ぼろぼろと目から液体があふれた。


 だが、それは涙などでは決してなかった。

 義体の義眼のレンズを洗浄するために吐き出される、ただのウォッシャー液に過ぎない。そのことが、ステラの喪失感をよりいっそう増幅させていた。


 浴室の床に膝を抱き寄せるようにして座り込みながら、ステラはシャワーの水音を聞きながら、ひたすらに下を俯いて泣いてしまった。その声はシャワーの水音でかき消されて、やがて排水溝へと流れていった。

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