第16話 正義という名の感情論

 いつのまにか、俺は椅子に座りながらこくりこくりと頭を何度も落としそうになりながら、夢と現実の狭間を行き来していた。辺りは薄暗く締め切っており、揺れるカーテンの隙間から覗く暖かな光の筋が、部屋の中で舞っているホコリを光の粒へと変える。もっとも、その光も陽光ではなく白熱電球のネオンなのだが。


 そのとき、ガチャリと扉のドアノブが捻られ、見知った顔が入ってくる。少年アトは自らの倫理を切り捨てて手に入れた金を、握りしめていた。


「まだいたのか」

「……任されたからな」


 俺がそう返すと、少年はフンと鼻で息を吐きながら、俺の隣の椅子へと座った。


「……売れたのか?」

「……売れたよ。ぜんぶ。……チップもくれた」

「…………、……そっか」


 アトは今しがた眠りへと付いた妹をなだめながらも、エクサの隙間風のような乾いた呼吸だけが、部屋の中で静かに音を立てている。彼女の腐りゆく腕には包帯が巻かれており、その症状は、彼女が侵蝕ステージ末期患者であることを示していた。


「なんだよ。やってほしくないなら、ハッキリとそう言えよ」

「……やってほしくないね」


 俺が意を決してそう言うと、アトは怒るわけでもなくじっとこちらを見てくるのだった。


 近くには下水処理場があり、空気は腐っているように臭う。

 お世辞にも衛生状態が良いとは言えない場所だった。

 それでも、彼の妹を想う温かな空間がこの部屋にはあった。


「なんでだ? なんで、やっちゃいけないんだ?」


 単純な疑問だった。

 アトはそう言うと、そのまま言葉を続ける。


「ここはアンタのいた中層じゃない。下層だ。臭い、臭いとレッテルを貼られ、空に蓋をされたやつらが住む街だ。生まれた瞬間からロクな生き方ができないと絶望し、大半が電子ドラッグに依存し、夢の世界だけで生きる街だ」


 アトは唇を噛むと、俺から顔を逸らした。


「この下層のスラムで生まれた子どもが、十才までに経験することが何か分かるか?」

「…………」

「人に向けて、発砲することだ」


 心臓が跳ねる。

 想像しただけで冷や汗がでる。


「理由はいろいろあるさ。ただうざかったからで撃つやつもいれば、食べ物を盗むのがバレて店主を撃ち殺したやつも知ってる。三才で親を誤射したやつもいれば、意図して殺したやつもいる。そこらの路地に座り込む子どもは、一人の例外もなく誰かに向けて銃を撃ったことがあるやつらだ」


 黙りこくる俺をよそに、アトはなおも話を進める。


「最初から、人間としての尊厳を持ったまま生まれてこれるヤツが、この世にはいったいどれだけいると思う?」


 少年、アト・フェムトは言った。

 オマエの正義など、自分たちの知ったことではないと。

 そんなものに、他人を救うだけの力はないと。


「正義や悪だなんて思考ができるのは、きちんと道徳教育を受けてきた上層や中層のやつらだけなんだ。僕たちみたいな、ゴミ捨て場から人生をスタートする人間もどきのやつらには、今日を生き延びることだけで精一杯なんだよ」


 アトはそう自分で言いながらも、やるせなさと辛さのにじむ顔を下へと向けた。


 三百年後の世界は、自分よりも年下の少年が、当たり前のように殺人を仕事として請け負う世界だった。夢と科学と希望が詰まったSF世界などでは、断じてなかった。

 抵抗があった。その現実を認めることに。許容してしまうことに。


 当たり前となってしまうことに――


「エクサの治療費は、Q粒子の侵蝕によるものだ。妹の治療代は、僕が稼がないといけない。その金をどんな手段でも手に入れる必要があるときに、理想しか語れないやつが、誰よりも現実を直視している僕たちにとやかく言える権利なんてない。正義だなんて幻想に囚われているだけのやつらに、どうせ僕たちは救えないんだ。それなのに、なんで――」


 俺は言うかどうかすこし迷ったあと、腹を決めて口を開いた。


「人としてではなく、友人としてやってほしくないからかな……」


 俺はそう言ってから、なんともズルい言い方だなと心の中で苦笑した。

 これはただの子供だましだ。


 そうだ、これは正義なんかじゃない。

 いまのアトと話すには、何が善いことで、何が悪い行いなのかで言っても届かない。

 だからこそ、純度百パーセントのエゴで引き止めようとした。


 訝しげな表情をするアトに、俺はさらに質問をする。


「――じゃあ、逆に聞くよ。なんでアトは傭兵なんて目指そうと思ったんだ?」

「…………、それは……」


 ずっと話していたアトが、初めて迷ったようにして口ごもった。


「キミの近くにもいたはずだ。早くから麻薬カルテルか地下組織に入って、裏社会で成り上がろうとするやつ。もしくは幼少期から絶望して薬物に手を染めて、穴の開いた脳みそで快楽殺人を繰り返すやつ。――それでもキミは傭兵になる選択をした。どうしてなんだ?」


 どちらもおそらくいるであろう妄想の人物像だが、アトには覚えがあるのか、すこし複雑そうな顔をした。


「それは……」

「絶望して快楽や悪に堕ちるのは、案外簡単なんだ。でも、その逆は信じられないほど難しい。……人は弱い生き物だ。追い込まれていくと、しだいに単純な快楽や欲望に溺れる言い訳をつくってしまう。その最後の理性を薬物で溶かしてしまったら、あとに残るのは欠如した人間性と快楽に支配された残虐性だけだ」


 妹の治療費を稼ぐだけならば、薬物を仕入れる売人や運び屋、裏社会で生きる殺し屋になってもよかったはずだ。それでも、アトは傭兵というこの下層で唯一の手段をとった。それは、きっと――


「アトがもう薬物に手を染めて人殺しを楽しんでいるのなら、エディもたぶんだけどキミには話しかけてなかったと思う。でも、エディはキミに仲間になれと誘った。アトは傭兵になるっていう目的を掲げることで、同時にこんな環境から抜け出したいっていう意志があったはずだから」

「…………」


 俺がそう言い切ると、アトは下を俯きながら呟いた。


「ただの、ワガママじゃないか……」


 そうだ。こんなものは結局、正義か悪かで語る高尚さのある感情論ですらなく、ただの俺のワガママでしかない。きちんとした倫理・道徳の整った時代に生まれ、なにが悪で、なにが善か、それを見分けることのできる特権持ちの一方的なエゴ。それでも、俺は――


『この世に絶対不変の正義はなく、純粋無垢な悪もなし。そこにあるは、ただの現実。理不尽なれど、それが現実』


 ふいにポツリと漏らしたアトのその言葉は、年下の子供の言葉に過ぎないはずなのに、なぜか俺の心を深くえぐった。


「僕の親父の言葉だ。僕はこの言葉が大嫌いだった」


 ストリートチルドレンなど、ここらの下層区域では珍しい存在ではない。

 親の顔も知らない孤児。終わりのないゴミ収集。噴き出すような怒り。終わらない憎しみの鎖。縛られた運命。そして倫理さえも捨てた殺人へと向かうように仕組まれた運命(レール)。アトもそうだと思っていた。だから親がいたという話を聞いたとき、俺は驚いた。


「――でも、傭兵だったからか、滅多に帰ってこないクソ親父だったよ。そのせいで、母さんはエクサを生んで死んだ。……最後に帰ってきたのは八年前だ。それまで僕たちは野原に捨てられていたんだ。あんな、人を喰う化け物のいる荒野に……」


 たとえ親がいる状態で育ったとしても、きちんと子供を育てる者など皆無に等しい。上層・中層ならまだしも、下層ならほぼ孤児しかいないだろう。


「あいつは家族よりも、より多くの人間を救うことに命を懸けていた。その姿勢は、お前から見たら評価されるべきものかもしれない。だけど、たとえ自分が死んだとき、身近にいる人間がどんな末路を辿るかくらい考えても、考えたっていいじゃないか!」

「…………」

「アイツはそれを考えなかったんだ。アイツはいつも他人ばかり気にしていた。一番、救うべき人間は身近にいたはずなのに。それなのに、アイツは……、アイツは……ッ」


 死ぬ思いで生きてきたのだろう。彼の焦げたような跡が残る灰色の髪や、年相応の体付きなのに消せない傷痕が染み付く肉体は、それを暗に示していた。一切を振り向くことなく会話する中で、アトの視線は妹のエクサだけに向けられている。


 唯一、垣根(かきね)なしに信頼できる相手なのだろう。

 彼女が、アトの生きがいと言ってもいい。それだけの支えを彼女は担っている。

 逆に、彼女は彼の金銭的支援失くして生きてはいけない。

 精神的支えと肉体的支え。

 決して断ち切れることのない絆。されど脆く淡く儚い兄妹が、そこにはあった。


「だから僕は――、正義か悪かなんて感情論で話すヤツが、一番嫌いなんだ」


 どこまでも相容れることのないであろう、平行線上で相互にねじれた価値観の相違。だが、それは果たして少年の価値観が歪んでいるのだろうか。

 それとも、俺が――、死という概念に晒されない世界の中で気がつかないうちに、ゆっくりと歪み、壊れ、腐りゆく価値観へと溺れてしまっていたのか。


 部屋の中には、ゴミを燃やす焼却炉の稼働音、工事現場の建設音、排気ダクトの空気の流れる音が、徐々に大きく主張し始める。無機質な音たちが、床に臥せる一人の少女の呼吸音を蝕んでいく。


「……けど、今日は助かった。…………、ありがとう」


 悲痛な想いが、アトのその最後の言葉の裏には隠れているように思えた。

 俺の目の前には年相応の、されど残酷な大人として早々に生きることを強要された、少年の痩せた背中だけがあった。これが、この都市の下層で生きるスラムの子どもだった。




        ***




 この世界に来て、一つ分かったことがある。

 ネオン輝く世界でも、すべてが煌びやかに光を放っているワケではないのだと。

 光が強くなればなるほど、生まれる影も濃くなっていく。

 きっとそれは、いつの時代も、どこの世界でも同じことなのだろう。


「新米(ルーキー)くんっ!」


 人間とは不思議なものだ。

 最初はあれほど拒絶反応さえ示していた銃の存在や殺し合うという概念について、今ではソレが日常生活の中で当たり前のモノと化していたのだから。もう、最初の頃のように銃声で驚いたりはしないし、トリガーを引いて肩が外れたりもしない。死体を見ても耐性が付いてきたし、それが当たり前とも思い始めていた。



 そして、この世界に来て半年が経った頃だろうか。

 パーティーに新たな加入者が現れた。



 彼女はにへらと笑いながら、銀色の瞳をこちらに向ける。


 リリー・キャンベル。

 それが彼女の名前だった。

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