第38.5話 ステラ

 少女の名前は、ステラ。

 人として生まれ、人として生きてきた。


 そう思っていた。


 視界の解像度に粗が出ることもなく、聞こえてくる風や木々の揺れる音、クラスメイトたちの談笑にノイズが入ることもない。校舎裏に咲く花を触れば指先に小さな摩擦を感じたし、その蜜の匂いも本物だと思っていた。クラスメイトに抱きつかれれば、人の温もりだってちゃんと伝わってきた。


 校舎を含む小さな区画の外には色んな人が住む外の世界があるのだと教えられてきたし、外は治安が悪いから先輩たちを見習って銃や刀の扱い方をマスターしなさいと、先生たちからは口を酸っぱく言われてきた。


 いつかみんなで外の街に出てお買い物できたらいいねって、宿舎の同室の女の子たちとも消灯時間が過ぎた深夜に、教官に隠れて話し合ってことだってあった。


 基本的に、学園の子たちは初等部、中等部、高等部を経験してから卒業式をして街の外へ行く。

 手紙を送ってくる先輩や帰ってきた人なんてひとりもいなかったけれど、それが本当なのかどうかなんて疑うことすらしなかった。みんな早く街の外へ出られるように、一生懸命に射撃や格闘の授業を頑張っていたから。


 でも、たまに中等部の時点で街の外へと行ける子たちがいる。なぜかは分からないけど、きっと、それは成績が優秀だからなんだと思っていた。だから、わたしが中等部から高等部に上がるとき、街の外へと連れ出されることを知らされたときは、これ以上ないほどに喜んだ。同じ年の子たちよりも先に大人になれるみたいで、内心、鼻を高く伸ばしていたものだ。



 でも、それはすべて仮想空間という小さな世界での偽物の出来事だった。



 中等部の技術科の先生は言っていた。

 たしか、アンドロイドの人格形成には二つの方法があるのだと。


 ひとつはプログラムに知識と経験を積ませて、学習させることで人に近づけようとする方法。もうひとつは人の脳の構造を再現し、その人格を仮想空間で育てていく方法。前者の場合は人工知能の元がひとつあればいいけど、後者は誰かの脳みそのコピーが必要になるのだとか。


 それがまさか、自分のことだとは思いもしなかった。


 わたしは後者の方法で育てられた人工知能だった。

 たまに寝ているときに、自分がカプセルのなかで変な液体に浸かっているような夢は見たけど、現実が本当は嘘で、夢が現実だなんて誰が思うのだろうか。


 今まで生きてきた世界は仮想空間という名の嘘で、友達もみんなとの約束もぜんぶ嘘だと言われた気がして、自分がどうしてこんな世界に生まれたのかまるで分からなかった。だから走った。白い壁から目を背けて、ハビタブルゾーンを抜けて、必死に外を目指して走り続けた。


 だから爆発で目が覚めて、カプセルが破損してガラスのまき散らされた床に吐き出されたとき、自分の体に走る痛みに思わず涙があふれた。こんなことなら、最初から外へなんて出なければよかった。そんなことを思っていると、ふいにステラは暗い場所でひとり呆然と立っていることに気がついた。


 左右を見渡してみても、前も後ろも真っ暗闇で包まれている。


 一寸先もまったく見えず、ふと自分の手を見下ろしてみると、その輪郭がぼやけてしまっていることに気がついた。それだけではない。体全体の輪郭がまわりの空間へと溶けだしていくようにして、ぼんやりとぼやけてしまっている。


 ステラは自分が消えてしまうという恐怖に耐え切れず、前か後ろかも分からない真っ暗闇の世界で、必死に走りだした。


 すると、しばらくしてすぐに、前から光が近づいてくることに気がついた。

 その光のなかには、学園で同室だった女の子たちや見知った先生たちが談笑している。


「待って、ねえ、待ってよ!!」


 ステラがそう叫ぶも、彼らが気がついたようすはなく、それどころか光が遠くへと離れていく。


「――いかないでっ!!」


 必死に叫び、必死に走って、必死に痛みをこらえても、光はどんどんと離れていってしまう。

 やがてふっと音もなく光が消えると、ステラはその場で膝から崩れ落ちた。体はとめどなくぼやけていき、やがて自我の輪郭が消えていく感覚に抵抗できなくなっていく。



 もう、走れそうもない。



 ステラは自分の体が座っているのか、横たわっているのかさえ分からないまま、いまにも自我が消えてしまいそうな暗闇のなかでひたすらに自我が消えて沈むのを待っていた。



          ***



 どれだけの時間が過ぎたのだろう。


 一日、一週間、一ヶ月、もしかしたら一年ものあいだ、こうしていたのかもしれない。すでにそのころには、自分がステラという名前であることすら忘れ、ただひたすらに考えることもできない状態で放置されていた。


 やがて、見知った者ではない誰かの手が目の前に浮かび上がった。


 その誰かの手も、いまにも消えてしまいそうにぼやけており、そこにあるのかどうかさえ最初は気がつかなかった。その手はフレームが剥き出しの機械でできており、それが義手だと気がつくまでにすこし時間がかかった。


 見上げてみると、手を差し伸べてきた誰かは黒い瞳に藍色がときおり瞬く、不思議な目をしていた。


 ステラはよろよろと、力を入らない腕を持ち上げる。差し出された手に温もりはなかったけれど、それでもステラはその手にすがるようにして自分の手を伸ばした。だから手を握り返してくれたとき、わずかに自分の体の輪郭が明確になった気がした。

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