第4話 さよなら

第24話 記憶②


 赤ん坊というものは、実に不思議なものだ。


 何も知らず、何もできず、まだ何者ですらない。

 だからこそ汚濁を知らず、世界で純粋無垢な唯一の生き物なのだ。


 人間はふつう、年老いるたびに過去の記憶を忘れていく。


 少年になれば赤ん坊のころの記憶を忘れ、青年になれば少年のころの記憶を捨て、成人すれば記憶を思い出す時間がなくなり、中年に足を踏み入れれば若かったころの感情が色褪せ、年を老いればやがてすべてを思い出せなくなる。にもかかわらず、俺にはどうしても忘れられない一つの記憶が存在していた。




 土砂降りの雨の中、山道の崖の下からクレーン車で引っ張り上げられる一台の車があった。割れたフロントガラスは赤く染まり、原型がないほどに車体はひしゃげている。


 クレーン車の目の前には――何かが凄まじい速度で衝突したのだろう――ぐにゃりと飴細工のように突き破られたガードレールが無残な状態で雨に打たれている。俺は藍色の傘をさしながら、なぜかその光景を野次馬に紛れて眺めていた。


 ためしに横を向いてみると、なぜか野次馬はみな頭部にデジタルカメラを乗せたような見た目をしていた。誘導棒を振りまわす警官たちはなぜかマネキンのように顔がなく、物々しい小銃を首からぶら下げながら、慌てたようすで白い箱状の何かを投げている。


『下がって、下がってください――!』


 白い箱からホログラム状の進入禁止用トラテープが展開されると、野次馬はそのテープに寄りかかるようにしてバリアに貼りつき始める。中の様子を見たがっているらしい。


 そのとき、反対側の山道から何個かのヘッドライトがこちらに近づいてきているのが分かった。

 三対のヘッドライトが事故現場にやってくると、それは三台の黒塗りの装甲車だということが判明する。なぜか周囲の野次馬から歓声が上がり、装甲車から何人かの武装した覆面の軍人が降りてくる。


『おい、急いでくれ。まだ生存者がいるかもしれないんだ!』


 なぜか、フロントガラスの血と警察車両・救急車のサイレンの赤色だけが、モノクロの世界の中で唯一の色彩を放っていた。慌ただしく動き回る警官や軍人を前に、やがてベコベコにひしゃげた車は車道へと戻される。彼らは慌ただしく車の扉を破壊し、中から遺体を取り出していく。だが、そこには生きている者がひとりだけいた。


 おぎゃあ、おぎゃあ、と後部座席から誰かが救出される。


 それは赤ん坊だった。車の中からベビーシートごと取り出された赤ん坊は、雨に打たれながらも泣き止むことはない。やがて赤ん坊は救急車ではなく黒塗りの装甲車に乗せられて、どこかへと運ばれていく。俺はそれを、藍色の傘をさしたまま眺めていた。



【■■■■■■、□□□□――】



 ああ、まただ。またノイズが聞こえる。

 記憶が消される。


 感情がまた、色褪せていく。

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