第30話 ネズミの監視者
「あれが監視対象か」
少し離れたところで、一人の
濡れたタオルを頭にかけているせいで顔は見えない。……が、きっと死人のように青白い肌をしているに違いない。彼の周りの空気だけが重く澱み、陰鬱とした空気がこちらにまで漂ってくる。
そんな彼をみな一瞥はするものの、傍を通り過ぎ、遠くのベンチに腰掛けることで関わることを避けている。――声の主である老人もまた、その中の一人だった。
だが、その老人――白髪や喋り方から判断して恐らく老人であろう――が異常なのは、彼の見た目にあった。なぜなら彼は全身がドブネズミのような風貌をしており、さらには尻尾や片目などの体の一部がサイボーグ化していて、とてもじゃないが人間とは呼べない生き物だったからだ。
ごわごわの体毛はまさにネズミとしか言いようがない。強化服とメカデバイス、銃を持っていなければチルドレンと間違えられてもおかしくはない。
稀にQ粒子の侵蝕を耐え切り、外見は化け物になれど人としての理性を保ったまま生き永らえる者たちがいる。ネズミ男もそのうちの一人だった。なにも、そう珍しいものでもない。ステージ5の患者が千人いれば、一人は必ず出てくるものだ。
もっとも、他の九百九十九人は例外なく怪物となるのだが――。
「信頼していた仲間を失った、……か」
ネズミ男はそうぼやきながら、なおも青年を遠目から観察する。
なにも珍しい光景ではない。仮想訓練の際、度重なる死の経験でああなる者も一定数いる。だが、彼は単なる肉体的苦痛ではなく、精神的な苦痛によって絶望に染まっているのだ。ナノマシンによる抗うつ剤で誤魔化しても、すぐに限界が来るだろう。
初めての実戦で、初めての仲間が散る。しかも運悪く彼だけが生き残ってしまった。
そんな噂は、諜報員である自分の耳にまで即座に入ってきた。
「一度で、今後降り注ぐであろう絶望を全て経験したか。……もしも、神とやらがいるのなら、彼の運命はあまりにも惨たらしく創ったものだな」
そうぼやきながら、ネズミ男は口に咥えた葉巻を手に持ち、上を向いたまま煙を吐きかける。
だが案の定と言うべきか、その煙はすぐに四方へと霧散して、消えていった。
「……理不尽じゃのう。この世界は。どうしようもなく」
誰も彼を救えない。
だから、誰も彼を助けない。
この世界では、病気で死ぬことはまずない。金さえあれば何だって治せる。発展し続ける医療技術の賜物だ。しかし、そんな卓越した医学でも直せないものが一つある。
それは、精神の傷。
ぽっかりと開いた心の穴だ。
抗うつ剤や医療薬物の投与で一時的な気分の上昇は理論上可能だが、そんなのは解決方法とは言わない。大抵が薬物中毒者(ドラッグジャンキー)になるからだ。終わらない心の渇き。ヒビ割れた精神を無理やり動かした代償は、いつか再生不可能なほどの人格崩壊を引き起こす。
ネズミ男はこめかみに埋め込まれた金属片を触ると、音声のみの無線連絡がどこかへと繋がった。
「監査対象を発見、おそらく糞医者ディールの報告にあったものと思われる」
『…………』
無線に返答はない。
だが、それは接続不良ではなく、単に無線先の相手が黙っているだけだということを、他の誰でもないネズミ男は知っていた。しばらくして、ようやく無線に若い男の声が聞こえてくる。
『……定時連絡が遅いぞ。サボりか?』
「カカカ、ワシは夜行性でな。人間の尺度で物事を語られても困るのう」
すっとぼけたような声色で頬を掻くネズミ男に、通信の向こうにいる男は「ハァ」と小さくため息をこぼした。
『あのな、ゲーテ。……丹沢山洞窟内部の研究施設【B.L.U.E】。その冷凍保管室にあった最後の六番カプセルが、今からちょうど半年ほど前に開いていたのをうちの探索部隊が確認している。……残されたのは、おそらく彼が最後なんだ。しくじるなよ』
「あやつで最後なんじゃろ。わざわざ言わんでも把握しとるわい。カカカ」
ゲーテと呼ばれたネズミ男は、耳にタコができるとばかりにあしらうと、若い男は邪険にされたせいか再度ため息を漏らすと通信を一方的に切ろうとする。
『……わかっているならいい。そのまま対象との接触を図れ。以上だ』
「ああ、まだじゃよ。ひとつ、最悪なニュースがある」
『…………』
ゲーテのいつもとは違う声に、若い男はじっと無言のまま聞き続ける。
おそらく対面して話していれば怪訝そうな顔を浮かべているのだろう間の置き方に対して、ゲーテはさらに声を重くしながら口を開いた。
「リリーが死んだ」
『…………』
その一言で充分だった。
通信向こうの声の主である若い男は驚いたようにしてすこし息を吸うと、平静さを装うようにして喉に小石でも詰まっているような咳払いをしたあと、話を続けるのだった。
『カーラにはわたしから、……いや、いい。まだ彼女には伝えなくていい。……そうか、貴重な情報を感謝する』
「ほいほい、っと……、……って、ブツ切りしおってからに。ったく、あやつも耄碌(もうろく)してきたのかせっかちになりおって……」
ブツッ――、と何の通達もなく通信を切られたせいか、ゲーテは肩をすくめたあとボリボリと後頭部を掻いた。ひとしきりシラミやらノミやらを潰したゲーテは、ふと、自分の手へと視線を落とすのだった。
その手は、人間のものではなかった。
侵蝕ステージの上昇によって醜く変化した、ドブネズミのような見た目をした手だ。
右手には何かが埋め込まれていたような跡がくっきりと残っている。致死量の毒が内蔵された囚人用小型チップ。かつて月庵によって埋め込まれたそれは、遥か昔に取り除かれ、劣悪な環境下での摘出手術を物語るようにして凄惨な痣のような手術痕は残っている。
「言わずもがな知っているとも。お主はそこで待ってるがいい。対象はまだ、表層領域のさらに上澄みにしか、接続できていないようじゃからのう……」
ネズミ男は立ち上がり、その青年の元へと気だるげに歩き出した。
錆びついた歯車を、再び回すために――。
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