第19話 消えない傷痕
「リリーさん、俺です。今日と明日の訓練は休みらしいので、エディたちが明日街へ遊びに行かないかって」
俺は自分の部屋とまったく同じ、装甲板のような見た目の玄関扉を何度かノックする。
――が、中から彼女が出てくる気配はなかった。物音すらしない。ともなれば留守なのだろうか。
俺はドアの横に付いているインターホンを押すも、ソレはペかぺかとマヌケな音を出すだけだった。どうやらケーブルごと断線しているらしい。蜘蛛の巣がはった寮の廊下の照明たちは、寿命なのかすでに明かりを灯しておらず、昼間だというのに薄暗い空間を作り出していた。これではまるで、廃病棟か何かのようだ。
「…………」
廊下の遠くにある非常ベルの赤いランプだけが、不気味に俺を見つめていた。
それはやがてチルドレンの眼光のようにさえ見えてきて、そんな漠然とした恐怖に耐え切れず、思わず俺はリリーの部屋へと入るのだった。
「お、おじゃまします……」
玄関を開けると、そこにはキレイに揃えられた一足の戦闘用ブーツが置かれていた。
リリーがいつも履いている靴だった。ということは、リビングの方にいるのだろうか。俺は確かめるべく、リビングへと続く扉を開けた。
女性の部屋というのは、てっきり可愛らしいぬいぐるみやピンク色のカーテン、ベットの布団などが置かれた光景とばかり思っていた。だが、実際のリリーの部屋は必要以上に無駄を排斥した殺風景なもので、無機質な内装をしていた。
部屋の作りは同じだ。
デカールが貼られた金属質な家具たちに、所々、配線が剥き出しの天井。巨大なダクトのようなエアコンの取りつけ位置も、まったく同じだった。
だが、人が住むうえで増えるはずのインテリアの一切がない。あるのは、あまりにも無味乾燥な生活感のない内装だけだった。
エディの部屋にはアダルトな雑誌やポスターが散乱し、アトの部屋には集めたであろうチルドレンの弱点や習性、生息地帯などが印刷された情報紙やメモ書きが山積みになっている。俺の部屋には、中古業者から無償で貰った故障ガジェットが散乱していた。
しかし、リリーの部屋にはその一切がなかった。
部屋の中へと歩くと、テーブルの上には何やらこの時代には珍しい、一枚の紙がポツリとだけ置かれていることに気がついた。何度か折り目がつけられて畳まれているそれを開いてみると、どうやら情報端末の類だったらしく、紙だと思っていた表面にかなり薄い形の液晶画面が浮かび上がる。――何かの文書らしいが。
【リリー・キャンベル様】
【養子縁組届受理のお知らせ】
この時代では紙は相当に貴重なものだ。木材がほとんど確保できないため、機械の方がよほど安く手に入る。だからこそ、こうして紙と見間違えるほどのパネルを薄くする技術が進歩したのだが、今はそんなことはどうでもいい。
俺は文書の件名に眉をひそめて、そのなかを覗こうとしたときだった。
――バタン。
直後、仮設トイレのような見た目のシャワーユニットの扉が開き、中から薄い布切れで髪の毛を拭く女性が現れる。バチリ、とお互いの視線が衝突し、予期せぬ展開に硬直する。
「「――あ」」
予期せぬ訪問者に、想定外の居住者。
やがて彼女が悲鳴を上げるのに、そう時間はかからなかった。
「キャ――ッ! 変態――ッ!!」
「ごっ、ごめん!」
そう叫びながら自分の体を隠そうと縮こまるリリーを前に、俺は慌てて顔を背けながらリビングの扉をすさまじい勢いで閉めると、その場で腰が抜けるようにしてへたれ込んだ。
「あー」
今見たことを忘れようとうめき声を上げ、必死に目をつぶるが、網膜には透き通るような絹肌の裸体が焼きついて離れない。見たのが背中だったおかげで大事な部分はギリギリ見えていなかったものの、それはあまりにも刺激的すぎる光景だった。
(背中の、傷……?)
目を背ける一瞬だけ、彼女の背中に走るカギ爪のようなもので抉られたような傷痕が見えたような気がした。それは一瞬見ただけでも、あまりにも無惨な傷痕だった。やがてガチャリと扉がすこし開き、すきまからリリーがこちらを覗き込んでくる。
「みた?」
「――見てないです」
冷や汗やら脂汗やらをダラダラと垂れ流しながら、俺はドア越しに必死の弁明を図る。
「ちょっと、お話、しましょうか」
「ハイ」
ドスの効いた「お話」という言葉に震えあがった俺は、とても声帯から出たとは思えないほどの掠れた声が漏れる。その後、心のなかに冷水が染みわたるような、これ以上ないほどブルーな気分になるのだった。
【■■■■■■□□□□――】
***
俺は部屋の中で正座をさせられていた。
ジンジンと足の指先が痺れはじめ、思わず格好を崩そうと画策する俺を、リリーはギロリと一瞥して静止させる。服はもちろん着ていた。
「で、どう弁明するつもり?」
「スミマセンでした。……てっきり誰もいないとばかり」
片言の謝罪だけでは、やはり彼女は許してくれないようだ。紅茶の入ったマグカップ片手に、笑っているのにも関わらずすさまじい怒気だった。
「誰もいない女性の部屋に勝手に入る方が、タチが悪い気がするのだけれど。それって私の気のせいかな?」
「気のせいでは、ナイデス」
あっ、怖い。上を向けないほどの圧力、怖いです。
俺は後頭部を押しつけられているような感覚のまま、床の模様の細部をひたすらに眺めていた。
「エディが、明日、飲みに行かないかって……」
「……あっそ、ふーん。……でもわたしの見たのは事実よね。どう落とし前つけるの?」
「オトシマエ……」
昔のヤクザ映画でしか聞いたことのないフレーズに、俺は思わず聞き返した。
「あれ、見たでしょ……」
「…………」
「聞かないの、背中の、アレ……」
なにを、とは聞くまい。女性にとって、一生を共にする自身の体に傷があることを無神経に聞くことなど、到底できなかった。
時代も時代、人が簡単に死ぬ時代だ。
そこにはきっと、彼女も他人に易々と口にするのをためらうほどの出来事があったのかもしれない。どのみち『何があったのか』などと聞きだすようなことは、しないほうが賢明だろう。
「……言って楽になるのなら、聞くよ。言って辛くなるようなら、聞かない」
「…………」
その俺の言葉に、リリーは一瞬だけ目をぎゅっと瞑(つむ)ると、ぽつりとだけリリーさんは自分の過去にあった出来事であろうことを呟いた。
「私はね、傭兵として強くなったら……生き別れの妹を探しに行きたいんだ」
だが、やはりその話を口に出す前に辛くなったのか、リリーは苦しげな表情のまま唇を噛むと、マグカップを両手で握りながら話すのをやめるのだった。
「ごめん、今はこれしか言えない……こんなこと人に話したことなんてなかったから、気持ちの整理が追いつかなくて……」
温かな紅茶の水面は、彼女の鼓動に同調して小さく波打っていた。
「いいですよ、別に。無理して言うようなことでもない。……またいつか、聞かせてください」
「……ごめん、すこし一人にしてほしいな」
俺はその言葉を最後に、リリーの部屋を後にした。
リビングでマグカップを眺めるようにして俯く彼女は、目を離したすきにどこかへと消えてしまいそうなほど儚げだった。
***
路上に屋外用のイスとテーブルが並べられた席で、俺は提灯にぼんやりと照らされたまま項垂(うなだ)れていた。すこし遠いが、ここからでも十分に祭りの中心部を眺めることができる特等席だった。
「――で、そのまま逃げ帰ってきた、と?」
「あ、ああ……」
そう言うや否や、エディは口をへの字にひん曲げて持っていたビンをあおった。
ここは下層でもまだマシな料理と酒が出ることで有名な酒場だ。そばには少年アトもおり、彼は水だけをチビチビと飲んでいた。
「へたれ野郎」
「……なっ」
アトのぼそっと出す言葉が、これ以上ないほど俺の心をえぐった。
「せっかくなら揉むか、抱けよ。据え膳食わぬは男の恥って言うだろうに。脂肪の塊くらい一つや二つ、乙女のハートといっしょに掴んでやれよ」
「もっ、もっ……!?」
――揉む!?
一体全体、目の前の男は何を言っているのだろうか。
そこで俺は、エディが持っているビンの中身が高濃度アルコールの酒であることに気がつく。
どうやらアトは平常運転だろうが、エディが顔を真っ赤にする勢いで酒を飲んでいるらしい。どうせテキーラだかウイスキーだかをパカパカ開けて、ラッパ飲みしているのだろう。
近くを見ると、おそらく明日の訓練がなくなった者たちや、休暇中の傭兵たちが楽しげに酒をあおっていた。しきりにニヤニヤと口角を上げるエディを前に、俺は堪忍ならないとばかりに頭に血が上るのを感じていた。
「くそっ、そろいもそろってバカにしやがって!」
俺はそう叫ぶと、近くにあった未開封のビンの蓋を開けると、中身をいっきに飲み干した。
そして、空になったそれを思い切りテーブルへと叩きつけるのだった。
「俺だって、俺だってなァ! そんな何も考えずに生きられんのなら、とっくのとうにやってらあ!!」
途中から呂律が回っていない気がしたが、俺は構わず二缶目を開けると、そのまま喉元が躍動(やくどう)するほどの勢いで飲み干した。
そんな俺の行為をアトはすこし引くような目で見ていたが、この際どうでもいい。
俺は現実の理不尽や、嫌なことすべてを洗い流そうと、酒を飲んで飲んで飲みまくった。必死に飲んで、忘れようとした。
辛かったこと、苦い思い出、将来への漠然とした不安――。
それらすべてを、いまだけは酒に溺れてどこかへと流してしまおう。
そんなことをしたせいか、エディやアトの顔が急激に抽象画のようにぼんやりと歪み始める。平衡感覚が分からなくなり、壊れた機械仕掛けのおもちゃのように、体の内側からは乾いた笑い声だけが吐き出され続ける。
やがて視界が暗転するまで、その笑い声が途切れることはなかった。
***
下層のブロック地区同士を繋ぐいつもの連絡橋の上で、俺たちは手すりに寄りかかりながら眼下の街の景色を眺めていた。街のなかはすでに前夜祭の空気で温まっており、明日の建設祭に向けて準備が着々と進められていた。
「ほらな、俺ってなんもできないんだよ」
何度か吐いて胃の中のものをすべて出したあと、自嘲気味にせせら笑いながら口にした言葉は、どこか不自然なほどに震えていた。きっと普段飲むことのない酒を飲んだせいで、酔った声帯が悲鳴を上げているだけだろう。
朦朧(もうろう)とした意識のなかで、俺はそう結論付けた。
「小さなころからそうだ。何をやってもうまくいかなくて、何をやっても人より劣っていて、もがくことすら諦めて、……そんな自分が、どうしようもなく嫌いだった」
エディは俺の顔を見ながら大きな溜息をつき、懐から取り出した箱から煙草を取り出し、口に咥えながら火を付けた。
「自分で自分を許してやれなかったら、誰がお前を許すんだよ」
「――え」
煙草のケムリを吐き出しながら、エディは転落防止柵の縁に背中から寄りかかりながら、俺の顔を見ている。
目の前には、数えきれないほどの『反重力乗用車(オートモービル)』が、凄まじい勢いで下層と中層との間にある空中を行き来していた。無数のヘッドライトが時折、連絡橋にいる俺たちの顔を眩く照らし出す。
「自分一人で思い詰めるからバカなんだよ、お前は。……何も分かっちゃいねえ」
「なんだよ、いきなり……」
いきなりエディの責め立てるような口調に、思わず俺は狼狽(ろうばい)した。
瞬間、近くを通り過ぎた車が空気を舞い上げ、エディの周りで揺蕩っていた煙を掻き消した。車の群れに紛れるようにして緊急車両のサイレンが、来るときは高く、去るときは低く、周波数を変えては消えていく。その機械獣たちの群れの真ん中で、俺たちは話をしている。
「オレたちはよ、いつ死んだっておかしくねえ。……いや、生きていること自体がおかしいのかもしれねえ。そんな糞溜(クソだ)めで生きてる」
遠くでクラクションが鳴り響いている。
どこかで事故でも起こしたのかもしれない。
「でもよ、お前は『この世界や自分には意味がない。いつ死んだって一緒だろ』。そんなことを考えているんだろうな」
「哲学の授業でもするつもりか? ――ハハ、らしくないぞ」
柵に肘を乗せ、俺は茶化して流そうとした。だが、当のエディは思いのほか真剣な顔をしていることに気が付き、初めて彼が作り出す雰囲気に少し驚く。
目の前の街並みは、下層のゴミの掃き溜めとは思えないほど美しいものだったが、エディに視点を合わせた俺は、無意識のうちに背景がぼやけていくことに気が付いた。
「勘違いするなよ、クロノ。オレはなにも、鬱病患者が抱くような終わりきった世界観を語っているわけじゃねえし、白髪とヒゲを伸ばしきった哲学依存者の妄想に憧れているわけでもねえ」
ならば、何を言うつもりだと、俺が問う前にエディは話の続きを始めた。
そういえば、エディは都市外部からの難民で、この下層のスラム暮らしになる前に、今は亡き母親を養うため廃品回収業者(スカベンジャー)として生計を立てていたんだったか。そんなことを脳裏に思い浮かべながら。
「――いいか、クロノ。これだけは覚えておけ……」
エディはぎりぎりと落下防止柵の手すりを握りこむと、そのままいつかの自分に言い聞かせるようにしてボソリと呟いた。
『世界は絶望を創り出すが、ヒトだけが希望を作り出せる』
一瞬、その言葉の意味が分からなかった。
いいや、しばらく経ってもまるでエディの真意が見えてこない。いったい何が言いたいんだと聞こうとすると、その前にエディが重々しい空気で再び口を開く。
「なんでオレがあのとき、お前を助けたのか分かるか?」
「…………」
「この下層のスラム街に無償の好意なんて存在しない。本人に直接言うのもなんだが、あのときお前を助けたのは信頼に足るお人好しバカだと判断したからだ。……ちょっぴり、気分ってのもある。……まあ、ただ、お前が仲間を裏切るようなヤツなら、オレは躊躇なく見捨ててたよ」
「………………」
俺ははっきりとエディにそう言われても、さほど不快になることはなかった。
たとえ過程や思考が異なれど、助けてくれたという事実に変わりはない。それに感謝こそすれど、恨み言を吐くような真似はできなかった。
「希望はいつだって俺たちが見いだすものだ。堕ちているものを拾ったりするものじゃねえ。だが、こうして一ヶ月、仮想訓練を含めると二ヶ月に膨れ上がるんだっけか。どっちにしろ、短い付き合いとはいえ、オレはお前をすこし気に入ってる。そんなヤツが薬でラリって現実逃避するようなやつと同じ思考をしてほしくなかっただけだ。……
そこでエディは、神妙な面持ちで聞いている俺の顔を見たのだろう。
少しバツが悪そうな表情をしながらも、煙を吐き、おどけたような仕草をしてみせた。
「まあ、なんだ。その、別に感動して欲しかったわけでもねえんだが。どれだけ糞まみれのゴミみてぇな世界でも、生きてりゃ良いことあるってことだ。……言いたかったことはこれだけだ。……悪かったな、時間とらせちまって」
エディは考えがまとまらないとばかりにそう言うと、持っていた煙草の先を連絡橋の寄りかかっていた柵に押し付け、吸い殻を機械獣が跋扈(ばっこ)する空の獣道へと投げ入れた。
「そんな良いことなんて、あるわけが……」
「保証はしねぇよ。オレだって神じゃねぇんだから。……加えて言うと、予言もできねェ。詐欺師じゃねェから」
「…………」
「けど、そんなちっせえことを気にしてたら、いざってときに本当に痛い目を見るってなだけだ。クロノ……、お前は今日やらかしたことを明日、挽回すればいいだけの話だ。……アトには俺から言っておくさ。ハナシ、合わせといてやるよ」
だが、ホログラフィーたる信号機の赤から青への切り替えに伴い、徐々に速度を上げる機械の塊たちに当たらなかったことで、エディはつまらなそうにポケットに両手を突っ込みながら宿舎へと帰っていくのだった。
尾を引くテールランプは、獲物を狙う獣の眼光のように、夜景に赤色のアクセントを加えていく。
ぼやけゆくネオン、尾を引くテールランプ。それらが重なり、やがては一つの抽象画が完成していく。エディもまたそのキャンパスに呑まれ、その中へと姿を消していった。
(希望と絶望か。意外とセンチメンタルなやつ……)
俺はエディの背中を見ながらも、彼の言った意味を咀嚼しようとしていた。
だが、咀嚼しようとしたその言葉は、どこまでいってもエディの吸っていた煙草の臭いしかせず、結局はいつか忘れるだろうと気にすることはなかった。自分でも後で悶絶するだろうほどに、感傷的な気分に浸ってしまう。だが――
「でも、きれいだな」
朦朧とした視界の中でいつまでもぼやけた色彩鮮やかな明かりを灯す街並みに、俺は初めて感想を言った気がした。瞬くたびに表情を変える街の明かりを、酔った自分はしばらく何も考えずに眺めていた――。
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