第33話 偽物の左腕

 カツン、カツン、と生温い腐った空気の充満する階段を下りていくたび、どこか見覚えのある光景が脳裏をちらつき始める。カビと苔のこびりついたコンクリート階段、薄暗く点滅する採掘用の照明、放置されて蜘蛛の巣が張ったボイラー室、何重にも入り組んだホコリっぽい通路が姿を現す。


 懐かしい。


 どういう過程でなのかは未だに分かっていないが、この腐った独特の臭いはこの都市に来たときのことを思い出す。

 オペラキャットに追われ、どこかの下水管から最下層へと吐き出され、逃げ回るようにして下層へと上がってきた。

 あのときの経路なんてほとんど覚えてないが、それでも赤錆にまみれた汚泥のような空間は、いまだ鮮烈に記憶に残っている。


「…………」


 ゲーテとかいうネズミ男についていくと、次第に最下層の最深部近くに潜っていくのを感じていた。

 すでに地中何メートルなのかは分からないが、それでもかなり深くまで潜ってきているようだ。それこそ、人の悲鳴や銃声なんてものが地上へと届かないほどに。


 下層や最下層に警察などという公的機関はない。


 あるのは民間の復讐屋と呼ばれる殺し屋と、数多の反都市勢力と呼ばれている裏組織だけ。

 彼らの派閥争いは常に下層という水面下でのみ行われており、中層や上層から落ちてくるガラクタを巡って日ごろから殺し合いをしている連中である。


 ちなみに上層や中層の公的機関が動くのは、どこかの企業で一定の地位についている者が下層で殺された、もしくは多額の詐欺被害にあった、などの場合だけである。俺たちのような貧民相手に動く公的機関など存在しない。


 もし上記の場合が起これば、その組織は一夜で解体されると言われているらしい。


 破産手続き?

 企業による買収?



 ――いいえ。



 見せしめによる構成員の即時殺処分と、組織解体のための企業お抱えの殲滅部隊がやってくるらしい。

 そのせいか、裏組織による企業の役職員殺しは最も罪の重いものとして、末端の末端、そのさらに末端の構成員にまで伝えられているらしい。


 この都市に来たとき、俺を襲撃したスカベンジャーのやつらが怯えていたのは、万が一、中層の企業の役職持ちの息子だった場合を懸念してのことだったのかと分かった気がした。


 もっとも彼らは人間を拉致し、人工臓器を捌いては勝手に市場に流通させるカスどもに変わりはないのだが。



           ***



 しばらく息の詰まるような階段を進んでいくと、やがてむせかえるほどの汚臭と湿度の高い蒸気が肌に纏わりつきはじめた。


 階段はやがて余裕が生まれるほど広がっていき、やがて大通りのような地下道へと出るのだった。


「ここが、最下層・裏ブロック地区か……」


 噂でしか聞いたことがなかったが、ここはどうやらスラムの闇市という場所らしい。

 都市内部にある正規の品が正規の値段で売られる市場とは違い、禁止指定された品や盗品、詐欺まがいのビジネスが横行する場所、とでもいうのだろうか。


 最下層は「特殊処理場」「廃棄物焼却場」「Q粒子摘出ライン」など、あらゆる汚染物質を孕む処理場や工場が乱立し、更にはスラム街と隣接した闇市が広がる地下エリアだ。


 スラムの住人が長い年月をかけてアリの巣のように掘り進めた結果、一つの巨大な空洞のような空間が出来上がっただけなので、至る所に都市の支柱が剥きだしになっているのを見ることができる。この世で最も治安の悪い場所だ。


 蒸気灯が天井に張り巡らされた配管に接続されており、地下の大通り全体が温暖色の光で照らされている。そして、何より行き来する人の数が異常だった。全体的に炭鉱の路地を一回りほど大きくしたような地下通路の脇に、色々な品物を売りさばくスラムの住人たちが行き交っていた。



「はいよ、一杯3ビット。残飯シチューね」



 炊き出しをするゴブリンのような見た目の人間が、とても食材とも言えないような物を入れて闇鍋のように煮込んでいる。

 廃材やゴミが混ざっているように見えるのは、きっと目が疲れているからなのだろう。


 もう一度よく鍋の中身を注視して見ると、得体の知れない肉や野菜の芯、熟成どころか腐敗した人造チーズ、芽の生えた遺伝子操作したじゃがいも、雑草、発光キノコが見てとれる。とてもじゃないが口に入れたくない。


 だが、なぜかねばねばと糸を引く残飯シチューを、スラムの住人たちは『うまいうまい』と老若男女問わず食べていた。

 極度の飢餓状態であれば、人はなんだって旨く感じてしまうのかもしれない。そう思ったときだった。


「あっつ」


 瞬間、近くの配管から高熱の蒸気が噴出し、顔にかかった。俺は思わず腕で顔を覆うと、服の上に熱湯のような水蒸気がかかるのを感じた。


 火傷こそ負っていないものの、あと少し距離が近ければ危なかった。


 すこしよそ見をしていた自分を内心叱責しながら、俺はゲーテの後ろ姿を見失わないように、再度、前を向いて歩き出す。


 衣類、雑貨、本、探せばどんなものでも見つかりそうな地下の闇市では、当然、都市が禁止している禁止指定品の売買も行われているらしい。


 そんな闇市をしばらく進んでいくと、都市下層外周付近のいかにも売れてなさげな、陰険な空気の漂う個人営業の売店の前でゲーテは立ち止まった。



 どうやら、ここが目的地らしい。



 店舗自体も小さく、駅構内に設置された小さな売店を派手なネオンで飾り付けたような見た目で、看板の「OPEN」の文字が、フィラメントの寿命なのかパチパチと火花を散らせながら点滅している。

 本当にこんな場所に良い義肢装具士などいるのかと、訝しげな目でゲーテを眺めていると、ふいに店の中から誰かが姿を現した。


「爺、ワシじゃ。ゲーテじゃよ、久しいな」

「おお、ゲーテか。久しぶりだな。どうだ、紙巻きならいいのが入ってるぞ。買ってくか」


 現れたのは、これまたカーキ色をしたカエルのような男だった。

 おそらくはゲーテと同じ侵蝕症状がステージ5になってもチルドレン化しなかった元人間なんだろう。


 カエル男はエプロンを着ていた。


 それもレンチや何かの工具がたんまりとポケットに詰め込まれたエプロンで、カエルなのにブサイクな犬のイラストが描かれているせいか、どこかチグハグな印象を受ける。


 カエル男はしきりにタバコを吸いながら、ゲコゲコと喉元を膨らませて鳴いている。

 ぷかぷかと煙を吐きながら腕を組み、カエル特有の感情のない目をぎょろりと動かすさまは、どこから見てもカエルそのものだった。


「あんたも、侵蝕症状が……」


 思わずそう言うも、カエル男はこちらを一瞥しただけだった。


「ゲロゲロゲロ、なんだゲーテ、こいつの左腕を見繕えばいいのか?」


 くるくるとレンチを回しながら、カエル男はゲーテに目配せをする。

 俺は言ってもいない左腕の欠損を把握されていたことに、思わず感嘆のため息を漏らした。


 四肢欠損や体調不良など、すこしでも弱みを見せればそこにつけこんでくるのが下層や最下層の詐欺師たちの手口なのだ。一見親切そうな人間ほど、その本音は腐りきっていることが多い。

 それをさせないため、俺はジャケットを羽織りながらあたかも左腕があるように振る舞っていたというのに。


「どうして気づいたんだ、俺に左腕がないなんて……」


 そう言うと、カエル男はあっけらかんとした表情で俺の切断された左腕をレンチで指をさした。


「……ん、そりゃ分かるさ。歩幅の違いに、重心のずれ、お主は分かっていないだろうが顔の筋肉も左側だけ疲弊してるからな。一目見れば誰でも分かることだ」

「…………」


 俺はそう言われて、何も言うことができずに黙りこくった。


「とりあえず中に入れ。話はそれからだ」


 カエル男は店の暖簾の役割をしているボロ布をくぐると、そのまま中へと戻っていく。

 俺はゲーテに視線を向けると、ゲーテは顎で中に入れと指示してくる。


「……だそうじゃ。クロノ、お主もはやく左腕を手に入れないとじゃな」

「…………、……だけど、俺は金なんて持ってないぞ。たしかに認定試験のときの臨時収入はあるけど、あれは中層に行くためのもので……」

「支払いなら気にするな。ワシが払う。なんでも好きなのを選ばせてやる。なに、さっき殴った詫びじゃ。どれでもいい。気に入った義手を選べ」


 ずいぶんと太っ腹というか、財布の紐のゆるいやつというか、俺はゲーテとかいうネズミ男の真意がさらに分からなくなった。


 なぜ見ず知らずの人間に、こうも尽力してくれるのだろうか。


 親切なんてものは、近い将来利益を搾り取るための裏返しなのだ。

 ということは、ゲーテという男は俺に義手の値段以上の価値があると判断していることになる。


(そんなことは、ありえない……)


 だが、俺はその考えを一蹴する。


 自己肯定感の低さを真っ向から否定するようなそれに、頭の中で二律背反する考えがせめぎ合う感じがしたからだ。そんなことはありえない。よって、俺はネズミ男の酔狂の一種だと断定する。そんなことを考えていると――


「なにをしておる。さっさと入らんか」


 ――バシン、と背中を叩かれたのが分かった。


 後ろを振り向くと、どうやらゲーテが早く入れと催促している。

 俺は半ば警戒するようにしてボロ布をくぐり、ようやく店の中へと足を踏み入れた。そこは簡素な工房とレジ台が置かれただけの狭い店内だった。


 プラスチックの箱には無造作に色んな種類、形、大きさの義肢が突っ込まれており、壁にも一面、靴でも並べるようにして義手や義足がぶら下がっている。

 すべて四肢を欠損した用のものらしいが、てっきり何かを鍛錬したりする鍛冶場でもあるのかと思っていたばかりに、すこし拍子抜けしてしまう。


「鍛冶場とかないんだな……」

「ゲロゲロゲロ、オレはただの義肢装具士だからな。個人で製作した義肢なんざ、大手企業のものには絶対に勝てないからな。ここは中層や上層から落ちてきた義肢を拾ってきて、きちんと動くように整備する場所だ。客によって見合う義肢ってのを見繕うンだよ」

「へェ――」

「ま、とりあえず、お前さんの腕の切断レベルは肘関節離断っつって、肘がギリギリ残ってる段階のものだ。肘があるなら義手もそれなりに安くできる。お前さん用の義手はそこの箱に入ってるやつだ。好きなやつを選びな」


 どうやら四肢の切断にはレベルというものがあるらしい。

 左腕を肘があるレベルで切断した者は、どうやら一番奥に置かれた箱から選ぶらしい。


 俺はガサガサと箱の中に入ったそれを物色していると、ひときわ埃をかぶったいかにも古臭い義手が目に入り、それを手に取った。


「なあ、この義手……いくらだ?」


 俺が手に取ったのはフレームが剥き出しのいかにもチープそうな黒い義手だった。

 人工筋肉の類がないということは、おそらくは機械関節とモーターのみで動くものなのだろう。人間の手で表現するならば、皮膚がすべて剥がされ、骨と筋肉が丸見えになっているような義手とでも言ったほうがいいだろうか。


「……なあ、おまえさん。よりにもよってこれを買うのか? 冗談だろ、こんなジャンク品……大戦後復興期のかなり旧式の義手だぞ?」


 カエル男はすこしため息をつくと、レンチを鉛筆のように手で回しながら苦言を呈す。


「動けばいい。義手なんてどれも一緒だ」

「…………」

「……それでいいんだ」


 そう言うと、カエル男はあきらめたように再度ため息をついた。


「ずいぶんと若いのに、好事家(こうずか)気質なんだな。……ゲロゲロゲロ、いいのか、ここには人工筋肉で作られたコスメチックグローブっていう生の腕に見せかける義手だってあるンだ。それなのに……」

「それでいいんだ。……それがいいんだ。……俺が義手をつけるのは、便利さを求めたわけでも、この傷をなかったことにするためでもない。ただ、過去の過ちを忘れないために、痛みと後悔を思い出すためにこれをつけるんだ。戒めのための道具に過ぎないんだよ、これは」

「…………」


 カエル男の言葉を遮るようにして、俺はオンボロの義手を右手で握り締めた。

 しばらく俺の切断された左腕を眺めていたカエル男は、頭をボリボリとかくと理解したとばかりに腕を組んだ。


「いいだろう。……とはいえ、お前さんは初めての義手になるからな。その義手と腕との神経を繋げるアダプター手術は、モグリでもいいから医者に頼む必要がある。流石にナノマシンによる神経接続(ニューロリンク)だけだと、脳の一部が壊死しかねんからな。……ああ、それと……」


 ふいにカエル男がエプロンのポケットからごそごそと何かを取り出しては、俺に三つほど手渡してくる。何かと見てみると、どうやらそれは真っ赤に着色されたカプセルだった。中に液体が入っていることから、エネルギーパックの類らしい。

 義手のバッテリーのようなものなのだろう。俺が手に取った義手をよく見てみると、それを装填する場所があることに気がついた。


「その義手のエネルギーカプセルだ。オマケだ、やるよ。ゲロゲロゲロ、もし違和感があるなら、またここに調節しに来な。……ま、ディールのやつなら、そんなヘマはしないと思うがな」

「助かった。いつかこの借りは返すよ」


 俺はカプセルをジャケットのポケットに突っ込むと、義手だけを抱えながら軽く会釈をした。

 すると、後ろのボロ布をくぐってはゲーテが尻をガリガリとかきながら入店してくる。どうやら、すこし待たせすぎてしまったらしい。


「おお、終わったかのう? 支払いはワシの口座からいつも通り差し引いてくれればいい」

「……それはそうと、ゲーテ、こいつは並行輸入品でニューメキシコシティから空輸で取り寄せたものなんだが、買っていかないか」

「おお、これはこれは! さぞかし高かったじゃろうに……」

「いいや、実はな、輸送機には重量制限ギリギリから安全マージンをとって一定の空きがあるんだが、そこにひっそりと密輸して荷物を入れちまうブローカーってのがいてな。そいつと連絡を取ることに成功したんだ。そいつ曰く――」


 どうやら狭い店内では俺は邪魔者らしい。


 何やらまったく理解のできない話題で盛り上がる二人――いや、正確には人ではないので――ならぬ二者から、ひっそりと逃げるようにして店を出ようとしたときだった。ふいに、後ろからゲーテが「すこし待て」と声がかかった。


 何かと思い振り返ると、目に飛び込んできたのはゲーテのネズミ顔ではなく、小さな箱状の何かだった。


「ほれ、お主にも選別じゃ。やるわい」


 かろうじてゲーテが投げてきたものを片手で掴み、それをまじまじと至近距離から眺めると、俺は複雑な気持ちになった。


「煙草なんて吸わないぞ……」


 それは、とある銘柄のタバコだった。

 いつのものなのかは分からないが、それでもくしゃりと誰かの手形が残るパッケージを、俺は複雑な表情をしながら見下ろした。ご丁寧に安物のライターまでつけてある。それでも、紙やタバコの葉そのものが貴重になったこの時代では、こんな箱ひとつでも数万はいくのではないのだろうか。


「また今度、用ができたら連絡するわい。それまで休養しておれ、カカカ!」


 ゲーテはそう言うと、なかば追い出すようにして俺をスラムの闇市へと放り出すのだった。


 いまだ最下層の地下通路には、行き交う人の波で埋め尽くされている。


 そのどれもが、あまり裕福そうではない身なりの者たちで、なかには上裸で歩き回る者たちもいた。

 買ってから一度も洗濯していないのか汚れたTシャツだけを着る同じ年くらいの青年に、万引きでも狙っているのか指を咥えながら遠くから店の商品をじっと見つめる少年。


 それでも自分がスリなどの被害にあっていないのは、俺が見るからに傭兵だと分かる格好をしているからだろうか。銃で武装した者に挑めば、命がいくつあっても足りないと、彼らは撃ち殺された者たちの前例を見て知っているのかもしれない。


 三百年前から何一つ変わらないロゴを眺め、パッケージを不器用に外し、中から一本の煙草を取り出す。――管理が悪いせいか、若干、湿っている。義手を左脇に挟みながら、不格好のまま安いライターで口に咥えたまま火をつける。


「……ぅ、おェっ…………」


 瞬間、気道に入り込むダイオキシンのような焦げた臭いの煙に、体が思いきり拒否反応を示した。


 初めて吸った煙草は、後悔の味がした。


 あまりの異物が肺に入る感覚に思わずむせてしまい、煙が目に染みたのか涙が溢れだす。それでも、なんとか煙を吸うことに成功し、その異物を吸引する感覚にも慣れてきたころ、近くの街灯に明かりがパチンと追加された。


 どうやら、もう夕刻あたりらしい。

 日光の当たらない街では、昼夜逆転した者たちの方が多い。そのため、街には日中よりも夜の方がネオンの光で明るくなるという逆転現象が起きる。こうした街灯が追加で点灯するのも、よりこの街の昼夜を裏返しにする要因となっていた。


「あ、まず。歩きタバコ……」


 俺はじんわりと煙が尾を引くタバコを咥えながら、旧世界のタブーを思わずと言った具合に呟いた。

 だが、そんなものを気にする者など誰一人いない。それどころか道端には何かを燻して煙を吸引する者たちであふれかえっていた。


 よく周りを見渡してみると、ゴミ袋や生ごみ、汚水の散乱する最下層の通路では、ときおり住む場所のない者たちが壁際でうずくまっているのを目にする。

 彼らの籠った体臭と下水の臭いが鼻を刺激する。すこし涙目になるほど刺激的な臭いのする箇所では、住む場所のないスラム街でもさらに行き場を失った者たちでごった返していた。


 漂白地帯の拡大でタバコを栽培するための畑も少なくなっているせいか、紙巻きのタバコを吸う者はいない。

 麻薬や植物由来の危険ドラッグも同様に少なく、道端の彼らが吸っているのは通常のナノマシンを強制的に暴走させて脳内麻薬を異常分泌させる「擬似信号薬」通称:『電子ドラッグ』と呼ばれるものなのだそうだ。


 「レモネイド」と呼ばれてる種類が一般的で、多幸感を得られる代わりに幻覚作用を引き起こすらしい。それでも中毒性がコカインと同程度で済むため、貧困層では一般的に流通しているとか。もっとも、やりすぎると脳神経が摩耗して脳みそが穴だらけになるらしい。


「案外、薄情なやつなんだな。俺って……」


 だが、俺は道端で転がったまま絶望に堕ちていく者たちを眺めても、なんら感情が動かされることはなかった。タバコをふかし、アリの行列でも眺めるようにして彼らを見下ろしてしまう。


 彼らはときおり咳をするだけで、笑うことはない。


 死んだように穏やかな顔で昏睡する者もいるが、いざ目の前で見てみても、そんな彼らもどこか自分とは別の世界の住人のようで、さして感情が動かないことに俺は自分という人間性を疑った。



 悲しい。



 一応、そんな上っ面の言葉を心の中で誰かが言うが、それはただの世間体に縛られた自分ではない誰かの声に過ぎなかった。本当はそんなこと思っていないし、だからといって彼らを嘲笑する言葉が思い浮かぶわけでもない。


 ただ、無関心なのだ。

 ただひたすらに興味がない。


 身内や知っている者が死ねば悲しいし、涙だって流すだろう。

 だが、そうでない者には終始興味がない。赤の他人を心配できるだけの力が、もう、自分には残されていないのだ。

 そんな自分の残酷さに思わずこぼした言葉は、周囲に漂う焦げ臭さで消されていく。


 自分はスーパーヒーローなどではなかった。

 困っている人がいれば、我先にと突っ込んでいくような英雄気質な主人公でもない。

 ただの一般人に過ぎない。

 何の能力も持たない、ただの人間なのだと。


 疲弊すれば休みを必要とし、地雷を踏まれれば憤怒し、心配できる総量には限度があった。


 こんなもので彼らのことを一刻でも忘れようとしているような行動をする自分に、俺は勝手に幻滅した。リリーやエディ、アトのことを忘れないために義手をつけると格好をつけておいて、結局は自分のことを考えるのに精いっぱいで、他人の心配をするだけの余力がないのだ。


「…………」


 背中がズキズキと痛む。

 いや、これは肺が痛んでいるのか。


 どちらにせよ、俺はそれほど好きでもなかった煙草に手を付けた。

 緩やかな自殺願望者とはこのことか、と自分を嘲笑する誰かの声が心の中で声高に叫んでいる。

 このままいくと、薬物中毒者になるのも時間の問題なのかもしれない。


「緩やかな自殺願望者、か……」


 死にたくはないという生存欲求と、死んでもいいやという自暴自棄な自分とがせめぎ合う。



 答えは、まだ出そうになかった。



 どうせ肺に入ったタールなんてナノマシンが除去してくれると高をくくりながら、俺はむせながらもタバコを吸い続ける。

 やがて辛くなった煙に苦い顔をしながら、吸い殻を足元に捨て、必要以上に火元を踏みにじる。

 念入りに、恨みでもあるかのように。


 そして、ふいに思いついたようにして俺は呟いた。


「……あれ、ネズミ男に俺の名前言ったことあったか……?」



              ***



 すこし道を迷ったものの、無事、下層へと上がってくることができた。


 缶詰の街は歩いているだけで、まるで心臓を絞めつけられているような息苦しさがある。

 太陽の光はなく、下層の至る所に設置された排気ダクトだけが、悪臭漂う街から閉塞感を緩和させてくれる装置だった。それでも最下層のさらに密閉した空気よりかは幾分かマシだった。



「帰るか……」



 金属製のフレーム剥き出しの左腕を抱えながらぼそりと呟いた、そのときだった。

 下層のスラム街に、一発の銃声が鳴り響いた――。

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