第38話
ことが大きく動いたのは、それからしばらくしてだった。
八つ時半(午後三時頃)に、千世のもとに友蔵の女房が息せき切って飛び込んできたのである。
「た、大変だよっ」
それだけ言うのがやっとだった。そんな友蔵の女房に、みつは急いでぐい吞みに入れた水を差し出した。友蔵の女房はその水を一気に飲み干すと、ひと息ついてから告げる。
「おときちゃんのおっかさんが現れたんだ」
「ええっ」
千世が大声を上げたのも無理はないだろう。
しかし、友蔵の女房は嬉しそうではなかった。
「でも、少しも似ちゃいないんだよ。なんて言うのか、嫌な女さ」
やはり、恵だろうか。家にいなかったのは、ときに会いに行ったからだ。
茂助の死を知り、二人そろって会えなかったことを嘆いているのかと思えば、嫌な態度らしい。ときはそんな恵をどう思ったのだろう。
千世ははらはらと気を揉みながら言葉の先を待った。
「おときちゃんが嫁ぐのを知って、金目当てにすり寄ってきた偽者なんじゃないのかって思ったんだけど、当のおときちゃんがすっかり信じ込んじまって、それでそのおっかさんと出かけたんだ。心配だから太助がついて行こうとしたんだけど、そうしたら、前に追い払ってもらったあの破落戸たちがまた道をうろつき出して、それでまごついているうちに見失っちまったんだよ」
あの時の破落戸たちがまた出没し始めたのは、もしや月見堂に迅之介がいないことを知ったからか。
破落戸たちがあれから、仕返しをするための機を窺っていたのだとしたら、千世が浅はかであったのかもしれない。
迅之介は保科の屋敷にいるのだ。町人の身では、とてもそこまで呼びに行けたものではないし、深川からでは遠い。
かといって、ときをこのまま放ってもおけなかった。
「どうしましょう、このままでは――」
みつも神妙な顔をして両手を握り締めている。その時ふと、千世は友蔵の女房に訊ねてみたくなった。
「あの、おときさんのおっかさんが着ていた着物はどんなものでした?」
突拍子もないことを訊かれたと、友蔵の女房は思ったかもしれない。けれどすぐに、それがときを探し出すために必要なことなのだと覚ったようだ。
「あ、ええと、渋い色合いのやたら縞だったかと」
「簪は平打ちで、紅も濃く引いていたんじゃないかしら」
千世の言葉に、みつがあっと声を上げた。権六と仙吉はそれだけでは気づかない。友蔵の女房は目を白黒させた。
「お千世さん、見てきたみたいですねぇ。そうですよ、地味な着物のくせに化粧の濃い女でした」
「千世さま、まさか――」
みつがはっきりと口に出さずとも、千世は静かにうなずく。
しかし、恵は遊女であった。ときを産んだ後に遊女となったのだろうか。
そのせいで育てられなかったと、そういうことなのか。
けれど、今は大店の後妻である。頃合いを見て迎えに行こうとしていたのだとしたら、目立たない着物を着なければならなかったのは、その時まで目立ちたくなかったからか。
ただ、それにしては今日、その着物を着た理由がわからない。名乗り出たのならばもういいはずだ。
色々なことが少しずつ繋がっていくような、離れていくような気がした。
親が遊女とあっては、文芝堂の主たちは嫌がるだろうか。その上、父親は殺されたのかもしれない。
考え込んでいるほどの時はないというのに、千世は考え込んでしまった。今、まず何をすべきなのだろう。
ときを捜すことか。長屋から破落戸を遠ざけることか。
友蔵の女房が苦々しい顔をした。
「あの女はきっと、おときちゃんのおっかさんなんかじゃありませんよ。もし本当に親だとしても、おときちゃんのことなんて少しも気にかけちゃいなかったんだと思います」
そう思ったのは、女の勘だろうか。証となるものは何もないのだから、疑われても仕方のないところではある。
友蔵の女房は、気の昂ぶりを落ち着けるように胸を摩りながら言った。
「あたしがもし、太助をどこかの長屋に置いて行かなくちゃいけなかったとします。それから長年経って太助がその長屋で大きくなっていたら、その長屋の人たちにどれほど感謝してもし足りません。でも、あの女はおときちゃんだけを見て、謝って、泣いてみせて、わざとらしい限りでした。どうにも嫌な予感だけがしちまって」
子を持つ親だからこそ気づくところかと、千世は納得した。それならば、やはり何か思惑があると考えるべきなのかもしれない。
裕福になった今、捨てた子に出てこられてはややこしいことになる。早いうちに口を封じよう、などと考えたとしたら――。
茂助を殺したのも恵か。親子そろって暮らそう、と甘いこと寂しい茂助にささやいて、油断したところを川へ落とした。
縁起でもないことを考えて、千世は軽く身震いした。
ときがどこへ連れていかれたのかをまず探した方がよさそうだ。
「紅梅屋さんの方には――」
権六がその名を口にする。千世はかぶりを振った。
「そちらには行かないでしょうね」
それならばどこだ。
その時、みつが口元を押さえながらつぶやいた。
「おときさんの匂いのついた物さえあれば」
「えっ?」
「権六さん、犬を連れておときさんを追いかけられますね?」
権六ならば、犬に頼んでときの匂いを辿れる。みつの思いつきはさすがだった。
「本当ね。権六、犬を連れてきて頂戴」
「は、はい。それは構いませんが、おときさんの匂いのついた物を取りに長屋へ行くには、まず破落戸をどかさないといけないでしょう? その、間に合いますかね」
権六が躊躇いがちに言った。
千世は悩ましいながらにも考え、今度は蓮二に告げる。
「蓮二、長屋の助っ人をお願い。早めに蹴散らして」
「おいおい、無茶言うなよな」
蓮二は迅之介とは違い、ただ腕っぷしが強いだけの町人だ。破落戸とはいえ、数を頼みにした相手では苦戦するかもしれない。
しかし、どのみち長屋のことも心配だ。蓮二に頼るしかない。
これは、この大事な時に迅之介を追い出すようなことをした千世が悪いのだろうか。それでも、迅之介を便利に使うばかりではつらかったのだ。
「お願い、とりあえず長屋に向かって」
千世の顔にゆとりがまったくないせいか、蓮二はそれ以上ぼやくことなく月見堂を出ていった。祈るような気持ちでその背を見送る。
その足音が遠ざかる中――。
「おときさんがうちの品物を借りてから返した、なんて物もないですかねぇ?」
仙吉がそれを言った。
「借りてくれた物はあるけれど、まだ返ってきていないのよ」
やはり、そんな都合のいいこともなかった。
早く動き出さなければならないというのに、考えがまとまらない。
そこで権六の隣の猫と目が合った。ときと会ったあの日、長屋までつき合ってくれたのはこの猫だ。
千世は帯に挟んであった朱色の守り袋を取り出す。
「ちなみにこれに見覚えはございますか?」
友蔵の女房に守り袋を見せると、口元を押さえて見入った。
「ああっ、おときちゃんのかも。どこで拾ったんです?」
「長屋に行った帰り道に猫が咥えていました」
月見堂に着いてからそれに気づき、守り袋を受け取って持っていたのだ。また今度届けようと。
みつは嬉しそうに手を叩いた。
「千世さまの溜め込み癖が役に立つ日がくるなんてっ。権六さん、よろしくお願いします」
何気なく失礼なことを言われたが、気にしていられない。
「あ、ああ」
穏やかな顔を精一杯引き締めた権六と一緒に千世は犬を連れに行った。
権六が選んだのは野良犬ではなく飼い犬だった。
近くの長屋にいる赤犬だ。けば立った縄を首に巻いている。
勇ましさはまるでなく、飼い馴らされた人懐っこい犬である。円らな目が黒々としている。
尻尾を振り回しながら、犬は権六を歓迎した。
その頭を優しく撫でながら、権六は言った。
「おお、お前さんに頼みがあってな。力を貸してくれ」
わんわんわん、と犬は安請け合いをしているように見えた。この犬で大丈夫だろうか。
権六は長屋の住人と話す。
「ちょいとこの
なんて似合わない名をした犬だ。
犬のせいではないけれど。
「うん? いいけど、番犬にはならないからね。どっか抜けてるんだ」
本当にこの犬でいいのか。
しかし、権六が見込んでいるのなら千世が口を挟まない方がいい。
「ああ。團十郎はいい鼻をしているから」
――というわけで、赤犬の團十郎にときを捜してもらうのだが。
赤い守り袋にふんふん、と鼻面を押しつけながら臭いを嗅ぐ。
「どうだい? その守り袋の持ち主のところへ行きたいんだ」
すると、團十郎は目を輝かせて千世を見上げた。千世が持っていたから、千世の匂いもついている。
「いやいや、こっちじゃあなくて。猫の匂いも違うよ。もうひとつ、若い娘の匂いがするだろう?」
ふんふん。ふんふん。
しっかり匂いを嗅ぐと、團十郎は歩き出した。千世と権六はその後に続く。
ほとんど、来た道を引き返しただけだった。しかし、團十郎は月見堂を素通りし、さらに道を突き進んでいく。
鼻を使いすぎて目を使っていなかったせいか、道で人とぶつかっていたが、それでも團十郎は権六の頼みに応える。
本当に大丈夫かしら、と千世は疑っていたものの、権六は團十郎を信じているらしい。不安そうな顔はしていなかった。
ときの一大事なのだから失敗は許されない。
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