第19話

「岡持桶を持っていたのなら、近くに買い物に出かけていたんでしょう。その辺りの店で聞き込みをしたら何かわかるかもしれません」


 千世がそう答えると、栄助はほっとしたような印象だった。文芝堂の奉公人たちは店の商いで手一杯。どうしたものか困り果てていたと見える。


「じゃあ、頼めますか?」

「ええ、お受け致します」


 仙吉が蚊帳を手にして待っていた。千世はそれを受け取り、栄助に渡す。栄助は苦笑いしながら蚊帳を受け取った。


「あたしもね、そのうち女房がほしいんです。でも、ほら、若旦那が恋煩いで苦しんでいるんじゃあとても言い出せないでしょう? いろんな意味で困っているんです」


 なるほど、と千世も苦笑した。

 店の用事か、家のことかと訊ねた時の栄助の曖昧な返答はそういうことだ。

 ただ、見つけることができたとしても、当の娘が断らないかどうかはまた別の話である。仮にこれが千世なら多分断る。


 お互い、そこには触れずに話を進めたのは、それが目を向けたくないことであったからかもしれない。娘を見つけた暁には、ぜひ若旦那には男気を見せてもらいたい。


「また後日あたしがここに来ますから、文芝堂には来ないようにお願いしますよ。もしこのことが他の奉公人に知られたら、若旦那は恥ずかしくてますます起きられなくなりますから」

「はぁ、わかりました」

「それに、若旦那が床抜けするのはいつのことかわかりませんから、自らここまで物を頼みにも来られませんが、気を悪くなさらないでほしいんです。まあ、それがなくともひどい人見知りでして」

「はぁ――」


 二親が大事にしすぎた結果、跡取り息子がここまで弱々しくなってしまったのだろうか。それでも、奉公人がしっかりとしていれば店は保てる――かもしれない。


 蚊帳の貸し賃と人捜しの手間賃、両方をぽんと払ってくれたのは、番頭ともなればそれくらいの蓄えはあるからなのか、手間賃は店に求めるつもりなのかは訊かなかった。

 栄助がほくほくと上機嫌で去った後、仙吉が嫌な顔をした。


「なんでしょう。おいら、その若旦那が寝込んでいるところを見たら、顔を踏んでしまうかもしれやせん」

「仙吉、それはやめなさいね」


 窘めるものの、千世もその若旦那を前にしたら活を入れてしまう気がする。会わなくていいというのが幸いではある。


 みつは今の話を書き留めた紙を見つめつつ、うぅんと唸っている。そうして、サササ、とまた別の紙に筆を走らせた。


「こんな具合でしょうか?」


 それは、栄助の話にあった娘の特徴を絵にしたものであった。みつは器用なので上手く描けている。愛らしい娘の絵に、千世は感嘆した。


「あら、こんな娘さんなら確かに一目惚れするわね」

「おみつさんすごいや」


 そこで、ようやく手が空いた権六も絵を覗き込む。


「この娘さんを捜すんですか? なるほど。何か匂いの残っているものがあれば犬が役に立ちますが、絵では難しいですな」


 動物を手懐けることに長けた権六ならば、本当にそれで捜し当てられそうだが仕方がない。そこで、裏手の戸が開いた。素振りをしていた迅之介が中に戻ったのだ。千世は迅之介にもその墨が乾ききらない絵を見せた。


「迅之介さま、この娘をどう思われますか? どこかで見かけたことはございませんか?」

「うん?」


 すると、迅之介は顎に手を当て、眉根を寄せて真剣に考え始めた。


「大人しそうな娘だが」

「そうですね」

「何をしでかしたのだ?」


 そうじゃあない。千世はすぐに言った。


「違います。何もしておりません。この娘に一目惚れしたお店の若旦那がいて、その相手を捜してほしいというのです」


 すると、迅之介は小首をかしげた。


「捜してほしいというのは、この辺りは捜し尽くした後ということだろう? 遠方まで行かねばならぬような尋ね人捜しなど受けては、店先での商いが滞るのではないのか?」

「黒江町の辺りで見かけたそうでございやす」


 仙吉が笑いを堪えながら口を挟んだ。迅之介は何が可笑しいのかと首をかしげている。


「すぐそこではないか。それで見つからぬのなら、やはり遠くから来ていたということだろう。いや、しかし、その辺りに知人がいて会いに来たということならば、手がかりくらいはあるか」

「いや、そもそも捜してな――」


 噴き出しながら言おうとした仙吉の口を、みつが手で塞いだ。迅之介ならば、同じ男として恥ずかしいとでも言い、文芝堂の若旦那を厭いそうなものである。詳しくは話さない方がいい。


 迅之介はみつの描いた絵を手に取り、じっと見つめた。その表情は少々険しい。

 けれど、その末にぽつりと言ったのだ。


「この娘に似た女子をどこかで見た気がする」

「えっ」


 千世は小さく声を上げた。それでも迅之介は絵から顔を上げない。


「しかし、どこで見たものか――」

「迅之介さまに付け文(恋文)をくれた娘だとか?」


 仙吉がまた余計なことを言った。が、迅之介は黙った。

 もしかして、そうなのだろうか。そうでないことを祈りたい。

 この娘が迅之介に夢中であったら、若旦那は失恋で儚くなってしまいそうだ。


 千世がはらはらしたことなど、迅之介には伝わらない。やきもちを焼いてくれるのかと期待されても困る。

 迅之介はわざとらしい咳ばらいをした。


「――そのうちに思い出すやもしれぬ」


 などと言って去った。

 迅之介が二階に上がると、残された面子は顔を見合わせた。


「迅之介さま、どこでその娘さんとお会いしたのでしょうね?」


 みつは眉根を寄せた。すると、権六が笑いを堪えながら言った。


「迅之介さまは本当にこの娘さんにお会いしているのでしょうか?」

「まあ、これは私が描いた絵ですから、別人に似ているってこともあるでしょうけれど」


 そう、みつは冷静に返す。けれど、権六が言いたいことはそうではないらしい。


「いや、迅之介さまは町娘の顔なんて、いちいち覚えていやしませんよ」


 それを聞くなりみつは、ああ、と笑った。


「千世さま以外の女子など、皆同じ顔に見えるのでしょう」


 そんなことはない。みつと雪奴ゆきやっこの顔くらいは覚えているはずだ。それは言いすぎだろう、と千世は苦虫を噛み潰したような顔になった。


「――千世さま。だから、なんでそういう顔になるんで?」


 仙吉が不思議そうにするけれど、自然とこうなるのだから、何故かなんてことはこちらが知りたい。

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