第20話

 とりあえず、黒江町の青物屋、豆腐屋、魚屋――それから、蒟蒻屋や塩店しおだな、思いつく限りの店を回ることにした。岡持桶を持っていたのなら、そこに入れるものを買い求めに行くところだったはずだ。醤油や酒、小間物などではないと思われる。


 若い娘を探し出すには、女子のみつが月見堂の中では適任であろうと思えた。

 これが蓮二であれば、心当たりがあったとしても怪しんで誰も教えてくれない気がする。もし当人を見つけて呼び止めたとしても、堅気の娘ならば遊び人風の男が声をかけたら怯えて逃げてしまうだろう。今はいないので、使おうにも使えないのだが。


 千世は昼過ぎにみつを送り出した。誰もが慌ただしい朝にあれこれ訊ねていては、店先で鬱陶しがられるだけだろうと、この時刻にしたのだ。

 こちらも貸し出せる蚊帳が残り少なくなったせいもあって、昨日よりは幾分落ち着いた。あとは千世と権六でなんとかしたい。


「それじゃあ、よろしくね」

「はい、行って参ります」


 千世はみつの背中を見送りつつ、その娘のことを考えた。


 一体、どんな娘なのだろう。

 笑顔が可愛らしいのならば、貧しくとも大切にされて育ったのだろう。家族が多く、姉弟の面倒を見ながら家の手伝いをしているのかもしれない。そろそろ嫁入りの話も出ていたり――。


「嫌だわ。上手くいく気がしなくなる」


 余計なことを考えるのはよそう。千世はかぶりを振り、そうして店の中へと戻った。



 ――この後、珍しい客人がやってきた。

 損料屋に用のある客ではない。千世の客である。


 その客人は、懐かしそうに表を眺めながら暖簾を潜った。小柄なので暖簾に引っかかることもない。

 顔を見て千世はハッとした。自然と顔が綻び、その名が口から飛び出す。


「おしなさん、お久しぶりです」


 この月見堂の先代である。暑い中を一人で歩いてきたのか、額には汗が滲んでいる。

 前に会ったのはいつだっただろう。忙しくてなかなか顔を出せずにいたから、向こうの方からしびれを切らしてやってきたのかもしれない。


「お一人ですか?」


 いつもなら、身の回りの世話を焼いてくれている女中ののぶを連れている。しなは隠居こそしたものの、まだまだ達者ではあるのだが。


「そうだよ。おのぶったら暑気あたりだって言うんだ。あたしより若いのに情けないねぇ」


 手厳しいことを言うが、しなの優しさを千世も身に染みて知っている。暑気あたりに利く枇杷びわの葉茶でも買い求めに来たのではないかとこっそり思った。

 しなは、どこかからかうような意地の悪い表情を浮かべると、ククッと笑い声を漏らす。


「隠居した年寄りのところにもいろんな噂が流れてくるもんさ。あんたたち、面白いことをやってるみたいじゃないか」


 面白いとはどこを指すのかはわからない。一体どんな噂が飛び交っているのだろう。

 しなは、どっこいしょとかけ声をつけて上がり框に腰を下ろした。


「ここではなんですから、中で麦湯でもいかがですか?」


 千世が板敷に膝を突くと、しなは千世をじっと見据えた。その目に見つめられると、この店の主として相応しい面構えになったかを確かめられているようで気が張る。

 しなは、特別なことは何も言わずにかぶりを振った。


「いいよ、ここで。ついでに寄っただけなんだよ。あたしと長話してる暇があるなら商いに精を出しな。お店を潰すんじゃないよ」

「は、はい。それはもちろん――」


 仙吉などは、しなが出てくると急に真面目な丁稚を装う。真面目な顔をして表で水を撒いていた。しかし、あんな付け焼刃はしなに通用していないと思われる。


 しなは抱えていた風呂敷包みを開く。そこから出てきたのは黒っぽいぐい吞みだった。

 それは骨董品の類ではない。明らかながらくたである。

 千世が目利きなわけではなく、誰が見てもがらくただと言うだろう。一度割れて、その後焼き継ぎをした跡がくっきりと残っているのだ。


「こ、これは――」

「割れたから焼き継ぎ屋に直してもらったんだよ。それが、見てごらんよ、この不格好さ。へたくそにもほどってもんがあるじゃないか。もう一回叩き割ってやろうかと思ったんだけど、あんたならどうする?」


 ちゃんと水が漏れずに使えるかも怪しい。しかし、ここで千世ががらくただと言ったら、しなはこのぐい吞みを叩き割り、焼き継げないほど粉々にするだろう。それではこのぐい吞みが可哀想だ。


「使います」

「要るならあげるよ」

「ありがとうございます」


 不格好なぐい吞みを、千世は恭しく受け取った。帰ってきたみつに、また余計なものを増やしたと言ってきっと怒られる。

 わかってはいるが、捨てられない。これは要らないものなどではなく、いつかきっと、誰かの役に立つと信じたい。


「損料屋ってぇのは、物があって初めて成り立つ商売だ。あんたみたいに物を大事にできる方が向いてるんだよ。あんたはあたしよりもいい主になるよ」


 しなに褒められて千世が喜んだのも束の間、表から中を覗いていた仙吉がぼそりとひと言。


「千世さま、そうやっていつも押しつけられるんですよねぇ」


 千世もしなも聞き流した。


「――そういえば、おしなさんに会いたがっていたお客さまがいらっしゃいましたよ。随分長く深川を離れてから帰ってきたそうで」


 すると、しなは白くなった眉を跳ね上げた。


「深川から出ていった人なんてたくさんいるからね、いちいち覚えていやしないよ」

「茂助さんと仰られるお客さまです」

「茂助ねぇ。珍しくもない名じゃないか。顔を見たら思い出すかもしれないけど」


 しなの言う通りではある。この月見堂に通っていた客は多いのだ。十年以上も前のことを鮮明に覚えてはいられないだろう。


 そんな世間話をしていると、二階にいた迅之介も下りてくる。しなは迅之介のことを気に入っているようだった。最初に顔を合わせた時からだ。


「おやおや、保科さま。ご壮健そうで何よりです」


 にこやかに声をかける。迅之介もまた、しなには丁寧だ。


「おしな殿、無沙汰をしております」

「丁度よかった。お武家さまに図々しいことをお頼みしますが、ちょいとそこまで送って頂けますかねぇ? 老人の一人歩きほど心細いものはありませんから」


 さっきまで矍鑠としていたしなは、急に老人らしくか弱く振る舞い出した。

 迅之介が千世の方をちらりと見遣ったので、千世はただうなずいた。


「構いませぬ。参りましょう」


 しなはただの町人だが、この店を立派に切り盛りしてきた女人である。迅之介としても敬う気持ちがあるのだろう。

 恭しくしなを送りに出ていった。


 店には焼き継ぎに失敗したぐい吞みがぽつんと残る。仙吉がキシシと笑った。


「おしな婆さんでも男ぶりのいい若侍には弱いんですねぇ」


 本人がいなくなった途端に、婆さんなどと口が悪い。千世はそれを目で咎めた。


 みつが帰ってくる前に、このがらくたに等しいぐい吞みを受け取った理由を何か考えておかなければ。

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