参❖岡惚れ
第18話
そろそろ、寝苦しいと感じる夜がある。
二十四節気でいうところの芒種の頃。夏の盛りが近づいてくる。
こうなると、損料屋で最も主力となる品は蚊帳である。蚊帳売りたちが町を練り歩き、美声を張って麻や木綿の蚊帳を売り捌くけれど、長屋住まいの人々は夏しか用のない蚊帳をわざわざ買うことはない。邪魔なだけだ。
ひと夏の間だけ損料屋へ蚊帳を借りに来るのである。
蚊遣りの陶器などを借りる人はいても、それでもやはり蚊帳は人気だ。
一番上等なのは麻の蚊帳であり、その中に入っていれば、急な夕立の際に雷様が来たとしてもへそを取られないとかなんとかいう迷信もあるくらい、庶民の憧れの品なのだ。
そんなわけで、今日も損料屋月見堂は深川永代寺門前前仲町にて賑わっていた。
あれやこれやとひっきりなしに客が来て、猫の手も借りたい忙しさであった。客が借りたいと思い立つのは同じ頃合いであり、波のごとく一気に押し寄せる。そうして、それが済むと今度は物足りないほど静かになるのだ。
「もう、こんな時こそ蓮二が来てくれたらいいのに、いないんだから」
千世がみつに向けてこっそりとぼやいた。猫よりはいくらかましなはずである。
みつは手を動かしながら苦笑した。
「呼びに行っても多分無駄足でしょう。困ったお人ですこと」
しかし、いくら人手が足りないとはいえ、士分である迅之介に客あしらいを頼むわけには行かない。迅之介が気にせずとも、客の方が驚いてしまう。
客あしらいができるのは千世と権六、みつの三人である。
店の方にかかりきりだと、昼餉の支度さえままならない。品物を出したり片づけたりしている仙吉が、背と腹がくっつきそうだという顔をしていた。
八つ時(約午後二時)になってようやく、遅い昼餉の支度が整った。千世が店先に残り、みつが用意してくれたのだ。段取りよく飯と汁とをよそい、沢庵漬けと七輪で焼いた目刺しがそれぞれ皿に載っている。味わう間もなくささっと昼餉を済ませ、皆、また店先に立った。
昼餉を済ませてから最初に来た客は、どこぞの
年の頃は四十路手前くらいか。細身で、背は高くはないものの、落ち着いた柔和な顔立ちであった。
「ここが月見堂さんですか。一度来てみたかったんですよ」
「初めてのお客さまでございますね? ようこそお越しくださいました」
千世が板敷に三つ指を突いて頭を下げると、その男はうんうん、と言ってにこやかにうなずいた。
「月見堂さんの女主は弁財天もかくやという別嬪だと聞いてきたんですが、噂は本当ですねぇ」
「滅相もございません。ただの未熟な小娘でございますよ」
面と向かって言われては照れるものの、千世はなるべく自然に受け流す。男は千世を褒めるものの、だからといって絡みつくような目をするでもない。きっと妻子がいるのだろう。
「今日は何をお求めでございますか?」
千世が訊ねると、この男もやはり蚊帳を求めた。
「あたしは熊井町の帳屋、〈
帳屋――つまり、帳面や紙、筆といった文具を扱う店である。
通いになったということは、そろそろ嫁を世話してもらえるのだろうけれど、すぐにというわけではないらしい。自分で自分の世話をしている。
「そうでしたか。麻と木綿と、大きさも色々と取り揃えてございますよ」
「まあ、あたし一人だから木綿の小さいので十分です」
「畏まりました。少々お待ちくださいませ」
そう言って、千世は仙吉にそれを伝えて蔵まで取りに走らせた。その間に栄助は何度も何度も瞬きをして、落ち着かない様子であった。何かを言いたそうにしていると思ったが、千世はもう少しだけ待ってみた。
すると、栄助が躊躇いがちにぽつりと言った。
「あの、月見堂さんは人手も貸してくれるというのは本当でしょうか?」
そのことかと千世は納得した。
「ええ、お貸しいたします。ご用件にもよりますけれど。お店のお手伝いでしょうか? それとも、家内のことでしょうか?」
千世の何気ない問いかけに、栄助は何故か答えに窮していた。
「店のことと言えばそうかもしれないし、あたしのこととも言えるかもしれないんですよ」
はっきりとしない物言いである。千世が困っていると、栄吉は言いにくそうに切り出す。
「実は今、うちの若旦那が寝込まれておりまして」
「えっ、それは大変でございますね。お加減のほどは?」
とはいえ、月見堂に医者がいるわけではないのだから、病は癒せない。
しかし、栄助もそんなことは百も承知であった。ハハ、と軽く笑う。
「よく寝込まれる若旦那なんです。でも、今回は病とは言っても、心の病。恋煩(こいわずら)いというやつで」
「こ、恋煩い――」
話には聞くものの、本気で寝込む者がいることに千世は驚きを隠せなかった。寝込む前に堂々と想いを告げればいいのではないだろうか。
それとも、これは玉砕した後に諦めきれずに寝込んでしまったということなのか。
栄助はそんな千世の考えが読めたのか、髭の剃り残しがないか確かめるように頬を摩りながら言った。
「うちの若旦那は大層大人しいのです。町で見かけた娘をひと目で気に入ってしまったものの、名前も住まいも聞けず、見失って落ち込み、あまりの悲しさから寝込んでしまったというわけで」
思った以上に情けなかった。
けれど、それを口には出せない。
「それは――困りましたね」
困っているんです、と栄助はうなずいた。
「だからね、月見堂さん、あの娘を探して頂けませんか?」
「何か手掛かりになるものはございますか?」
それがなければ、いくらなんでも無理だ。千世はまずそれを聞いてから判じることにした。
「あの時、私も若旦那のお供をしていたので、その娘の顔はちゃんと見ております。年は――十六くらい。明らかな美人顔ではなくて、可愛らしい、少ぅし眉の辺りが儚げな娘でした。背は低め、色白。絣の着物も簪もそれほどいいものじゃあなくて、きっと慎ましい暮らしをしているのでしょう」
気の利くみつは千世たちの話に耳を傾け、その娘の特徴をサラサラと書き記していた。千世はうなずき、栄助に問う。
「出会ったのはどの辺りでしたか?」
「あたしと若旦那が黒江町にかかる八幡橋を渡った時、その前の道を通り過ぎたんですよ。それで、走ってきた町飛脚の勢いに驚いて娘が手に持っていた岡持桶を落としてしまって。幸い、桶は割れなかったのですが、転がって、それを若旦那が拾ってあげたのです。そうしたら、娘は純朴そうな笑みを浮かべて礼を言い、去りました――」
それだけのことに若旦那は寝込むほどに魅了されてしまったらしい。純情といえばそうなのだが――箱入り娘ならぬ、箱入り息子らしい。
「八幡橋の前の通りをまっすぐに歩いていったのですか?」
「そうです。あの時は若旦那が一目惚れしたとは露知らず、あたしもまったく気に留めていなかったんですよ。もしその場ですぐに仰ってくれたら、その娘がどこの誰だか聞き出したのですが」
はぁ、と栄助は肩を落として嘆息した。
その娘に惚れたと誰かに言うだけでも、その気弱な若旦那には大変なことだったのだろう。寝込んで初めて口にしたと思われる。
それでも大事な跡取り息子だ。これは周りが大変だと千世はこっそり思った。
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