第32話

 その日を境に、蓮二と迅之介の姿が月見堂では見受けられなくなった。


 蓮二はというと、千世が仕事を割り振ったのだからわかる。迅之介は家に戻ったらしい。

 迅之介は権六に、家に戻るといった旨を伝えていた。行方知れずではない。


 それも、千世がそうなるように仕向けたのだから、何も不可解なことではなかった。

 ただ、この月見堂はたった四人では寂しいものだ。


 迅之介に関しては、こうなる心の準備はしていたつもりだ。いつも迅之介を傷つけてばかりいた千世が、心に穴が空いたようだと思うのはおこがましい。だから、平気なふりをしていた。

 そんな千世に、誰も何も言わなかった。皆、迅之介の話題には触れない。



 そうしたある日、ときが嫁ぐ文芝堂の番頭である栄助が月見堂を訪れた。以前、蚊帳を返しに来て以来である。

 栄助は客商売で培った愛想のよさでもって、千世を見るなり言った。


「ちょいと構いませんかね?」

「はい、なんでしょう」


 思えば、ときを捜すことになったのも、この栄助が発端である。若旦那のことがまとまったので、今度は自分が嫁をもらうといった話かもしれない。


 そんなふうに思った千世は、ある意味おめでたかった。

 栄助は店の片隅で、千世にしか聞こえない小声でぼそぼそと言った。


「おときさんのことですが――」

「はい?」

「おときさんは捨て子で、蛤町の長屋の前に捨てられていたと聞いています。捨て子であっても、おときさんはよい娘さんだから、それはいいんです。ただ――」


 と、栄助は物憂げな表情を浮かべる。その意味が、千世にはわからなかった。

 わからないながらに胸がざわりと騒ぐ。嫌な感覚だった。

 切った言葉の先を、栄助が告げる。


「このお店が、おときさんの親を捜しているそうですが、それはどうしてでしょう?」


 蓮二が色々なところで聞き込みをしている。それが栄助の耳にまで届いたのだろう。


「おときさんが嫁ぐ前に生みの親に会って、産んでくれたことにお礼を言いたいそうです。そういうことなら、せめてお力になれたらと思いまして――」


 すると、栄助ははぁあ、と声を漏らしながらうなずいた。


「なるほど、そういうことですか。やっぱり、感心な娘さんですね。捨てたとあっちゃ、恨みこそすれ、なかなか感謝なんてできないものを」

「ええ、本当におときさんは優しい娘さんです」


 どこへ行っても大事にされるだろう。それだけは絶対であってほしい。

 栄助もうんうん、としきりにうなずく。


「うちの若旦那も果報者ですねぇ」


 しかし、それだけでは話は終わらなかった。栄助は残念そうに眉を下げた。


「見つかるといいと言ってあげたいところですが、おときさんの親についてあれこれ調べるのはよしてくれませんか?」

「えっ?」

「考えてもごらんください。もし、その親がとんでもない悪党だったりしたら? いくら若旦那がおときさんを好いていても、そうした悪党と縁ができてしまったら、商いはどうなります? 捨て子だってことは構わなくとも、おかしな親がいては困ります。どうか、若旦那とおときさん自身のために、おときさんの親元を探るのはよしてもらえませんか?」


 千世は頭を殴られたような気分だった。

 ときの親が悪党であったら。


 そんなことは微塵も考えていなかった。

 要らないから捨てたんだと、ひどいことを言う冷たい親かもしれないというくらいの心配しかしていなかった。

 その親が見つかった時、縁談そのものが壊れてしまう、などというところまで考えが及ばなかった。


 浅はかであったと、千世は苦々しく唇を噛んだ。

 栄助は千世よりも長く商いに従事し、商いをよくわかっている。それ故に幅広いことに気づくのだ。

 千世は胸元でグッと手を握り締めた。


「――私が浅はかでした。止めて頂いてありがとうございます」


 それを聞くと、栄吉はほっとした様子だった。額にうっすらと滲んでいた汗を手の甲で拭き取る。


「ああ、わかってくれてよかった。あたしも、若旦那にはしっかりした嫁をもらって店を盛り立てていってほしいと願っているんです。そのためには、おときさんが来てくれなくちゃ困りますから」


 きっと、若旦那はときが嫁いでくる日を楽しみに待っているのだ。だから、栄助も気を回してここまで来た。

 栄助は番頭だから、いずれ暖簾分けをして文芝堂を去るかもしれないが、恩のある店にいつまでも感謝を忘れないのではないだろうか。


「ええ、お二人が恙なく祝言を挙げられるよう、私も見守らせて頂きます」


 ときに身元を知らせて喜ばせてやりたかったけれど、仕方がない。違う方法で祝おう。何か、品物を送るのがいいだろうか。


「それじゃあ、色々とすみませでした」

「こちらこそお手数をおかけ致しました。若旦那さんに栄助さんのような番頭さんがついていてくれて、文芝堂さんも安泰でございますね」


 フフ、と千世が笑うと、栄助は照れた様子で頭を掻きながら去った。


 ――蓮二には骨を折らせて悪いけれど、この話は胸のうちに留めておいてもらわねばならなくなった。

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