第33話
それからしばらくして、蓮二は月見堂に顔を見せた。
九月に入り、重陽の節句も間近である。
「蓮二、ご苦労さま」
千世は蓮二を迎え入れる際、少しばかり心苦しかった。せっかく駆けずり回ってもらったというのに、その成果は日の目を見ないのだ。
しかし、そのことをまだ知らない蓮二は、上機嫌で上り框に腰を据えた。他の客もいることだから、蓮二を奥へ連れていく。
「ごめんなさい、せっかく調べてもらったのに」
千世がそう切り出すと、蓮二は軽く眉根を寄せた。
「なんだそいつぁ?」
ため息をつきつつ、千世は栄助との話を蓮二に聞かせるのだった。
蓮二は千世の話を静かに聞いていた。そうして、千世が話し終えると口を開く。
「まあ、その番頭の心配もわからなくはねぇがな」
「ええ――」
しょんぼりとうつむく千世に、蓮二はそれでも言った。
「今のところ、そこまで絞り込めたわけじゃねぇ。ただ、いくつか気になることがある。お前さんがもうやめろって言うのなら、ここまでだ。俺もわざわざ首を突っ込んだりしねぇよ」
千世は言葉に詰まった。ときが生みの親に礼を言いたいという、ただそれだけのことが叶わない。栄助が言うように悪い目が出るとは限らないのに。
けれど、悪人ではないとしても、貧しい暮らしをしている中、娘がそれなりに手堅い商売をしている店に嫁ぐとなれば、金の無心をするようにならないとは言えない。
自らの判断でときの今後を潰してしまうかもしれないと思うと、千世も容易には答えられなかった。
そんな千世に、蓮二は珍しく真剣な顔を向けた。
「とはいうものの、俺もここまで調べて、はいおしまいってのはすっきりしねぇ。できりゃあ突き止めてやりてぇところだが」
「――何がわかったの?」
千世が聞くだけならば差し障りもないだろう。蓮二は細く長い息を吐くと切り出す。
「十五年前の十五夜に子がいなくなった、捨てた、もしくは死んだ。そんな話を集めてみると、まあいくつかはそんな話もあった。赤ん坊の上の子が、赤ん坊の世話をしているつもりで赤ん坊の口に団子を詰めたとか、まあ気の毒なのもあったな」
それは悲惨だ。どこの誰とも知れないけれど、その時の親たちの嘆きが聞こえてくるようだ。
それから、と蓮二は続ける。
「月見は皆そろってガヤガヤやってる時だ。近所の子供が団子を盗みにくるから戸締りも甘ぇし、月に見惚れて気もゆるんでやがる。そんな時にふらっと盗みに入るとか、まあ事件は多いのさ」
まるで見てきたかのように語る。千世はそんな蓮二の話に耳を傾け続けた。
「ただ、その時に子を捨てるってのは案外少ねぇな」
「そうなの?」
「ああ。これからどんどん寒くなるって時季だ。下手すると凍えちまうだろ。捨てるにしたって親ならもう少し考えて捨てるんじゃねぇのか」
育てられないとしても、生き延びてほしいという願いがあるのなら、そんな季節のしかも夜に外へ捨てたりはしないのか。それならば、何故ときは十五夜の夜に長屋の前にいたのか。
そこで蓮二は一度息をついた。
「まあ、子攫いが捨てていったとしたら、そんな気配りはなかっただろうがよ」
「子攫い?」
「ああ。ある種の恨みや意趣返しに、大事な赤ん坊を攫って捨て、その家の者に苦しみを味わわせてやろうってぇ腐った輩も世の中にはいるからな」
親にどんな恨みがあるのかは知らないが、赤子に罪はない。
それでも、無垢な赤子まで巻き込んでしまうような惨事がある。蓮二がこれを口にするのは、そうしたことも耳の端に入ってきたからだろう。
千世が絶句していると、蓮二はどこか気づかわしげに表情を和らげた。
「とある店で子が攫われて、その翌朝、川に子供の産着が引っかかっていたそうだ。川を浚っても、赤ん坊は見つからなかったらしいがな。まあ、赤ん坊じゃ、引っかかっていた産着が脱げちまえば流される。赤ん坊の母親は寝込んでそのまま死んじまったそうだ。商売絡みの妬みだろうってのが八丁堀の見解でな、それらしい店の主を引っ張って吐かせたが、赤ん坊は川に流されたってことで落ち着いたんだとよ」
蓮二が調べた事件は痛ましいものばかりである。単にいなくなったという単純な話は少ないようだ。
「いなくなった子もいるんだがな、男だったり、年が合わなかったり、まあ色々だ。おときさんの年から割り出して、いなくなった赤ん坊と照らすと、まあ数はぐっと少なくなる。あと、俺が調べてるのは精々が深川までだ。別のところにはもっとあるだろうよ」
それはそうだが、大声で泣く恐れのある赤ん坊を連れて遠いところまで捨てに行ったとは考えにくい。千世は精々がこの深川のことだと思うのだ。
「そう簡単に見つかることはないと思ったけれど、やっぱり難しそうね。――いえ、見つけちゃいけないんだったわね」
そう言って千世が嘆息すると、蓮二もハハ、と軽く笑った。
「ま、俺たちが気になるから探るってことで、その番頭に覚られねぇようにもうちっとだけ続けてみるか?」
蓮二にしては珍しくやる気が見える。千世の方が驚いてしまった。
「どうしたの、蓮二?」
「どうもこうもねぇよ、気になるじゃねぇか」
それはそうだ。千世も蓮二の立場であったら、もういいと言われても探り続けたかもしれない。
「そうね。でも、おときさんに迷惑がかからないように気をつけてね。もし文芝堂さんの方から何か言ってきたら、今度こそすぐにやめて」
「わかった。ま、下手打たねぇようにするからよ」
などと蓮二は調子よく言うのだった。
かと思えば、急にそわそわと縁側の方に顔を向けた。九月に入り、少し肌寒くなった。まだ
「寒いの? もうすぐ
すると、蓮二は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「お前さんはのん気だな」
「どういうこと?」
「迅之介さんが出ていったって聞いたぞ」
権六たちは触れない話題でも、蓮二は無遠慮である。千世がどう答えたものかと迷っていると、さらに言われた。
「だから、可愛げが足りねぇってんだ」
胸に突き刺さる言葉である。しかし、蓮二は容赦ない。
「お前さん、その器量の上に胡坐をかいてるからそういうことになるんだよ。醜女でも愛嬌がありゃ守ってやりたくなんのが男だ。器量よしだろうとツンケンしてるようじゃ、どんな男も寄りつかねぇぞ」
傷口に塩を擦り込まれた。蓮二は迅之介と仲が悪かったくせに、同じ男として迅之介の肩を持つことにしたらしい。
千世は自分でも情けなくなるほどの声で反論した。
「だって、迅之介さまとは私が家を出た時に縁が切れたの。いつまでもここにいてもらっては、迅之介さまの今後の障りになるでしょう。だから、これでいいの」
すると、蓮二はそっぽを向いてぼそりとつぶやいた。
「これでいいって
どんな顔をしているかなど、自分でわかるはずもない。思わずうつむいた千世に、蓮二は言った。
「あのお人なりにここにいたのは、結構な覚悟だったはずだ。お前さんは迅之介さんのためだとか言いつつ、逃げてただけじゃねぇのかよ」
「それは――」
まっすぐ過ぎる気持ちにどう向き合えばいいのかわからなかったのは本当だ。
父に認められなかった千世だから、それほど必要とされることに慣れていない。
複雑によじれた心は、どうしても素直にはなれない。
千世は、どうするべきだったのだろうか。それを考えようとすると、胸が痛んだ。
「――悪ぃ。言いすぎた」
蓮二が謝ってきたのは、千世がみっともない顔をしていたからだ。
きっと、そうなのだろう。
それでも、千世は己でひとつの望みを叶えた。武家を捨て、町人になったのだ。
だからこそ、失うものもある。
今はそれを静かに受け止めるしかない――。
【 肆❖仲秋 ―了― 】
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