第29話
「――さて」
千世は秋の淡い光が注ぐ中、縁側に腰かけて考え込む。
「どこから手をつけたらいいのかしら」
十五、六年前のことだ。何から手をつけていいのか見当もつかない。
うぅんと唸っていると、いつの間にやら正面に迅之介が立っていた。
「どうした、千世。具合が悪いのか?」
「いえ、そうではありません。少し考え事をしていて」
迅之介は千世の隣に座り込む。
「考え事とはなんだ?」
「おときさんのことです」
神妙な顔をしていた迅之介が、拍子抜けした様子であった。千世の考え事が、迅之介の予想したこととはまるで違ったのだろう。千世はその様子に思わず笑ってしまった。
「おときさんが、祝言の前に生みの親に会って、嫁ぐことを告げたいそうなのです。捜し出してあげたいのですが、十五、六年も音沙汰のない相手をどうやったら捜せるのかと」
迅之介は何か早とちりをした自分を恥じたような、はにかんだ表情を見せると、軽く首を揺らした。
「本当の親か。おときを捨てたのだろう? 今さら会ってもつらい思いをするだけではないのか?」
「それでも会いたいようでした。会って心無いことを言われたら傷つくかもしれませんが、そうしたら諦めもつくでしょうし」
迅之介は立派な親のもとで育ったのだ。次男であるから、嫡男ほど大切にされずにいたとはいえ、それでも不自由はなかった。捨て子の気持ちなどわからずとも仕方がない。
千世は、己に関心を寄せなかった父との間に溝があった。その溝はついぞ埋まらなかった。
母や祖母が生きていれば、最期はもっと違った間柄であったという気もする。溝に橋を架けてくれる人もおらず、溝を飛び越える気概もなく、お互いがただ交わらぬ道を歩き続けた。
そうして千世が振り向いた時、父の道は途絶えていた。
千世の道はまだ先へと続いている。千世だけの道だ。
それならば、どこへ行きつくのかは自分が選ぶ。
そんな千世の心のうちを見通そうとするかのように、迅之介はじっと千世を見つめていた。それがわかったので、千世はあえてそちらを向かなかった。
千世の道は迅之介と歩く道ではない。いつかは離れると覚悟している。
「一度、大家の惣兵衛殿に話を聞いてはどうだ? もしかすると、おときが知る以上の何かを覚えているかもしれない」
「そうですね。一度――」
「俺も行こう」
すかさず迅之介が言った。その勢いに押され、千世はうなずく。
「ええ、お願い致します」
千世がそう答えると、迅之介はほっとした様子でうなずいた。
その日のうちに狸長屋まで行ったのでは、ときも何事かと思うだろう。千世は翌日に行くことにした。
朝のうちに出かけると、井戸端で話し込みながら盥で楽しげに洗濯をする女たちがいる。それを横目に、迅之介はまず佐藤のところへ行くことを提案した。
「惣兵衛殿のところにはおとき当人がいる。佐藤殿のところを借りて話した方がよいだろう」
「そうさせて頂けると助かりますが」
千世と迅之介は初めて長屋に来た時と同様に、佐藤の住まいを訪ねた。
すると、また妻女が柔らかな微笑で出迎えてくれる。
「あら、お二方おそろいで。お久しぶりでございます」
「こちらこそご無沙汰しております」
頭を下げた千世と迅之介を佐藤の妻女は中へ入れてくれた。佐藤当人はまた内職に勤しんでいた。あたふたと片づけをし、畳の上の削り出した竹の屑をササッと払う。
「おお、よく参られた」
「いつも世話になります。佐藤殿、今回は折り入ってお願いがございます」
迅之介がそう切り出すと、妻女はまた外へ出て行こうとした。それを千世が止める。
「御新造様もお話に加わって頂きたく思います。長屋の皆さんには知っていて頂いた方がよいかと」
「私もでございますか?」
妻女は不思議そうにしつつ夫を見遣る。佐藤も首を傾げた。
「一体どうされた?」
その問いに、千世が答える。
「実は、おときさんが嫁ぐ前に本当の二親に会ってみたいそうなのです。それで、できることなら捜してあげたくて、何か手がかりになるものはないかとこちらに参りました。でも、大っぴらに引き受けてしまうと、何も見つからなかった時におときさんをがっかりさせてしまうので、できれば内緒でことを進めたいと考えております」
「それで、惣兵衛殿とこちらで話させてほしいのだが、よろしいか?」
佐藤と妻女は驚いて顔を見合わせていたけれど、千世たちが来た理由を知り、佐藤はやや紅潮した顔でうなずいた。
「それは、捜してもらえるのならば我らも助太刀はいくらでも致す。それほど銭は出せぬが――」
「そこはお気になさらないでください」
苦笑しながら千世が言うと、妻女はもう一度戸口に手をかけた。
「それでは、大家さんをお呼びして参ります」
いつもとは違い、少々足音が慌ただしい。妻女もまた気が昂っているのかもしれない。
佐藤はぽつりと言った。
「
友蔵にも会って帰った方がいいかもしれない。千世は迅之介とうなずき合った。
長屋のそこからそこという近さである。妻女はすぐに惣兵衛を連れて戻ってきてくれた。
「おや、お二方」
と、惣兵衛は白い眉を跳ね上げた。
妻女はあまり詳しい話をせずにここへ引っ張ってきたのだろう。千世は挨拶もそこそこに事情を話した。
長屋の一間で五人が向かい合う。惣兵衛は、顎を摩りながらつぶやいた。
「あれは、今から十五年前の、そう丁度十五夜の日でした。皆でわいわい騒いでいたせいで、赤ん坊だったおときが泣くまで、捨て子に気づかなかったのでございます」
「十五夜――」
千世がそのひと言を繰り返すと、それを迅之介が心配そうに見遣った。そんな間にも惣兵衛は続ける。
「長屋の表店の横にそっと置かれていたんですよ。おときが寝ているうちに置いたのでしょう」
「何か気になったことはございませんでしたか?」
しかし、惣兵衛は狸に似た顔でむぅ、と唸った。
「古びた産着を着ていただけで、これといっては――」
それは以前にも聞いた。手掛かりらしきものを身につけてはいなかったと。
ときを置いていった人物の影も形も、誰一人として見てはいない。丸く美しい月に皆が見惚れている時に
縁側で、ときの母も月見をしていたのだろうか。その後、ときを捨てに行ったと。
それもおかしな話である。無理やり繋げようとしてはいけないのかもしれない。
縁側があるような家ならば、いきなり子を長屋に捨てたりしないだろう。育てられずとも、もらってくれる家を探すくらいのことはするのではないか。
何か事情があり、ときをそこに隠した。後で迎えに行くつもりが、行けなくなった。
そうした可能性もあるかもしれない。
千世は考えながら訊ねる。
「産着が古着だったと仰いますが、おときさんはどうでしたか? 襤褸を着ているほど暮らし向きが苦しかったのなら、おっかさんのお乳の出も悪かったのではないでしょうか。やせ細っていましたか? 顔色はどうでした?」
すると、惣兵衛は驚いたように目を瞬かせた。
「痩せてはなかったかと。とても元気な赤ん坊でございました」
「そうでしたか――」
赤ん坊は、無事に育つとは言えないほど弱い。それでも、ときは元気であったという。
何か、噛み合わないものがあるような気がした。
「あの時はそんなことを気にしちゃいませんでしたが、言われてみるとおときは綺麗な赤ん坊でしたねぇ。襤褸はまとっていても、顔色もよかった。長屋の赤ん坊たちよりずっと」
そう聞くと、やはりときは裕福な家の子だったのではないかと思えてしまう。
十五年前の十五夜。
その辺りにいなくなった赤ん坊について探ってみるしかないだろうか。しかし、この深川を出てのことであったら、さすがにそこまでは探しきれない。どうか、手がかりが見つかりますように、と千世は願った。
「では、他に何か思い出されたら、どうかお知らせください。今日はありがとうございました」
これ以上の話はきっと狸長屋からは出てこない。何せ十五年も経つのだ。
千世が頭を下げると、惣兵衛は揺すっているような仕草でかぶりを振った。
「いいえ、こちらこそお世話になります。おときのためにありがたい限りで。見つかるといいのですが」
「ええ、本当に――」
それが優しい真実ならば。
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