第30話
佐藤のところから出て、千世は歩きながら独り言つ。
「十五夜、か――」
迅之介はそんな千世に目を向け、うなずいた。
「明るい夜だ。夜道も灯りを持たずに歩けただろう」
赤ん坊を両手に抱えて、薄明るい空の下、ふらりと歩く女。
そんな女がいたとしても、誰も気に留めなかった気がする。
まだ始めたばかりだというのに、手がかりの少なさにへこたれそうだった。
そんな時、千世よりも先に迅之介が振り返った。誰かが近づいてくる気配があったのだ。
しかし、振り向いた途端に迅之介の緊張がほぐれた。
「なんだ、太助か」
そこには朴訥な魚屋の倅がいた。太助は頭を掻きながら軽く頭を下げる。
「お二人が来ているのを見かけて、それで――」
「どうかしたの?」
そっと訊ねる。すると、太助は恐縮しながら言った。
「おときが本当の親に会いてぇって言ってたから、それを気にして来てくれたんで?」
「そうよ。でも、おときさんには内緒にしておいてね。手がかりも少なくて、今はとても見つけられそうにないの」
正直なところを千世は話した。それは当然だとばかりに太助はうなずいた。
「おときがあんなことを考えていたなんて、俺も知りやせんでした。でも、おときが親に会いてぇのなら、俺も手伝えることがあれば何かしてやりてぇと思いやす」
他の男に嫁ぐ娘でも、それを恨んだりはしないようだ。
想いを告げることもできず、情けないと少しくらいは思ってしまったけれど、本気でときを大事に想っている。太助のことを千世は見直した。
「そう、何かあればお願いするわ。おときさんが赤ん坊の時のことなんて、太助さんは覚えていないとは思うけれど――」
太助は一度、グッと言葉に詰まって、それから何かを思い出したように言った。
「俺は当時のことは何も覚えちゃおりやせん。でも、小せぇ頃、年の近ぇ者同士よく遊びやした。ままごとなんかもよくやって――」
ままごとなら、ときの方が手綱を握り、太助に指図をしながら遊んでいたのだろうな、とその様が目に浮かぶようだった。
「その時、おときは三つか四つかでした。俺がこうだと思って動くと、そうじゃないってすぐに言うんです。おとっつぁんは
千世と迅之介は顔を見合わせて首をひねった。
「そうじゃないとは?」
迅之介が促す。
太助の声は小さく、通りの騒がしさから切り離したくなった。これで魚屋が勤まるのか心配してしまうくらいだ。
「俺は、うちのおとっつぁんみたいにしたんです。いらっしゃい、ありがとうございやしたって頭を下げて。そうしたら、そうじゃないって。そういうことをするのはおとっつぁんじゃないって。変なことを言うやつだなって、その時に思ったのを覚えてやしたが、今になって思うんです。あれはおときが覚えていた
〈そうじゃない〉という言葉にはどういう意味が含まれていたのだろう。その幼さでは的確に言い表すのも難しかっただろう。
太助は体に見合わない細い息を吐いた。
「それから十年くらいした時にそのことを思い出して、俺、おときにその話をしたんです。そしたら、そんなこと言ったかって、まったく覚えておりやせんでした」
それは、とき自身にとっても朧げなものだったのだろう。長じて忘れてしまったのだ。
どんな些細なことでもときのためになるなら、と太助なりに考えて教えてくれた。その気持ちを傷つけてしまわないように千世は柔らかく言う。
「太助さん、ありがとう。それも含めて少し考えてみるわ」
「お願いしやす」
二人に頭を下げると、太助は駆け去った。千世ともそう年は変わらないのだが、何やら微笑ましい気持ちで見てしまう。
足を止めて佇んだまま、迅之介はつぶやいた。
「おとっつぁんはそういうことをしない、と。それは頭を下げるような身分ではなかったということか? 武家の出だとか」
「もしくは、奉公人がたくさんいたとか?」
どちらにせよ、やはり貧しくて子を捨てたとは思えないような事柄ばかり出てくる。
しかし、それなら何故、ときは狸長屋に置き去りにされたのだろう。
千世は再び、考えをまとめながらゆっくりと歩み始める。迅之介も歩調を合わせていた。
町の活気も千世の邪魔にはならない。周りの騒がしさが聞こえないほどに千世はその考えに没頭していたのだ。
「裕福な家の子だとしたら、だからこそかどわかされた、なんてこともあるのかもしれません」
攫われて、挙句に捨てられたのだとしたら。
迅之介はその考えに賛同しなかった。
「返してほしくば金を寄越せとでも言うのか? そのまま捨ててしまったのでは意味がない」
「金子を手に入れた後、始末に困って捨てたとも考えられます。もしくは、恨みを持った者の嫌がらせでしょうか」
「恨みか――」
無垢な子供までもを巻き込む恨みとは嫌なものだ。それくらいならば金目当ての方がまだいくらかはましなような、そうでもないような。
二人で考えたところで真相に辿り着けるはずもない。とりあえずは店に戻り、千世は皆にもこのことを告げるのだった。
「――十五年前の十五夜でございますか」
みつは話を聞くなり店先でつぶやいた。権六も難しい顔をしている。
仙吉はと言うと、自分が生まれてもいないような頃のことはぴんと来ないようだった。
「蓮二さんを呼んできやしょう。人様の噂をこそこそ聞いて回るのは、蓮二さんの得意技でございやすから」
と、当人が聞いたら怒りそうなことを言った。
実際に蓮二は見ず知らずの人に口を割らせるのが上手い。適当な生き様が面に出ているせいか、こいつは真っ当な人ではなさそうだから、何を言いふらそうと信用がないと思われるのかもしれない。口さがない話ほどよく集めてくる。
「お役人なら事件を控えてあるのかもしれないけれど、そんな昔のことを引っ張り出してくれないわよねぇ」
そうつぶやいて千世は嘆息するばかりだった。
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