第28話

 そんなことがあった十五夜が過ぎ、さらに十六夜いざよいを越した頃。

 月見堂に狸長屋のがやってきた。

 初夏に知り合ってから、何度かこの月見堂へ物を借りに来ている。


 今日はときと一緒に太助が来た。珍しい組み合わせである。

 太助はときに想いを寄せていたのだが、ときは嫁入りが決まってしまった。ときを見初めた若旦那のもとへ嫁ぐのだ。太助はときの幸せを願って諦める、と男気があるのかないのかよくわからないことを言っているらしい。


「あら、おときさん。太助さんまで。今日は何がご入用で?」


 千世は複雑な心を隠して二人を迎え入れた。

 ときはにこにこと笑っている。これまでの人生で、今が一番幸せなのではないだろうか。


「今日は赤ちゃんの産着をお借りしたくて」

「あら、おときさんの子に使うの? ちょっと気が早くはない?」


 すると、ときは色白の顔をほんのりと染めた。その様子は大層可愛らしかった。だからか、それを見た太助の顔が気の毒なほどに歪んでいた。

 しかし、ときはそれに少しも気づいていない。


「ち、違います。長屋で赤ん坊が産まれていて、その子に使うんです。子守で手が空かないみたいだったから、あたしが借りてくるって言ったんです。あたし、今のうちに皆さんの役に立っておきたくて」


 長屋の忙しい赤ん坊の母親に代わり、ときが進んで借り受けに来たようだ。

 一度嫁いでしまえば、もう長屋に入り浸ることはない。今までの感謝を込めて尽くそうとするときの心意気が、千世には眩しく感じられた。


「ああ、なるほど」


 千世は仙吉に言いつけ、赤ん坊の産着を取りに行かせる。その間、太助にも声をかけた。


「太助さんも何か借りるものがあるのかしら?」


 わざわざ二人で来ることは珍しい。別々の用事があったところ、たまたま一緒になったのかと千世は思った。

 太助はぼそぼそと言う。


「大事な時だし、一人歩きは危ないからついていけって長屋の皆が言うから」


 それは、長屋の皆が太助の気持ちを知っているから、まだ諦めるなと背中を押しているのではないだろうか。


 千世はそっと笑ってうなずいた。

 その時、ときは躊躇いがちに言う。


「あたしがここまで生きられたのは、育ててくれた長屋の皆さんのおかげです。――でも、あたしの親はどうしてあたしを捨てたのか、まだどこかで生きているのか、そのことを気にしなかった日はありません。できることなら、あたしはこれから嫁ぎますって伝えられたらいいんですけど」


 複雑な思いはあれど、今が幸せならば恨み言よりも、産んでくれたことに礼のひとつくらいは言える。

 まっすぐな娘だからこそ、千世も思うようにさせてやりたかった。


 けれど、十五、六何年も前のことで手がかりもないとなれば、捜し出すのは無理というものだ。

 困惑しつつ、千世は言う。


「捨てられていた時に身に着けていたものとか、何か手がかりはなかったの?」


 すると、ときは悲しげにかぶりを振った。そんなときを見て、太助も同じように悲しげにしていた。


「それが、いかにも古着のくたびれた産着を身に着けていただけで、身元がわかるものは何もなかったそうです」


 くたびれるほどに使い古した産着ならば、子だくさんの家が口減らしに捨てたのか。長屋の前に捨てておけば、もしかすると育ててもらえるかもしれないとばかりに置いていった。

 古着がやっとの倹しい暮らし向きだったのなら、考えられるのはそれくらいだ。


 しかし、そんな家はどこにでもある。むしろ、溢れ返っている。それだけではなんとも言えない。

 それはときもわかっているのだ。しょんぼりと肩を落としている。


「無理だって、わかっちゃいるんです。でも――」


 諦めはつかないのだろう。

 当時、ときはまだひとつになるかならないというところか。覚えていることはほとんどないに違いない。


「おっかさんの顔も覚えていないのよね?」


 ときは言葉ではなく、うなずく仕草でそれを伝える。仕方のないことだ。

 けれど、ハッとして顔を上げた。


「顔は覚えていないんですけど、こう、おっかさんに抱かれていた時のことはうっすらと覚えているような気がするんです」


 立って歩くこともできないような赤ん坊が、覚えていることなどあるのだろうか。

 千世が返答に困っていると、そばで話を聞いていた権六が言った。


「そういうこともあるんだそうですよ。赤ん坊だからと思っていたら昔のことを覚えていて、どうせわからないからと赤ん坊に下手な話は聞かせちゃいけないと思ったとか、たまに聞きますし。母親の腹の中にいた時のことまで覚えている子までいるとか」


 千世は精々が三つくらいの時のことしか覚えていない。そんなことがあるのかと感心してしまった。


「あたしが都合よく覚えているような気になっている、ただの夢の話かもしれません。でも、縁側のような場所で、おっかさんの腕に抱かれていたんです。――その時、おっかさんは一度あたしを縁側に下しました。下ろしたまま、優しくあやしてくれた、そんな覚えがあるような気がするんです」


 縁側がある家ならば、ある程度裕福と言えるだろう。少なくとも長屋に家族全員が鮨詰めではない。

 しかし、そうするとぼろぼろの古着の説明がつかなくなる。


 やはり、これだけの手掛かりで探し出すのは難しい。江戸には捨て子など溢れている。

 千世は、探してあげるとはとても言えなかった。銭の問題ではない。期待させて、その後に落胆することがわかっているだけに言えない。


「自分のことなのに、自分ではどうすることもできないなんて悔しいですけど、あたしは優しい人たちに出会えて恵まれています。あれこれと望みすぎるのはよくないですよね」


 そう言ってときは笑ってみせたけれど、その笑顔がかえって寂しそうだった。


 ようやく、仙吉が産着を持って戻ってきた。

 もしかするともっと早くに取ってきたのに、物陰にいたのかもしれない。仙吉の目を見てそう思った。


 震える手で産着を千世に押しつけると、仙吉は裏に引っ込んでしまった。それを見た時に、やはりできることをしようと千世は思い直した。


「おときさん、すごく昔のことだから、ほとんど手掛かりはつかめないと思うの」

「ええ、きっとそうでしょうね」


 しょんぼりとするときを、太助はただ見守っていた。その顔は強張っている。心からときを案じているのが伝わるから、切ない。


「でもね、もしその時が来たら、おのずとおときさんの前に現れるかもしれないわ」


 〈その時〉を引き寄せる手伝いをする。だからといって、ときから手間賃をもらおうとは思わない。これは千世からときへの祝儀だ。


 ときの出生を探っても何も出てこないかもしれないのだから、千世たちが動くことを当人には告げないでおきたい。秘密裏にことを運ぼう。

 その方が、何も出てこずとも――もしくは何が出てきても傷つかずにいられるだろうから。


 ときはほぅっと息を吐き、力が抜けたようであった。


「お千世さんにそう言ってもらえると、なんだか心強いです。弁天様にお告げをもらったみたい」

「大袈裟ね。そんなにいいものじゃないわ」


 千世は苦笑する。そうして産着の貸し賃を受け取り、二人を見送った。



 それから裏手へ行き、仕事そっちのけで隠れている仙吉を蔵の裏から引っ張り出した。やはり、目が赤い。

 泣いてはいないけれど、絶対に泣くものかという気持ちがその顔に表れている。

 千世はそんな仙吉の頭を抱き込み、よしよしと小さい子にするように撫でた。


「あんたにはここがあるでしょう?」


 仙吉も親に売られたのだ。先ほどのときの生い立ちを聞き、思うことが何かとあった。

 普段は図太い子だと言えるけれど、それでも人はどんなに強くなっても心のどこかに柔いところを残すものだと思う。

 千世自身もそうだから。


「なんでしょう、千世さま、おいら、別に――」


 鼻を啜る音が声を弱くした。


 千世は、この月見堂の主なのだ。どんな時もここを守っていきたい。

 ここが皆にとっての居場所である限りは――。

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