第27話

 待ちに待った十五日。

 千世は昨日の晩から空ばかりを気にしていた。雨は多分降らない。

 せっかくの十五夜、雨月となっては切ないのでほっとした。


 店のことは権六とみつに任せ、昼過ぎから月見のための支度をしていた。

 台所で、泥を落とした芋に包丁で切り込みを入れる。こうしておくと、茹でた後、簡単に皮が剥けるのだ。皮を衣に見立てて衣被きぬかつぎとは洒落た名だ。


 芋が採れる時季の月見であるから、十五夜は〈芋名月〉なんて名でも呼ばれる。それに対し、九月十三日の十三夜は〈豆名月〉、あるいは〈栗名月〉という。食べ物に直結してしまう辺りは、皆がそれを楽しみにしているからだろう。


 千世は包丁を握りながら色々なことを思い出す。

 母が亡くなってからは、月見の支度をするのは千世と祖母であった。こうした行事の際は千世なりに楽しく過ごしたし、祖母には色々なことを教えてもらえた。今はそれが懐かしい。


 屋敷にいた頃は用意する団子の数も多く、その祖母も亡くなってからはみつと共に支度をした。

 けれど、今の月見堂の人数分くらいなら千世だけでできてしまう。それが少し物足りない。


 縁側に机と三方を並べ、団子と茹でた芋を盛って、出来上がりだ。団子には餡、芋につける塩と味噌も用意した。すると、縁側には誰よりも早く迅之介が来て座った。

 月はまだ見えない。ようやく日が暮れた頃合いなのだ。


 それでも、迅之介は楽しげに動く千世を言葉少なに眺めていた。そんな迅之介に、千世は言う。


「私と、迅之介さまと、権六と、おみつと、仙吉と、蓮二。屋敷にいた頃を思えばたった六人でございますが」

「誰と見ても、どこから見ても月は同じだ。それでも、時折それがいつになく輝いて見えたりもするから不思議なものだ」


 ふと、迅之介はそんなことをつぶやいた。珍しいことに、いつになく感傷的な言葉だ。

 千世にはうなずけるところが多かった。


「ええ、本当に――」


 満ちては欠ける月は、またしばらくすれば元通りの姿に戻る。

 戻れないのは、むしろ人の方だ。過ぎた時は戻らない。あの月を見ていた頃に戻りたいと願っても、その時には二度と戻れない。


 色々な思いが押し寄せてきて、千世は少ししんみりとしてしまった。

 そんな千世に迅之介は声をかけようとしたように見えたけれど、その時に仙吉が落ち着きなく走ってきた。


「片づけ終わりやしたっ」

「あら、お疲れさま」

「団子ください」


 と、両手を広げて見せる仙吉の手を、千世はぺちりと軽く叩いた。


「それじゃあすぐに食べつくしてしまうじゃないの。まだ駄目よ。もう少ししたらね」

「えぇっ」


 このやり取りをこのところ毎回している気がする。権六とみつもやってきた。


「ありがとう。蓮二はまだ?」


 すると、みつは頬に手を当ててため息をついた。


「呼びに行きましょうか?」

「来るって言ったもの。そのうちに来るでしょう」


 そう言って、千世は首が痛くなるほど空を見上げて月の出を待った。

 そこへ来たのは、蓮二ではなく近所の子供たちである。ぐるりと回って庭先に現れた子供たちは三人。七、八歳といったところだ。それぞれ手に箸を一本だけ持ち、元気に駆けてくる。


「お餅つかせて」

「お餅つかせてぇ」


 千世はくすりと笑ってうなずいた。


「はいどうぞ」

「わぁい」


 子供たちは箸で、丸くて大きな団子を突き刺し、それを手にしてひと通りはしゃぎながら賑やかに去っていった。


 これも月見の風習で、子供たちに団子をたくさん盗られるほど縁起がいいとされている。

 それからも何人かやってきて、三方の上の団子はふたつにまで減った。それを仙吉が複雑な目で見ている。皆が食べる分は取り分けてあるというのに。


「蓮二、遅いわね」


 千世がぽつりと言うと、横にいた迅之介が多分顔をしかめた。もう辺りは暗いのにそれがわかった。

 程なくして、雲間に皓々と輝く月が姿を現す。丸い、優しい光を放つ月である。


「あっ、出たわ」


 千世が空を指さすと、迅之介もうなずいた。


「出たな。綺麗な月だ」

「本当に綺麗ですなぁ」


 権六もほぅ、と息をついた。

 仙吉は団子や芋にばかり気が行っている。口がもぐもぐと動いていた。


 ここ深川で見る十五夜の月は、これで三度目になる。それでも、いつ見ても飽きることはない。月の光が今生の憂さを晴らしてくれるような、そんな清らかな心持ちになるのだ。


 今年も無事、十五夜の月が見られた。そのことに千世は心の底からほっとした。

 皆が無事で、こうして団子を囲んで月を眺めている。そんなひと時が千世には堪らなく愛おしかった。


 丸く美しい月の光を浴びながら、千世は祈った。

 皆が健やかに恙なく暮らしてゆけますように、と。

 ――しかし。


 待てども待てども蓮二は来なかったのである。来ると言ったくせに、と千世は不満であった。

 十三夜にはもう呼ばない。



 数日後、ふらりとやってきた蓮二に、千世はその不満をぶつけた。


「十五夜のお月見に来るって言ったでしょう」

「へ? 言ったかなぁ?」


 蓮二は千世の不機嫌の理由わけがわからず、若干困惑していた。千世は土間に下りると、蓮二の襟元をぐい、とつかむ。


「団子も用意していたのよ」

「悪ぃ、悪ぃ」


 ハハ、と軽く言った蓮二を千世は見上げ、拗ねた目を向けた。


「皆で見たかったのに」


 誰も欠けることなく、皆で見たかった。千世は本当にそう思っていた。だから残念でならない。

 しかし、蓮二は頬を掻き、千世から目を背けた。かと思うと、今度は急ににやにやと笑い出した。


「お前さん、そんなに俺と月見がしたかったのかい?」

「皆で見たかったって言っているでしょう」

「月見ってぇのはな、男女でしっぽりとするからいいんじゃねぇか。んな子供みてぇなこと言うなよ。二人っきりで見てぇってんなら、また考えるけどよ」


 千世の方が呆けてしまった。そんな千世の代わりにみつが憤慨する。


「なんて図々しいことをお言いかしら。千世さま、このごく潰しはきっと粋筋と月見舟にでも乗っていて来られなかったんですよ。十三夜は放っておきましょう」

「そうね」


 千世も賛同した。

 蓮二はまたしてもハハハ、と笑ってごまかした。が、否定もしない。


 実際のところ、蓮二の稼ぎくらいでは遊び歩くのも難しい。芸者の情夫か何かであり、小遣いくらいはもらっているに違いない。


 こういうところも迅之介には好ましく思えないのだろうけれど、そういう迅之介も今のところ女のもとに入り浸っているとしか見られていないのが皮肉なところである。

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