肆❖仲秋

第26話

 夢を見た。

 けれど、これは夢ではない。

 本当にあった、昔のことを夢の中で思い出している。


 だからこれは夢なのだと千世は覚った。

 そうでなければ会えない人の顔が久しぶりに見られたから。



 ――あれは千世が八つをようやく越えたという頃。

 縁側に腰かけ、夜半よわの天心にあって世を照らす月を祖母と眺めていた。


 太平の時代とはいえ、齢十七の頃から武家の新造として生きて来た祖母だ。若かりし頃は牡丹の花もかすむと言われたような女人である。老いてなお品よく背筋を伸ばし、凛とした姿でそこにいた。


「今宵は十五夜。まあるい月が綺麗であろう」

「はい、とても」


 美しいばかりの月が千世はとても好きだった。あれを簪にして髪に飾りたいと思った。

 祖母はゆっくりとうなずく。父には思うところの多い千世だが、それが祖母にまで及ぶことはなかった。

 祖母も千世が男児であればよいと思っていたかもしれないが、それでも千世を可愛がってもくれていた。


「こうして十五夜の月見をしたならば、必ず十三夜の月も拝まねばならぬ」


 九月の十三夜。

 十五夜の月とは違う、少し欠けた月。


 そのせいか、少しばかり物足りないような気になる。十五夜の月ほどに美しくはない。

 この、ため息が出るような神々しい月夜ほど、十三夜に思い入れはない。


 千世のそんな思いが顔に表れていたのかもしれない。祖母はしなびた手で千世の額の辺りをそっと撫でた。


「十五夜と十三夜の月。片方だけを見ることを片見月かたみづきといい、それは縁起の悪いこととされておる。故に、両方の月を見ておくのだよ」


 その時の祖母の小袖の色は覚えているくせに、祖母がどんな顔をしていたのかが思い出せない。千世が拗ねた気持ちで祖母の膝の辺りに目を向けていたせいかと今になって思う。

 あんなに綺麗な月を縁起が悪いなどとは言われたくなかった。


 武家の女である祖母は、いついかなる時も己の命を家と夫のために賭して生きてきた。厳しさの中に優しさがあり、その優しさの中に身が引き締まるような生き様が見える。

 その祖母に似ていると称されることが、時折千世に複雑な思いを抱かせた。


 粗相をしてしまうときつく叱責する祖母のことを千世は恐ろしいと感じることもあったけれど、筋の通らぬことを厭う潔さがいっそ武士よりも清くさえあった。だから、祖母の言葉を疑ったことはない。


「わかりました。十三夜もばばさまと一緒に見とうござります」

「無論じゃ。――さあ、団子が硬くなっては勿体ない。そろそろ食べなされ」

「はい」


 この時はただ仲良く団子を頬張り、風が吹くたびに擦れるすすきの音に耳を傾け、そうして十五夜の月を首が痛くなるまで眺めていた。


 その冬。風邪ふうじゃが体に入り込み、医者の薬も効かず、祈祷の甲斐もなく祖母は永眠した。母の時もそうだったが、命の灯は呆気なく消えてしまう。


 ただ、どれだけ時が過ぎようとも、あの時に月を眺めながら祖母と交わした言葉を、千世は生涯忘れることはない。


 祖母の言葉が千世のまだ柔らかい肉に食い込み、刻み込まれたような、あるいは呪いと呼べるほども重く胸にのしかかっていたのだから。



     ❖



 それは秋半ば、八月の十四日のことである。


 千世は竹箒を手に店の表にいた。しかし、道を掃き清めてなどいない。そのつもりで箒を手にしているのだけれど、気もそぞろであり、ただ箒を手にしてきょろきょろと通りを落ち着きなく見回しているだけであった。


 待ち人、未だ来ず。

 ようやく千世が待ちに待った相手が来た。


 朝四つ(午前十時頃)。町を練り歩き、すすきと秋の七草を売り歩く行商人は、八月の十四、十五日の昼までしか来ない。これを逃してしまうと、十五夜の月見の支度ができないのであった。

 だから千世は表に出て、目を皿にして待ち構えていたのである。


 千世は大きく手を振り、薄売りを呼び止める。


「こっちにもひとつくださいなっ」


 頬っ被りの薄売りは、張りきる千世のもとへ小走りでやってきた。


「ありがとうございやす。はい、おひとつ三十六文で」


 すでに銭は用意してあった。千世は小粒でジャラリと支払う。この時季、薄や秋の七草が滅法高直こうじきになるのは仕方のないことなのだ。


「またよろしくね」

「へい、確かに。毎度あり」


 薄売りはにこやかに天秤棒を担いで小走りに道を行く。今が稼ぎ時なのだ。あちこちで薄売りを呼び止める声がかかる。


 千世は黄金色の薄が揺れる七草を手に、ほっとひと息ついた。

 それを手に、上機嫌で中へ入る。


「ほら、買えたわよ。ついに明日ねぇ」


 仙吉だけが諸手を揚げて大喜びである。


「楽しみにしておりやすっ」


 明日は十五夜。三方に団子や芋(里芋)を載せ、薄を始めとする秋の七草を飾って月を愛でるのだ。

 月が見たいというよりも団子を食べられるので、仙吉は月見を楽しみにしているのだろう。


「ええ、明日は早めに店を仕舞いましょう」


 団子をたくさん用意しなくては。十五夜の月見の団子は一人十五個と決まっている。それとは別に、三方に飾る積み団子も十五個。これは食べるものよりも大きく、三寸ほどに丸める。

 それから、芋は茹でて衣被きぬかつぎにしておかなければならない。

 明日は忙しくなる、と千世は張りきっていた。


「明日は十五夜か。すっかり忘れてたぜ」


 ふぁ、とあくび交じりに言ったのは、珍しくやってきた蓮二である。千世があげた蜻蛉玉が、煙草入れに繋がった根付けに通されているのを千世はなんとなく眺めた。。


「なんで忘れるの。今日なんて、たくさん三方を貸し出したでしょう?」

「ああ、そういやそうだな」


 と、まるで気のない返事をくれた。そんな蓮二に、千世は秋の七草を抱えたままで詰め寄る。


「明日もちゃんと来なさいね。蓮二の分もお団子を用意しておくから、忘れないでよ」

「ん? ただで食わしてくれんのなら、まあ来るけどよ」


 千世の勢いに押されてうっかり返事をしてしまったのかもしれない。それほどに、千世は張りきっている。


「よろしい」


 にこ、と無駄に愛想よく微笑む。控えめで楚々とした秋の七草が、そんな千世をさらに彩った。相手が蓮二でなければ少々面倒なことになりそうな微笑である。



 鼻歌交じりに千世は裏手へ秋の七草を活けに行く。そんな後ろ姿を見ながら、蓮二はつぶやいていた。


「なんだあの張りきりようは――」


 それに対し、仙吉がこっそりと告げる。


「千世さまはお月見が殊のほかお好きなんでございやす」


 はぁ、と蓮二の気の抜けた声がした。



 千世が秋の七草を手に裏手へ行くと、そこで迅之介が素振りをしていた。迅之介は千世が来たので動きを止め、ゆっくりと振り返る。

 そんな迅之介にも、千世は笑顔を向けた。


「迅之介さま、明日は十五夜でございます。明日の晩はお出かけにならないようにお願い致します」

「ああ、そうだな」


 迅之介もにこりと微笑む。

 二人してにこにこと、ここだけを見ると仲睦まじく見えることだろう。


 よいのだ。千世はそれほどに上機嫌であった。

 これで十五夜の月見が滞りなく行える、と。

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