第25話

 その晩。町木戸が閉まる夜五つ(午後八時頃)。


 月見堂は暖簾を下ろし、迅之介不在のまま夕餉を食べ、そして千世とみつは湯屋に行って戻ってきたところだった。

 川縁で夕涼みをしながらゆっくりと帰った。もう少ししたら大川(隅田川)には曼殊沙華のような花火が上がり、皆が舟遊びに興じる。船宿の多い深川から舟に乗る客は多く、雪奴のような辰巳芸者も稼ぎ時だ。


 徐々に暑さが増したと、風呂上がりの浴衣を着ていてすら思う。

 千世は薄暗い店先で、まだ火を消していない提灯の灯りを横に置き、上がり框に座り込んだ。板敷がほんの少し冷たく感じられて心地がいい。


「お水をお持ちしますね」


 みつが気を利かせて、土間から台所へ回り込む。瓶の中に買った飲み水を入れてあるのだ。

 かたかた、かたかた、とみつが立てる音が虫の声に混じって聞こえた。

 千世がほう、と軽く息をつくと、かたかたという音が遠のき、その代わりに突然戸が開いた。まだ戸締りをしていなかったのだ。


 戸を開けたのは、迅之介であった。顔を見るまで、正直なところいないのを忘れていた。

 傷心の太助を慰めに行ったのであり、遊び歩いていたのではない。忘れていたことがそれなりに疚しくなり、千世はいつもよりはにこやかに迅之介を迎え入れた。


 上がり框から立ち上がると、ほんのりとした灯りの中で迅之介に近づく。


「おかえりなさいませ。太助さんの様子は如何でしたか?」


 小さな灯りは迅之介の表情まで照らし出してはくれなかった。ややうつむき、迅之介は、ん、と返事らしきものを零した。けれど、それでは何も伝わらない。

 千世が首を傾げると、迅之介はさらに何かをぼそぼそ、とつぶやいた。


「えっ?」


 聞こえなかった。なんだろう、と思って耳を傾けると、そんな千世に迅之介が素早く腕を伸ばした。

 それは本当に素早く、千世が躱せるものではなかった。気づいた時には迅之介の腕が千世に巻きつき、ギュッと力強く抱きすくめられた。


「――――っ」


 大声を出さなかったのは、夜間だという良識がかろうじて働いたからである。それでなければ、悲鳴を上げていた。振り解こうにも腕が動かない。

 迅之介はそのままぼそりと千世の名を呼んだ。その吐息は――酒臭かった。


「は、迅之介さまっ、一体どれだけお酒を召し上がられたのですかっ」

「少ぅし」


 少しでこうなるのか。それとも酒量を覚えていないのか。

 思えば、迅之介が酒を飲んでいるところを見たことがない。下戸だったのかもしれない。


 とりあえず、この場をどうにかしなければ。みつに見られたくない。

 千世がぐいぐいと腕の中で抗っていても、迅之介はなかなか力を抜いてくれなかった。それどころか、千世の肩に首を載せ、目を伏せた。


「ちょ――寝ないでくださいっ」


 慌てる千世をよそに、迅之介はぼうっとしている。

 しかも、そのまま千世を巻き込んで倒れた。千世まで痛い思いをさせられ、腹立たしさはあるものの、ようやく腕が外れた。千世がその隙を逃さず離れると、迅之介はすやすやと眠っていた。いつもとは違い、隙だらけである。


 その穏やかなくつろいだ寝顔が無性に腹立たしくなった。

 もう許嫁ではない娘に、いや、許嫁でも嫁ぐ前の娘にこの仕打ちはあんまりだろう。


 いつもは、千世の方が心情の面では優位に立てているのかもしれない。それがひっくり返されたような、心がかき乱されたような、己の心の臓が大きく鳴り響くのも気に入らなかった。

 顔が火照るのは湯上りのせいだと思いたい。


「千世さま、今の物音は――」


 みつが水を継ぎはぎだらけのぐい吞みに入れて戻った。暗いから手間取っていたのだろう。

 土間で寝ている迅之介と、その近くに座り込んでいる千世を見て、口に手を当てる。


「迅之介さま? あら、大変っ」

「酔っぱらいよ。夏だから、朝までここでいいかしら」


 声が冷たくなるのは、照れ隠しと、悔しさからである。


「いけませんよ、千世さま。あんまりでしょう」


 あんまりなのは迅之介の方だ。千世は権六と仙吉を呼び、迅之介を託した。

 そうして、部屋で夜着に包る。そんなことをしても暑いだけだった。


 ――太助も酒を飲んで憂さ晴らしができたのだろうか。

 傷心のまま女郎屋に行って、遊女にのめり込まないといいのに。


 ああ、明日返納日の客が五人ほどいた。仙吉を使いに出そう。

 蓮二も近頃顔を出さないけれど、暑さのあまり長屋でうだっているのではないだろうか。飲み水も買えないほどつんつるてんになっていないといい。深川の井戸水は飲めたものではないのだ。


 ――などと、次から次へと考えてしまうのは、頭の中から迅之介を追い出してやりたいからである。

 どうせ、明日になれば何も覚えていないのだろうし。



 そんなことを考えながらほとんど寝つけなかった千世が、翌朝、二日酔いになった迅之介に冷ややかであったのは仕方のないことだろう。


 当の迅之介は昨晩のことを覚えていないのか、覚えていないことにしないとまずいと考えてのことか、それには結局触れなかった。


 ただし、それ以降、迅之介は特別な時以外は、酒は舐めるほどにも飲まなかった。



     【 参❖岡惚れ ―了― 】

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