第24話

 そんなことがあった翌日。文芝堂の番頭、栄助がやってきた。


 にこにこと上機嫌である。

 まだ何も伝えていないのだが、千世たちがしくじることはないと信じているのだろうか。その期待を裏切らずに済んで幸いである。


「――というわけで、おときさんは改めて若旦那にお会いしてもよいとのことでした」


 それを聞き、栄助はさらに表情を明るくした。


「いやぁ、よかったよかった。月見堂さんにお願いしてみたあたしの勘は正しかったというわけですね」


 若旦那は今も寝込んでいるらしい。やっとその床から抜けられるのかと思ったけれど、太助が男気を見せた場合、まだ結果はわからない。


 その娘に想いを寄せる若者がいることを千世は告げなかった。余計なことだ。

 ときはただ一人しかいないのだから、こればかりはどちらかが泣くしかない。


 財力はあるが、弱々しく頼りない若旦那か。

 幼馴染で気心が知れた魚屋の倅か。


 さて、ときはどちらを選ぶのやら――。



 それから、千世は店の前で雪奴と会った。

 いつものごとく、どんなに暑い日でもきりりと格好よく粋な姿である。


「あら、雪さん」

「ああ、おはよう」


 嫣然と微笑む雪奴に、千世はふと訊ねてみる。


「ねぇ、ここだけの話なんだけれど――」


 そう言って、雪奴の耳に口を寄せる。


「熊井町の文芝堂さんって知っている?」

「知ってるぜ。帳屋のだろ? たまに若旦那を連れた主に呼ばれて屋根船に乗ることもあるからな」


 それを聞き、千世は雪奴の袖をつかんだ。雪奴はその勢いにやや驚いている。


「雪さん、その若旦那ってどんなお人?」

「うん? 声は聞いたことがないね。何せ大人しいから」


 雪奴のような売れっ妓を前にしても恋煩いで寝込んでしまわないのなら、粋筋の女はお気に召さないということらしい。


 大人しいのはわかった。ときのような娘を好くのはそうした気質の男が多いようだ。

 雪奴はくすりと笑う。


「なんだよ、あんた、器量望みでもされてんのかい? 迅之介さんはどうすんだよ」

「私じゃないわ」


 すると、雪奴はああ、と気が抜けたように零した。


「それならいいけど。まあ、あの若旦那、大人しくても見た目が歌舞伎の女形おんながたみてぇだろ。世間じゃあ結構もてはやされてるよ」

「そうなの?」


 そんなに見目がよかったのか。どんどん太助の分が悪くなる。


「あたしはああいうの、好みじゃねぇけどな」


 ハハ、と雪奴は笑い飛ばす。

 雪奴のような活きのいい女子おなごと見かけだけの優男とでは釣り合わないと千世も思う。


「あたしだったら迅之介さんの方がいいや」

「あらそう」

「――平然と言うんじゃないよ。少しは妬いてやんな。可哀想だろ」


 やれやれといった様子で雪奴は半眼になった。

 しかし、妬けと言われても、言われてから妬く方がおかしいだろうに。

 小さな頃からそばにいるというのは、ある意味難儀なものだ。自然にそこにいて、それが当たり前になる。


 そう思うと、ときも日常に溶け込みすぎた太助に特別な想いは抱けないのだろうか。ばったり出会った見目のよい若旦那に心をときめかせるのか。

 優しそうだったと、印象は悪くないのだ。


「女心って難しいわね」


 はぁ、とため息交じりに言うと額を小突かれた。


「何を他人事みたいに言ってんだよ」


 また、雪奴に呆れられてしまった。



 ――結局のところ、すべての流れがそうなるように動いていたとしか思えない結末が待っていた。

 これは後日、迅之介から聞いた話である。


 長屋へ若旦那の使いの者が来たそうだ。そして、ときと惣兵衛に会い、文芝堂まで足を運んでくれるようにと言づけていった。


 惣兵衛が言うには、大事な若旦那が見初めた娘に、二親は厳しい目を向けるだろうと思ったそうだ。ところが、ときに会うなり主も内儀も大喜びであったという。


 それは丁寧に扱ってくれたそうだ。このままでは息子がどうにかなってしまうと心底心配していたから、その病の薬となる娘が来て、本当に涙を浮かべて喜んだと。


 ときはそんな親たちに気圧されながらも、若旦那と会った。

 本当に寝込んでいたのかと問いたくなるほど嬉しそうな若旦那の様子に、ときもまんざらではなかった。

 親たちと番頭の栄助が、口々にいい嫁になると褒め、もじもじと照れて何も言えない若旦那に代わり、文芝堂の主がときに息子の嫁に来てほしいと告げたそうだ。


「それで、おときさんは――」


 千世はこれを伝えに、一度足を運んだ狸長屋から急いで戻ってきた迅之介に店先で訊ねた。

 しかし、迅之介の顔を見れば、訊ねずともわかったのだ。


「了承したそうだ」


 やはり、そうなる。

 こればかりは仕方がない。

 太助には縁がなかったと諦めてもらうしかないだろう。


「太助さんはおときさんに何も言わなかったのですね」

「そうだな――」


 言えなかったのか。

 言えないのは若旦那も同じだ。太助だけを意気地がないと責めるのも気の毒な気はした。


 今頃、太助は体を丸めて長屋の片隅でしょんぼりとしていることだろう。

 こうなると、もう想いを伝えては困らせるだけだと思うのかもしれない。


「言えたらよかったですね」


 千世はそうつぶやいた。何やら、喉の奥に魚の骨が引っかかったような、なんともすっきりしない気分になる。


「言われた方はどうなのだろうな?」


 と、迅之介はそんなことを言った。


「言われた女子は、まあ嬉しいでしょう。よほど嫌いな相手からでない限りは」

「そうか。そういうものか」


 ふむ、と迅之介はうなずいた。その仕草はひどく真面目腐って見えて、千世はまるで己が政論でも語っているような気がしてきた。それほど、迅之介には女心が難解なのか。


「この後、佐藤殿と共に太助の話を聞いてやろうかと。今日は少々帰りが遅くなるやもしれぬ」


 男同士、慰めるらしい。その光景を思い浮かべ、千世は微笑ましくて少し笑った。


「それはよいですね。わかりました。お気をつけて」

「うむ。遅くなるだろうから、夕餉は俺を待たずともよい」

「ええ、そうさせて頂きます」


 去っていく迅之介の背中を、千世はしばらく眺めた。背中に棒でも入っているのかと思うほどに姿勢がいい。

 迅之介は武家の子息とはいえ、町人を見下すことはない。むしろ、弱き者は助けねばならないという思いがあるように見える。


 千世が泣いていれば、無言で横にいた。家の外で野良犬に飛びかかられそうになった時も駆けつけてくれた。

 それは千世だからではなく、常に弱っている者の味方であったからかもしれない。

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