第23話

 佐藤に連れられ、千世と迅之介は大家の住まいへ向かう。

 井戸端にいた女房たちがおらず、佐藤の妻女もいない。どこか場所を変えて世間話に花を咲かせているのだろうか。


 それでも、子供たちはまだ外で遊んでおり、見慣れぬ千世を不思議そうに見ていた。

 千世はそんな子供たちに笑いかける。

 あと何年かしたら奉公に上がらなくてはならなくなるのだ。今は遊べるだけ遊んでおいたらいい。


「大家殿、おられるか? 佐藤だが、客人をお連れした」


 声をかけるのと、障子戸を開けるのはほぼ同時であった。開いた戸の先では、畳の上で狸によく似た丸い老爺が茶を啜っていたのである。

 何故に狸長屋なのかとは思っていたが、なるほど、狸だ。千世は失礼なことに納得してしまった。


「おお、何用かな?」


 老爺は落ちくぼんで隈のある目を優しげに弛ませる。千世は頭を下げた。


「仲町の損料屋、月見堂の主で千世と申します」

「あたしは大家の惣兵衛そうべえでございます。ああ、月見堂さん。その節は世話になって。ささ、お上がりください」


 誘われて千世と迅之介は中へ入った。すると、その土間にいたのである。渦中の娘が。

 千世と迅之介を見て、にこりと柔らかく笑った。


「ようこそいらっしゃいました。今、麦湯をご用意しますね」


 本当に素朴な、そこにいるだけで心の休まる娘だった。着ている着物は藍の絣。眉の辺りが儚げと言われたように、眉は薄めで短く、やや下がっていた。

 これは間違いない、と千世は感じた。


「ありがとうございます。けれど、おときさんにもお話を聞いてほしいんです」

「あら、あたしの名前を――」


 名乗ってもいないのに名を知っている。

 その途端、惣兵衛が僅かに気を張ったのがわかった。きっと、佐藤がしたのと同じ勘違いをしたのだろう。


「ああ、大家殿。まずは話を聞いてもらおう」


 そう苦笑しながら佐藤は畳に上がった。千世と迅之介も上がり、ときも手を止めて惣兵衛の後ろに正座した。

 惣兵衛は懐手で問う。


「さて、そのお話とやらは――」


 千世はうなずいて、惣兵衛の後ろのときを見た。


「おときさん、最近、岡持桶を持って八幡橋の辺りを歩きましたか?」


 その問いかけは唐突に思われたのか、ときは目を瞬かせた。


「ええ、まあ。二日に一度は歩いていると思います」

「その岡持桶を落として、お供をつけた若旦那風のお人が拾ってくれた、なんてことがありませんでしたか?」


 惣兵衛はひたすらに首をひねっている。それも無理からぬことである。ときはしばらく考えてからうなずいた。


「ありました。身なりがよくて、優しそうなお人でした」


 やはり、そういうことらしい。佐藤ががっくりと肩を落とした。

 そんな佐藤に千世は詫びるしかなかった。


「申し訳ありませんが、このことを先方にお伝えしないわけにもいかないのです」

「いや、わかっておる。わかっておるとも」


 わかってはいるが、太助のことをどうしようかと悩ましいのだ。想いを伝えるように焚きつけることくらいしかできないだろうけれど。

 千世はまた惣兵衛とときに向き直る。


「実は、その時の若旦那がおときさんにお会いしたいようで、捜してほしいと頼まれたのです」


 ときは口元を押さえ、瞬きを繰り返した。惣兵衛はそんなときを気遣っている。


「そういうことでございましたか。――おとき、お会いしてみるかい?」


 すると、ときは躊躇いがちに答える。


「ええと、その、あの若旦那様はどこのどなたなのでしょうか?」

「熊井町の文芝堂というお店の跡取り息子さんだそうです」

「文芝堂――」


 と、口に出したときの顔は少々赤らんで見えた。ときは軽くうなずく。


「お会いするくらいなら」


 年若い娘だから、若旦那が相手ならば少々夢も見たくなるかもしれない。

 もともとが捨て子で不運であったのだ。いくら長屋の人々がよくしてくれたとしても、親に甘えることができずに寂しい思いもしたことだろう。

 これからその分を取り返すように、よいことがたくさん待っているといい。

 おときを幸せにするのが文芝堂の若旦那か、太助か、そこは千世にはわからないけれど。


「では、そうお伝えさせていただきますね。こんな時分にすみませんでした」


 千世が頭を下げると、ときも三つ指を突いた。


「いいえ、わざわざありがとうございます」


 惣兵衛は髭のまばらな顎を撫で、むぅ、と唸っていた。これは佐藤と同様に太助の気持ちを知っているがためかもしれない。


 しかし、ときには想い人がいるようには見受けられない。それならば、太助を気遣ってときの行く末を狭めてしまってはいけないと思える。




 千世は戸を潜って外に出た。ずっと黙っていた迅之介が千世の横に立つと、どこか寂しそうに見えた。

 やはり、男たちは太助に気持ちを寄せてしまっている。だが、女の千世にしてみれば、眺めているだけで想い人は手に入らないと言いたい。


 ただし、太助は善良な若者であると千世も思う。だからここはひとつ、鳶に油揚げをかっ攫われる前に男気を見せてもらいたい。


「夏はいつまでも空が明るくて助かりますね。さあ、戻りましょう」


 千世は迅之介にそう告げた。行きほどに話すことはないので、迅之介の後ろを歩こうとしたのだが、そうすると迅之介が何度も振り返った。そのせいでなかなか進めない。


「何かご用でございますか?」


 呆れて問うと、迅之介は軽く首を振った。


「そうではないが、本当にそこにいるのかと気になってな」

「私は月見堂へ戻ります。他にどこへ行くというのです?」


 千世にはもう月見堂しかないのだ。おかしなことを言う。


「それはそうだが。千世はいつも、ふとどこかへ行きそうな気になるのだ」

「なんでしょうか、それは」


 どこへ行くというのだ。どこへも行けはしないのに。

 しかし、家に縛られていた昔とは違う。幾分かは身が軽くなった。


 そう思うと、迅之介の言うこともまったく的外れではないのかもしれない。

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