第22話

 蛤町の狸長屋は、見たところ何の変哲もないありふれた長屋である。

 古いくたびれた佇まいで、子供たちがきゃっきゃと犬っころのように井戸の周りを走り、女たちが水を汲んでいる。


 佐藤のところはその長屋の裏の端であった。迅之介は人目をはばかるように進み、佐藤のところの障子戸に向かって声をかけた。


「佐藤殿、保科だ。ご在宅か?」


 やや小声なのは、長屋の女たちに捕まりたくないからではないだろうか。町家の女房たちは、武家とはまた違った意味で逞しいのだと、千世も巷間に出て初めて知ったところである。

 千世を連れている今、はやし立てられるのは目に見えていた。


 障子戸の内側に気配がある。影が近づき、そうして戸は開いた。


「保科さま、ようこそおいでくださいました」


 にこやかにそう言って迅之介を迎えたのは、どうやら佐藤の妻女のようであった。口元に手を添え、妻女は千世に目を向けるとホホ、と笑う。


「もしかして、このお方が――」


 もしかして、とはなんだろうか。迅之介は一体何を言ったのだろう。

 千世が迅之介を見遣ると、迅之介は少々慌てた。


「すまぬが、入らせてもらおう」

「あら、立ち話など無作法を。失礼致しました。手狭ではございますが、ささ、お入りくださいませ」


 裏長屋の一角だ。謙遜などではなく、本当に狭いのは覚悟の上で千世も中へ入った。


 すると、畳の上に三十路の男がいた。せっせと周りを片づけている。竹を削っていたらしい。きっと、内職だろう。


「保科殿、よう参られた」


 朗らかに笑う無精髭の浪人は、千世が思い描いていた通りの人物であった。

 貧しいなりに心は豊かに日々を過ごしている。佐藤当人はもとより、妻女からもそれが伝わるのだった。


「佐藤殿、これは月見堂の店主で千世という」


 迅之介に紹介され、千世は丁寧に頭を下げた。佐藤はにこにこと人のよい笑みを浮かべている。


「おお、千世殿か。お初にお目にかかる」


 その言葉の上に、〈元〉がついているのといないのとでは意味合いがまるで違ってくる。千世は迅之介を見たが、迅之介は千世と目を合わせなかった。

 これは、わかっていてやっている。


 歯噛みしたものの、ここへ連れてきてほしいと頼んだのは千世の方であり、この場で声を荒らげて否定しては迅之介の面目が丸つぶれであることも承知している。

 ここは耐えて、淑やかそうに迅之介の後ろに控えた。


 二人して、けば立った茣蓙の上に座った。大人が四人もいては窮屈だが、仕方がない。

 迅之介はさっそく本題に入った。


「実は、今日ここに千世を連れて参ったのには子細があるのだ。損料屋の商いに関わることでな」


 妻女は湯呑に湯冷ましを入れて出してくれた。閉めきっていて暑いのでありがたい。

 妻女がそのまま外に出て行ったのは、話を聞かぬ方がいいと思ってのことだろう。よくできた妻女だ。


「ほう。その子細とは?」


 佐藤は小首を傾げてみせる。そうしていると、最初の印象よりもいくつか若く見えた。

 それから迅之介に促され、千世は話し出す。


「はい、実は、とあるお方から人を探してほしいと頼まれております。その娘さんがこの長屋のおときさんではないかと」


 それを聞くなり、佐藤はひどく驚いた。何度も瞬きを繰り返す。


「それはもしや、おときの親かな?」

「え、と――」


 戸惑う千世を見て、佐藤は早とちりだと気づいたのかもしれない。身を乗り出す勢いだったが、尻が畳の上に戻る。


「すまん。違ったようだ。いや、おときは捨て子でな。赤ん坊の頃にこの長屋の前に捨てられていて、それ以来この長屋の皆で育ててきた娘なのだ」


 捨て子は珍しい話ではない。むしろ、よくあることだ。

 育てられぬ親が一縷の望みを託し、長屋の前に捨ててゆくのは、長屋全体が協力して子育てをしてくれると思うからである。


 事実、捨て子の一人も面倒を見られないなんて、あの長屋は薄情者の集まりだ、などという噂が立てられる。長屋はそこにいるものが皆、家族であり、同じ責を負うのだ。


 ときを捨てた親もまた、何か事情があったのだろうけれど、子を捨てたことに変わりはない。

 その子供は立派に育った。それがせめてもの救いである。


「おときさんはどんな娘さんですか?」


 千世はそっと訊ねてみた。すると、佐藤は大きくうなずく。


「気立てのよい娘だ。この長屋に育てられたと、いつも恩義を口にし、骨惜しみをせずに働く」


 若旦那が見初めたのは、そうした気質が外見にも表れていたからだろう。情けない若旦那だが、女を見る目はあったようだ。

 ――まだ、ときだとはっきりしたわけではないのに、そんなことを思った。


「実はおときさんらしき娘さんに一目惚れした、とあるお店の若旦那がおられて、その娘さんを捜されているのです」


 へっ、と佐藤は侍らしからぬ素っ頓狂な声を上げた。そこまで突飛な話でもないかと思うのだが。


「おときを見初めたと?」

「まだ確かめてはおりませんが、おときさんではないかと」


 佐藤は、目に見えて困っていた。迅之介もそんな佐藤を不思議そうに見た。


「佐藤殿、どうされた?」


 すると、佐藤は浮いた鎖骨の辺りを擦った。そうして、ため息を零す。


「おときの幸せはおときが決めることだ。もし、お店の内儀にでも収まったなら、貧乏長屋の暮らしよりはずっといいのだろうし」


 皆が己の娘のように接してきたのだ。ここを離れて嫁に行くのを寂しく感じるのかもしれない。

 そう思ったけれど、それは少しばかり違うようだった。

 佐藤は言う。


「実は、そうすると泣く男がいる」

「えぇと、それは――」

「おときに惚れている男がおるのだ」

「恋仲なのでしょうか?」

「いいや、片恋だな」


 はぁ、と千世は零す。それならば、まだ若旦那にも望みはあるのか。

 この依頼は娘を捜し出すことであって、仲を取り持つことではない。そこまで貸し賃に含んだ覚えはない。


 とはいえ、引き合わせてみて、若旦那と祝言を挙げるという話が進んだら、その男はときを諦めるしかないだろう。


「今のところ、おときさんに決まった相手はまだいないということでございますね?」

「まあ、そうなのだが、どうしたものかな。太助に落ち込まれるとそれがしも見ておれん」

「え? 太助さん?」


 千世は思わず声を上げた。

 太助は、この長屋に住む若い男だ。年の頃はときと合う。

 太助とその父の友蔵とが破落戸に絡まれて助けを求めに月見堂へ来たのが、千世たちがこの長屋に関わるきっかけであった。


 確かに太助は大人しい。面と向かって惚れている娘にそれと告げられなさそうだ。

 しかし、そんなことを言っている場合でもなくなったようだが。


「ええと、まずはおときさんにお会いして確かめてもよろしいでしょうか。もしかすると人違いかもしれませんし」


 こうなってくると、人違いであってほしいような気がした。そうしたら人捜しはまた振出しに戻ってしまうけれど、それでも。

 迅之介も眉根を寄せて考え込んでいる。


「うむ。考えていても仕方がない。大家殿のところへ案内しよう。おときもそこにいる」


 善は急げとばかりにやってきてしまったが、そろそろ夕餉の支度をし出す時分になる。

 ときもその大家の身の回りの世話をしているのなら忙しい頃合いだ。佐藤の妻女にも申し訳なかったと千世は少し反省した。また今度、手土産でも持って改めて礼に来よう。

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