第4話

 千世と奉公人たちは客と迅之介の背を見送る。


「迅之介さまは本当に、そこいらの娘さんたちがきゃあきゃあ騒ぐくらいの男ぶりのくせに、てんで愛想がございませんねぇ。まあ、千世さまはその方が安心でしょうけど」


 仙吉が、年に見合わぬ生意気な口を利く。権六がそれを目で窘めるものの、まるで威厳はない。


「これ、仙吉。口を慎まんか」


 そんな優しい声で言って怖がるはずもない。しかし、権六はこれでも厳しく言っているつもりである。


「あら、私は迅之介さまがどうなさろうと構わないのよ。いつでも家にお戻りくださいと申し上げているのに、帰らないのは迅之介さまの勝手なのだし」

「元許嫁だってのに、冷たいですねぇ」


 などと言って仙吉は笑っている。ただし、当の本人を目の前にしたらまず言わないだろう。仙吉は調子のいい子供だから。


「だから、であって、今は違うでしょう。縁はもう切れたのよ」


 千世はそう思っている。

 家を出ると決めた際、迅之介には一切の相談をしなかった。


 もともと、迅之介の父は番方、将軍の警護に当たる新番組頭であり、釣り合いが取れているとは言い難い。迅之介ならばもっと格上の家の入り婿に収まれるのだ。何も相手が千世であることはない。


 千世が迅之介の気に障ることをして破談になるのが手っ取り早い。そう思って、ずっと可愛げのない態度ばかり取っていた。気に入られようと思ったことはなかったのだ。


『迅之介さま、私は武家のしきたりが嫌いなのでございます。よい妻にはなりませぬ。お嫌なら破談にして頂きとう存じます』

『うむ、わかった』


 迅之介は淡々と答える。

 暖簾に腕押し、と、まさにそうした状況であった。迅之介の〈わかった〉というのは、武家のしきたりが嫌いなところも、よい妻にならないらしいことも、全部ひっくるめて受け入れるという意味であったと、今ならばわかる。


 迅之介という男は、とにかく真面目なのだ。一度千世を嫁にもらうという約束を交わした以上、それが覆せない。そんな堅物が、千世のせいでふらふらと出歩いて家に戻らない風来坊と噂されてしまうようになったのである。


 家を出る前には、さらにはっきりと駄目押しに言った。


『私は迅之介さまの妻にはなりませぬ。武家はもうこりごりなのです。これからは町人として生きて参りますので、迅之介さまとのご縁はこれまでにございます』


 さすがに怒るだろうと思った。

 しかし、迅之介は表情ひとつ変えず、相変わらずの落ち着いた口調で言った。


『町人か。それもよかろう』


 最初は、町人として生きようとする千世に対し、決別を述べているのだと受け取った。それを決めたのなら、もう好きにするといいと、達者に暮らせと突き放されたとばかり思っていた。


 それが誤りであったとわかったのは、別れを告げてからふた月後である。行先も告げなかったというのに、この店にごく普通にやってきたのだ。


 千世の従兄から聞き出したのだろう。

 もともと、従兄は年が近い迅之介の兄と共に学び、剣術に打ち込んだ友で、その縁から千世と迅之介は許嫁になったのだ。


 迅之介の言う、〈よかろう〉というのは、まさか自分が町人になってもいいという意味だと言い出さないか、千世は恐ろしくて詳しく問いたださなかった。保科の家も、息子が堕落した原因は千世であると、千世を恨んでいることだろう。


 それでも居ついてしまった元許嫁のことを、千世は諦めて用心棒だと思うことにした。剣術やっとうの腕前だけを見れば心強い男ではある。

 女店主と舐められがちな店であるから、いてもらえて助かっていると言えなくはない。


 もしかすると、迅之介はそう思ってここにいるのだろうか。

 千世の店が軌道に乗るまでは見守るつもりで、もう安心だと思えた時に離れてゆくのなら、うるさく言わずとも別れは来る。


 感謝は、これでもしている。だからこそ、迅之介には相応しい将来を歩んでほしいと千世なりに思ってはいるのだ。


「迅之介さまが行かれたのでしたら、なんのご心配もございません」


 黙って成り行きを見守っていたみつも、にこやかにそう言った。

 しかし――笑っていたかと思うと、みつは権六に首を向けてぴしゃりと言った。


「ところで権六さん、昨日の帳面、帳尻が合いませんでしたよ。直しておきましたから」

「すまん。あたしは算術が苦手でなぁ」

「存じております。ですから、私が毎日調べるようになったのです」


 首をすくめる権六に、みつはため息交じりに言った。それから、仙吉にもひと言。


「それから仙吉、片づけ物はもとあった場所に戻すように、何度も言ったはずだけれど?」

「戻しておりやす」

「おかしいね、じゃあどうして行灯と書かれた箱にが入っていたのかしら」

「どうしてでしょうねぇ?」


 あくまで認めない仙吉に、みつはさらに笑顔を向けている。しかし、その笑顔が怖い。


「――気をつけやす」

「ええ、そうなさい」


 この店では誰もみつには敵わない。みつはしっかり者で、皆の足りないところを補ってくれる。

 主である千世でさえ、時にはみつに小言を食らうのだ。


「ところで千世さま」

「何かしら」


 笑顔で切り出すから、千世も笑顔を浮かべたのだが、みつは蔵の方を指さした。


「この前、捨てましょうとお話したがらくたの数々が蔵に眠っているのですが、千世さまにお心当たりはございませんか?」


 ぎくり、と千世が強張ったのをみつは見逃さなかった。


「いくら蔵があっても、無尽蔵に蓄えられるわけではありません。物が溢れていてはお客さまがご要望の品を取り出すのに手間取ってしまいます」

「そ、そうね。でも、こんな小さな箱でしょう? そんなに邪魔にならないと思うわ」

「その小さな箱がいくつございましたか?」


 千世は黙った。黙るしかなかった。


 この間、蔵の虫干しがてら、みつと一緒に品物の整理をしたのだ。

 借り手のつきそうにない、古びて耳が取れた猫の置物、穴だらけで網ようになった手ぬぐい、汚れがこびりつき染みだらけの火口箱、ひびが入って一度使ったら折れそうなこうがい――みつに言わせれば〈がらくた〉がたくさん出た。


 これらは先代の置き土産だ。使わないのに眠らせておいても仕方がない、とみつはがらくたをまとめていた。


 しかし、千世が見ると、どれもこれもまだ使えそうに思えた。それに、ここまでくたびれるほど長く残っていた品なら、いろんな人の手に渡って役に立ち、感謝されたはずなのだ。要らなくなったから捨てるとは、あまりに身勝手ではないのだろうかと考えてしまう。


 その品のひとつひとつに思い出があり、人の生活を見守ってきたのかと思うと、千世にはそれを捨てるということがどうしてもできないのだ。

 ありがとう、しばらく休んでいてねという気持ちを込めて蔵に眠らせておけば、またいつか借り手が来て借りてくれることもあるかもしれない。

 捨ててしまえばそこで終わりだ。人と同じように、物にも命がある。


 ――どうしても捨てられない。

 こんな千世が生まれ育った家を出たのだ。その時の切なさは今思い出しても身を切られるようである。

 身分にこだわりはないけれど、家そのものに愛着はあった。


 こうして、饅頭の包み紙一枚捨てるのにもしばらく考え込む千世が物に埋もれずに済んでいるのは、どう考えてもみつのおかげである。


「では、こうしましょう。そんなにも必要だとお思いでしたら、ひとつだけ残して頂いて、あとは処分しましょう」

「ひ、ひとつだけ?」

「ええ」


 きっぱりと言われた。

 ひとつ。そんなものは選べない。どれも同じほどに値打ちがあるのだ。ひとつを選んだら、他が劣っていると決めつけたことになる。それぞれに人の暮らしを助けてくれた品に優劣はつけたくない。

 絶句している千世に、みつは笑顔で言った。


「どれも同じ値打ちでしたら、すべて要らないのと変わりありませんね」

「お、おみつ、少し考えさせて。お願い」


 そんな二人のやり取りを尻目に、仙吉はハハ、と笑った。


「おみつさんが主だったら、おいら雇ってもらえていない気がしやす」

「そうね。もっと素直で真面目な丁稚がいいわねぇ」

「おいら、素直で真面目な丁稚じゃありやせんか?」

「素直で真面目な丁稚はそういうことを自分の口から言わないのよ」


 うひぃ、と顔をしかめているが、仙吉のような子供にはみつくらいの厳しさが丁度よい気もする。

 千世もこれまで、商売とは無縁に生きてきたから、しっかりしたみつがいなくては、商売が安定するまでにもっと時が要ったことだろう。


「それはそうと、仙吉。洗濯物が溜まっているから、私と一緒に片づけてしまいましょう」

「へぇい」


 渋々、仙吉は裏手へ連れていかれた。


 ちなみに、この洗濯物は自分たちのものではない。客が返した品物の洗濯だ。

 損料屋で借りたものは洗わずに返すようになっている。それが便利で、手ぬぐいやふんどしまで借りに来るのだ。


 男の独り者には何かと便利であるが、その洗濯の手間賃も損料に含まれる。面倒だからと褌ばかり借りていては散財するのは間違いないけれど、それでも借りてゆく客は多い。


 幼い仙吉が人様の使った褌など洗いたいはずもなく、嫌々なのも仕方はないが、だからといってみつが容赦してくれるはずがなかった。

 とはいえ、仙吉はあれでなかなかに根性がある。気張って洗濯物を片づけてくれることだろう。

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