第5話

 それからひと晩、迅之介は長屋から帰ってこなかった。

 しかし、千世は特に心配などしていない。迅之介が破落戸によって簀巻きにされ、大川に放り出されているとしたら、それほどに腕の立つ破落戸ならぜひ雇いたいくらいだ。

 迅之介のことだから、きっと念のために長屋へ泊まり込んでみたのだろう。


 案の定、早朝に迅之介は友蔵を従えて戻ってきた。

 友蔵は上機嫌である。その顔を見ただけで千世はすぐに状況を読み取ることができた。


「友蔵さん、迅之介さまはお強いでしょう?」


 店先の板敷の上に正座し、千世はにこやかに言う。友蔵は興奮冷めやらぬ様子であった。


「そりゃあもう、恐れ入りやした。お腰のものを抜きもしねぇで破落戸を道に転がしてくださいやした」

「いかに破落戸といえど、無腰の相手に刀など抜けん」


 当の迅之介は淡々としたものだ。

 向こうは友蔵が連れてきた用心棒など大したことはないと甘く見ていたのだろう。袋叩きにするつもりだったのに、自分たちが痛い目を見たのは予想外だったはずだ。


「それで、その破落戸はどこのどなたでした?」


 どこかの組の者だとしたら、少々厄介である。しかし、そういうわけではなかった。


「どこのどなたでもないから破落戸なんでしょうよ」


 と、友蔵が苦笑する。人別帳から外された宿なしの類ではあるのだろうが。


「金目のものも盗られちゃいねぇんです。ただいちゃもんつけて殴ってくるばっかしで。ありゃ単に弱いもん苛めが好きな連中なんでしょうよ。それが強ぇお人が来てびっくりしたみてぇだし、いい気味でさぁ」


 ククク、と友蔵は笑う。よほどすっきりしたのだろう。

 しかし、迅之介はそう楽観的ではなかった。


「意趣返しに来ることもあろう。もうしばらく様子を見るべきか」


 そうした荒くれが、やられたままで引き下がるとは思えないのだ。千世もそれは心配なところである。

 すると、友蔵が軽く膝を打ってから言った。


「ま、佐藤さまももう少ししたら用事が落ち着くそうなんで、それまでお願いできるとありがてぇんですが、保科さまのような立派なお侍を立て続けに雇うには、あんな小銭じゃいけねぇでしょう」

「あら、貸し賃が払えないような額をふっかけては、そもそも商いが成り立たないではありませんか。あれくらいが丁度いいのです」


 千世がころころと笑う中、迅之介はただ黙って腕を組んでいた。

 安売りをするなとは言わない。迅之介も困っている人の役に立つことが嫌なわけではないのだ。もともと商売っ気などないから、ただでも助けに行きそうだ。千世の手前、それをしないだけである。

 友蔵はしきりに恐縮していた。


「月見堂の話を聞いた時、知り合いに言われたんですよ。あそこには弁天さまがいるって。お優しい弁天さまが」

「えっ?」

「お千世さん、やぶれ長屋のおこまさんってお人をご存じでしょう?」


 やぶれ長屋というのは、いつも障子のどこかが破れていると揶揄されてのことだ。こまは、貧乏子だくさんで、いつも追い回されて過ごしているような苦労人である。月見堂にもたまに品を借りに来る。


「ええ、うちのお客さまでございますよ」


 すると、友蔵はフッと目元を和らげた。


「おこまさんに話を聞いたんです。寒い冬の間、銭がなくて長く借りられなかった火鉢を、返さなくちゃいけないのはわかっていても、返してしまったら子供たちが凍えちまう。月見堂の使いが火鉢を取りに来る日まで、皆で火鉢のぬくもりを惜しんでいたそうで」

「ああ――」


 期限を過ぎても、千世は火鉢を取りに人をやらなかった。

 あの一家が凍えるのがわかっていたからだ。かといって、長く貸したのでは延滞料がかかる。


「それが、ちっとも取りに来ねぇ。でも、だからって、さすがに黙って借りちゃいけねぇ。おこまさんが月見堂へ顔を出したら、お千世さんは、うっかり期限を書き損じていたのはこちらの間違いですから、貸し賃はこのまま、今年の冬いっぱいは使ってくださっても結構です、と言ってくれたんだって」

「それは、本当に私の手違いでございますから」


 千世はこの月見堂へ来て、町の人々に少しずつ受け入れてもらえるようになった。

 だからこそ、ただの商売ではいけない。地元の人々に恩を返す、そうした商いを心がけたいと思っている。


「お千世さんにお会いして、その話が本当だってよくわかりやした」

「私は、大したことは何もしておりません」


 身に過ぎた言葉だと困惑する千世だったが、そんな千世を迅之介がじっと見ていた。千世はそちらを向かないまま告げる。


「では、あと一日。迅之介さま、お願い致します」

「うむ」


 そうしてまた迅之介と友蔵は長屋に引き上げていった。

 帳場から無言で見守っていた権六と、内向きの仕事をしていたみつ、表を掃いていた仙吉が千世のそばに来た。

 仙吉はにやにやと笑いながら言う。


「千世さまは分け隔てなくお優しいのに、迅之介さまにだけは素っ気ないですねぇ」

「色々とあるんだよ、お二人には」


 などと言う権六に、千世は口をへの字に曲げた。子供じみていると思うものの、この話題になるとついそんな顔になってしまう。


「色々なんてないのよ。素っ気ないつもりもないし」


 みつは、あらあらと言って微笑んだ。


「迅之介さまは千世さまをとても大切にされておいでですのに。この辺りでも迅之介さまが通りかかるだけで浮足立つ女子衆がたくさんおります。本当に、何がご不満やら」

「おみつ、いつからそんなに迅之介さまの肩を持つようになったの?」

「見ていてお気の毒だからでしょう」


 権六がため息を漏らしながらつぶやいた言葉を、千世は聞き流した。そうして、立ち上がってうぅん、と伸びをする。


「それにしても、破落戸って迷惑な話よねぇ」

「そうですね。ちょっとしつこいかと私も思います」


 太助は大人しい。顔が気に入らないというけれど、ごく普通の若者だ。虫の居所が悪かったが故の八つ当たりにしても長引きすぎている。


「でも、迅之介さまが追い払ったなら、もうその長屋には近づかないんじゃありやせんか?」


 仙吉も土間に放り出してあった箒を拾いながら言った。


「そうだといいけれど」


 千世はため息をつく。何かすっきりしないのだ。

 などと考えているうちに客が来た。話はそこで終わりである。


「ようこそ、月見堂へ――」

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