第8話
それからしばらくして、友蔵が太助を連れて駆けつけた。
迅之介が疾風のごとく戻った後、自分たちも何かせねばと来てくれたらしいのだが、その頃にはもうすっかり事は片づいていたのだ。
店の上り框に腰かけ、友蔵は肩を落とした。
「面目ねぇ。あっしらのいざこざに巻き込んじまって――」
千世はそんな友蔵に笑いかける。
「いいえ、悪いのはあちらであって、友蔵さんたちではございません。それに、うちはこうした商売ですから、あんなことは珍しくもないんですよ」
「そいつは危ねぇが――」
そう言いかけて、友蔵は千世の後方で座している迅之介を見遣り、軽く首を振った。
「いや、保科さまがついてりゃ平気でしょうな」
蓮二が自分も指さしてみるが、それには誰も触れない。千世はうなずく。
「痛い目も見たのですし、あの方たちが太助さんや長屋の皆さんに絡むことは当分ないかと思いますが、もし何かあればまたお力になります」
「ありがとうございやす」
太助が頭を板敷につけるほど深く頭を下げた。口下手だが、本当に感謝しているのだと伝わる。
友蔵もへへ、と笑って鼻の下を擦った。
「保科さまもまた遊びに来ておくんなさい。佐藤さまと馬がお合いになるようですし」
意外なひと言に月見堂の皆が迅之介に目を向けると、迅之介は穏やかに言う。
「佐藤殿は立派な御仁だ。また赴こう」
迅之介は偏屈というわけではないが、表情が乏しいので何を考えているのかわかりづらい。取っつきにくいと思われがちである。
佐藤なる侍は、長屋の人々からも親しまれているようだから、そんな迅之介にも合わせることができるのだろう。
「へぇ、お待ちしておりやす」
何度も何度も礼を言い、そうして二人は去った。
深川は活気に溢れ、愉快な町ではあるけれど、時折こうして困っている人もいる。そんな人の助けになれたことも、千世としては嬉しい。
家を捨てた千世が、後ろめたさを善行で埋めようとしているとも言える。
それでも、誰かの役に立つのならばいいと、千世はこの店を通して人の助けになりたいと強く思うのだった。
事件が解決した余韻に浸る中、蓮二のあくびが響いた。
「働いたら腹が減ったぜ」
「――働いた? いつのことかしら?」
みつが冷ややかな目を蓮二に向ける。そんなものはさらりと躱し、蓮二は板敷の上に横になった。
「大立ち回りしたじゃねぇか。おみつさんは中にいたから見てなかったんだろ。ま、見なくてよかったな。見てたら俺に惚れてたぜ」
今度はそんな蓮二の言葉をみつは聞き流した。相手をするだけ無駄だというところだろう。
「さて、そろそろ仕事をしませんと」
「そうだねぇ。さっきのお客さまも何も借りずに飛んで帰ってしまったから、今日は商売あがったりだ」
権六も帳場で帳面をパラパラとめくりながらぼやく。その膝には黒猫がいた。あの猫にも褒美に目刺しくらいは与えるべきだろうかと千世は苦笑した。
「まあ、そんな日もあって当然。また明日から気を引き締めましょう」
皆がそれぞれ途中になっていた仕事にかかる。
転がっていた蓮二も、走って疲れたとぼやく仙吉も、みつにかかれば仕事が割り振られ、働かされるのだった。
千世は、夕餉の買い物にでも行こうかと思った。
この騒動も、皆がいたから乗りきれたのだ。その褒美といってはなんだが、夕餉には一菜多く膳に載せてやりたい気分だった。
千世が立ち上がると、ふと迅之介が千世に顔を向けた。これといって何か千世に言いたいことがあるわけではない。ただ、よく目で千世を追っているから目が合うだけだ。
いつもはそれに気づかないふりをしてやり過ごす。けれど、今回はたくさん助けてもらったと思っているから、千世は迅之介の前に膝を突いて言った。
「迅之介さま、おかげさまで助かりました。ありがとうございます」
帳場格子の中から権六がチラチラと見てくる。きっと、笑顔が足らないと思っていることだろう。
だとしても、千世にはこれが精一杯である。どうしても、迅之介には素直になれない。
迅之介と夫婦になることを父が望んでいたからこそ、迅之介にほだされたのでは父の思惑通りであり、屈してしまったような気分になる。
それから、千世は迅之介に嫉妬している。
こんなふうに生まれ、育っていたらと羨ましく思う時がある。侮られる女子ではなく、立派な男児として生まれていれば、と。
それらは迅之介とは関わりのない事情であるとわかってはいるけれど。
可愛げなどない千世に、それでも迅之介は、ん、と軽く返事をした。その時の嬉しそうな表情に、千世はもう何も言えなかった。
いつもほとんど表情を変えない迅之介が、急にはにかんだように笑う。それは不意打ちでしかなかった。
この顔には弱い。心構えがないと、千世の方まで照れてしまう。
サッとそっぽを向いて、慌てて出かけた。顔が赤いなどと覚られたくない。
あれから――初めて会った日から、もう十年以上も経ったのだ。
それなのに、どうして迅之介は変わらないのだろう。
『――千世、こちらがおぬしの許嫁の保科迅之介殿だ』
あの幼い日、初めて引き合わされた迅之介は、綺麗な顔立ちをしているのに、まったく表情のない子供だった。瞬きすら数えるほどしかしない。
そんな子供を前にして、父だけがあれこれと互いのことを嘘臭いほどに褒めちぎっていた。平素、千世のことを褒める父ではなかったのに。
しかし、そんな父の言葉を迅之介が聞いていたようには見えなかった。ただなんとなく返事をしていた。
千世は父が見ていない隙に、ぼうっとした迅之介に言ってやった。
『それほど不服でしたら、お断りください』
『何をだ?』
『ずっと難しい顔をなさっていて、我が家との縁組が不服なご様子です』
難しい顔というよりは、仏頂面である。
こんな縁組は親同士が勝手に決めてしまっただけのこと。迅之介にしてみれば、妻など今から決められるものではないはずだ。
しかし、迅之介はようやく表情を動かしてみせた。多分、驚いている。
『不服そうに見えたとは気づかなかった』
ぼそりと零す。その顔はどこか照れたように見えた。年齢よりも幾分幼く感じられる。
その、と言いにくそうにうつむいた。
『許嫁と初めての顔合わせとあって、気が張っていたのだ。許せ』
気乗りしない様子でひたすら仏頂面に見えたのは、強張っていたからだというのか。それほど畏まらなくてはならない家柄でもないだろうに。
迅之介なりに、自分を選んでくれた父の期待に応えたい思いがあったのかもしれない。
『祝言はもっとずっと先のこと。少し力を抜いてみてはいかがですか?』
文武に優れているというが、肝心なところが抜けているような気がした。
だから千世は、半分呆れながら言ったのだ。年下の子供が偉そうに、と腹を立てるかと思えば、迅之介は、ん、と短く答えて笑った。
急に懐いた子犬のような、邪気のない笑顔に、千世の方が意表を突かれたような気分だった。
途端にこちらまで照れ臭くなって、千世はその後あまり口を利かなかったかもしれない。
――何年、何十年経っても二人はあの時のままなのだろうか。
立場も、二人を取り巻くものもすべてが変わってしまったのに、おかしな話である。
そんな千世を見て、権六は片目を瞑り、苦笑いしていた。
若いうちはあんなものかとでも言いたげに。
【 壱❖用心棒 ―了― 】
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