弐❖女の謎

第9話

 ここ深川永代寺門前仲町には〈月見堂〉という損料屋がある。


 損料屋とは、貸し賃をもらって品物を貸し出す店だ。この月見堂は品物だけでなく人手も貸すという形で商いをしている。

 損料屋は数多くあれど、この月見堂を贔屓にしてくれる客の多くはその人手をありがたがるのだった。


 損料屋月見堂の主、千世は、もとは武家娘であったという変わり種の店主である。そんな千世と共に損料屋を切り盛りする奉公人たちもそれぞれに変わってはいたのかもしれない。



 桜がすべて散り終えた晩春の頃――。

 千世は出かけている番頭の権六の分も女中のみつと客をあしらい、商いをこなしていた。

 二人だけでとなるといつも以上に忙しく感じられる。ほんの少し客が途切れた隙を見計らい、千世はみつに向かってこそりと言った。


「権六、大丈夫かしら」


 奉公人であると同時に、姉のようにもみつを頼りにしている千世であった。

 みつは控えめな顔立ちをした首を傾ける。


「そうですね。もう一時(約二時間)は経ちます。先方の気が収まらないのでしょうか?」

「おいら、ちょいとそこまで様子を見てきやしょうか?」


 三和土の上を掃いていた丁稚の仙吉までもが言う。千世は首を横に振った。


「もう少し待ちましょう」


 権六は入船町まで出かけている。それというのも、そういう仕事が入ったからだ。

 何やら、うっかりしていて約束をすっぽかしてしまったから、そこに住んでいる隠居に謝ってきてくれという依頼であった。


 謝り、その怒りを代わりに受け止めなくてはならない。穏やかな権六が怒る相手をいなすのに一番向いていると言えよう。それ故に千世は権六に頼んだのだった。

 相手先で話を聞いて宥めながら、一緒に茶を飲んでいる気もする。もしそうなら、様子を見に行くほどではない。


 千世が振り返ると、帯に挟んでいた蜻蛉玉とんぼだまが転がり落ちた。カツン、と床に落ちて転がった蜻蛉玉を仙吉が拾う。


「千世さま、また何か拾ったんで?」


 と、仙吉は穴の開いた蜻蛉玉を翳した。そら豆の粒より少し小さいくらいで、藍と白とが混ざり合っている。


「だって、綺麗だし、落とした人が見つかるかもしれないし――」


 店の前に落ちていたのだ。道に転がしておくのは忍びなく、つい帯に挟んで持っている。

 それを仙吉はキキキと笑った。


「烏みてぇですね。千世さまみてぇに溜め込み癖があったら長屋には住めやせん。寝るところもなくなりやす。蔵があってよござんしたねぇ」

「もう、そんなにひどくないわよ」


 ムッとして言い返すが、みつは加勢してくれなかった。千世ならその蔵でさえいっぱいにしてしまうと思うのか。


「このままだと落として失くしちまいやす。紐を通しておけばいいんじゃありやせんか?」

「そうね。きっと根付けにでもついていたのが切れたんでしょうし」


 そうこうしていると、新たな客が暖簾を潜って入ってきた。


「ようこそ、いらっしゃいませ」


 声を上げたのとほぼ同時に千世が笑みを作ると、客の女はそんな千世を見て、僅かに眉根を寄せた。若い娘だと侮る仕草である。

 それがわかったので、千世は前に出ず、ここはみつに任せることにした。

 みつもすぐにそれを感じたようだ。笑顔を浮かべつつも気を遣いながら女に近づく。


「お客さま、何をお求めでしょうか?」


 女は、三十路に入った頃合いである。肌の艶は失われつつあるものの、目や仕草に色香が感じ取れる。ほんのりと開いた唇には上等の紅が塗られ、簪と櫛は象牙や鼈甲という豪奢なもの。着物も長屋の女房たちが着られるようなものではない。

 身なりからして、どこぞの大店の内儀ではないかと思われた。


 裕福な家の者が損料屋へ来ることは少ないが、買ってまで欲しくもないものならば借りて済ませることもある。まずは何を求めているのかを聞いてからだ。

 女は視線をスッと下げ、そうして言った。


「あんまり目立たない、地味な着物と簪を借りたいんだよ。ほら、あたしのはどれも上等すぎて、場によっては妬まれちまうから。地味な着物なんて持ってやしないし、欲しくもないんだけど」


 女たちの集まりに出る機会があるのかもしれない。そうした時、後で、あそこの内儀は品がない、などと陰口を叩かれることもあるだろう。落ち着いた色合いの着物でも、仕立てや生地がよければ、それが品となって現れるはずだが、しかし、この女は地味な着物を着こなせるだろうか。


 しゃんと背筋を伸ばしていれば着物も映えよう。けれど、この女はどこか蓮っ葉な感じが否めない。裕福そうではあるのに、育ちがいいようには見えなかった。


「では、見繕って参りますので、少々お待ちくださいませ」


 みつはそう言って、蔵がある裏手の方へ下がった。いつもならば千世がその間を取り持つのだが、この女は千世のような娘を嫌っていると見て取れる。下手に触らず、待たせておいた方がいい。


 その間、ありがたいことに他の客が来て千世はそちらの相手をする。けれど、客と話しながらも、その女のことが気になっていた。

 どうにもちぐはぐなのである。何かが気になる、そんな女だった。


 みつがいくつかの着物と簪を持って戻ってきた。女はそれを手にとってはあれやこれやと注文をつけている。みつはいつも的確に客の要望に答えるけれど、それにしては女の顔が浮かなかった。時折、女の声がキン、と千世の耳にも癇性に響く。


「そうじゃないんだよ。ねえ、あんた、あたしが言ってるのは――」


 それでも、みつは静かにうなずきながら女の話を聞き、話はまとまったようだ。女は借り受けた着物を風呂敷で包み、それを抱えて出ていった。


 その女が去った後、みつは軽く嘆息する。仙吉も気づけば外を掃きに行ったのか、中にいなかった。仙吉のことだから、厄介そうな客と関わりたくなかったに違いない。


 千世が相手をしていた方の客は、損料の手頃な煙草盆を借り受けた。その客を見送ってから、千世はみつに言う。


「あのお客さま、なかなか気に入るものがなかったみたいね」


 顔にこそ出さないものの、みつも困ってはいたのだろう。頬に手を当て、苦笑した。


「見たところ、いい暮らしをされているお内儀さんのようでしたから、地味といっても落ち着いた仕立てのいい着物と簪をご用意したんですけど、それじゃあないと仰られて。いい着物ならいくらでも着られる、そうじゃなくて、もっと貧乏人が着るようなのがいいんだって仰るんです。簪もそれに合わせた安価なものをお見せしたら、それでいいと――」


 ああした派手好みの女が、みすぼらしい恰好を好んでしたがるようには思えなかった。むしろ、女たちが集まるような席ならば、誰にも見劣りしないように着飾るのではないだろうか。


 女が言うところの、貧乏人が着るような着物ならば、損料も安い。少し借りて着るくらいなら、安い着物でよく、いい着物なら買って手元に置くということだろうか。


「変わっているわねぇ」


 思わず千世がそう零すと、みつもうなずいた。


「いろんなお客さまがいらっしゃいますこと」


 そんなことがあったすぐ後に、ようやく権六は戻ってきた。

 痩身矮躯の番頭は、肩に雀を載せている。何故か権六はやたらと生き物に好かれるたちだ。優しい気質がそうさせるのかもしれない。


「遅くなって申し訳ございません。いえ、ね、謝りに行ったところ、そのご隠居さんがおかんむりだったんで、気の済むまでお話を聞こうと思ったんですが、これ、途中からご隠居さんの苦労話になりまして――。まあ、要するに話し相手が欲しかったんですなぁ」

「まあ――」


 その様子が目に浮かぶようである。権六は頭を掻きつつ、照れ笑う。


「最後には来てくれてありがとうと仰ってくだすって、美味しい羊羹まで馳走になってしまいました」

「えぇっ、それならおいらが行きやしたのに」


 表から話を聞いていたらしき仙吉が、箒を手に飛び込んでくる。みつは調子のいい仙吉に呆れ顔だ


「仙吉じゃあ、ご隠居さんを余計に怒らせただけでしょう。さ、仕事仕事。終わったらお八つにかりんとうをあげるから」

「ふえぇい」


 不貞腐れた声を上げる仙吉だったが、かりんとうはほしいらしい。表を掃きに戻った。

千世と権六は顔を見合わせて笑う。そんなのどかな昼下がりであった。

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