第10話

 その二日後のこと、月見堂にはまたしても仕立てのよい着物を着た客がやってきた。

 ただし、今度は男である。権六よりは若いだろうか。小男ではあるが醜いということはなく、身だしなみは整えられていた。


「いらっしゃいませ、ようこそ月見堂へ。何をお求めでしょうか?」


 千世がにこやかに迎え入れると、客人は少々困ったように見えた。これはよくあることだ。

 若い娘には言いにくいのか、本当にこの店でいいのかという不安を抱えているかのどちらかだ。


 男は、忙しなく辺りを見回し、飛び込むようにして店の中に入った。それから、少しばかり落ち着きのない目をして千世に問う。


「この店は人手を貸してくれるんだね?」


 品物を借りに来たわけではない。何か手を借りたいことがあるのだ。人伝に噂を聞き、月見堂へやってきたらしい。


「ええ、ご用件に合わせてお貸し致します。詳しくお話しして頂けますか?」


 他の客がいなかったせいか奥へ上がらず、男は上り框に腰を据えた。ここにあまり長居をしたくないのだと、その様子から見て取れる。

 男は口早に語り出す。


「あたしは冬木町の扇屋〈紅梅屋こうばいや〉の番頭で、孫次郎まごじろうという者だ」

「ああ、紅梅屋さんには美しい扇が目白押しだとよく耳にします」


 世辞を言ったわけではなく、その名は本当によく聞く。

 この深川の売れっ妓芸者も紅梅屋の扇を持っていたはずだ。あそこの店の扇はどれも綺麗なだけではなく、よく手に馴染むと褒めていた。


 孫次郎は眉を下げながら口元だけで笑ってみせた。


「紅梅屋の主は、あたしの兄、吉右衛門きちえもんで、店が繁盛しているのも、その兄の手腕によるところだ。あたしじゃあ、ああは行かない」


 兄弟で共に商いをしていれば、互いへの不満は出るところが、孫次郎はその兄を大層慕っているように見えた。幼少の頃から可愛がってくれていたのかもしれない。


 孫次郎の話からはなかなか先が見えなかった。孫次郎は後ろを見遣り、またきょろきょろと忙しなく頭を動かすと、ようやく本題に入る。


「それで、その兄なんだが、少し前に後添えをもらったんだよ。兄嫁は随分前に亡くなってしまっているから、まあそれ自体はいいけれど、その相手が――」


 そこで孫次郎は兄を褒めていた時とは別人のようにまなじりをつり上げた。


「女郎上がりのろくでもない女だ。どう見ても金と身代目当て。奉公人に威張り散らすだけで商いのことなんて覚えようともしない。毎日浮かれて遊び暮らしているようなのが兄の後添えだとは情けない限りだが、兄が迎え入れた以上はないがしろにもできなくてね」


 よほど腹に据えかねているのだろう。それが言葉尻に表れていた。

 合いの手を入れるにも難しい話題である。


「それは、大変でございますねぇ」


 当たり障りなく答える千世に、孫次郎は深々と息を吐いた。


「昔から出来のいい兄だったのに、なんでまた、よりによってあんな女を選んだやら。まあ、女郎だけあって、生真面目な兄をたぶらかすなんて容易いことだったんだろうが」


 手短に話したがっていると感じたはずが、短くならない。いつまでも兄の後妻に対する愚痴が続くのかと思えば、孫次郎はなんとかして己を抑えた。


 きっと奉公人たちの手前、兄の後妻を悪くは言わず、兄のために間に入って取りなしていたのだろう。その鬱憤が、関わりのない千世たちの前では漏れてしまう。

 千世はそんな孫次郎が少々不憫にもなった。


 孫次郎は、一度歯を食いしばり、それを解いてからつぶやく。


「その後添えなんだが、店のことなんてそっちのけで、何せよく出かけるんだ。兄は主として働き詰めで構ってやれないからと言って甘やかすが、あたしは出かけて何をしているのかを知りたいんだよ。きっと、女郎だった頃からの間夫まぶでもいるんじゃあないかって思えてね。もしそうだとしたら、そんな女を落籍ひかしてやった上に今も贅沢三昧で養っている兄がいい面の皮じゃないか」

「そのお内儀さんのことを調べてほしい、とそういったわけでございますね?」


 千世が確かめると、孫次郎は苦々しい顔でうなずいた。

 調べたとして、その事実を吉右衛門に示し、それでその女に愛想を尽かすかどうかまではわからない。それでも、孫次郎としては兄の目を覚まさせたいのだろう。


 夫婦の情ばかりは、どんなに兄弟の絆が深くあっても割り込めない。孫次郎としては、身を粉にして共に働いてきた兄のことだからこそ悔しく、切ないのだろう。


「そうだ。兄の後妻は、大年増で名をおけいという」

「お顔を一度拝見しませんことには後をつけることもできませんので、一度紅梅屋さんの方へお客を装って参りましょうか」


 そう答えた千世の言葉に、孫次郎は大店を切り盛りする番頭というよりもただの身内に戻ったような表情を見せた。心底ほっとしたのだろう。


「そう言うからには、受けてくれるんだね?」

「ええ、お客さまのご要望でございますから。もちろん、このことは他言致しません」


 孫次郎は何度もうなずいた。


「ああ、頼む。金はいくらかかってもいい」


 その女をのさばらせておいたら身代が傾くのだから、それくらいの金は惜しくないと思っているのかもしれない。


「そうですね、まずは百六十文。それで様子を見ましょう」


 そうして、商談は成り立った。

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