第40話

 破落戸たちは女二人を囲み、ときの腕をつかんで引っ張った。そうして、ときを連れた男一人だけ輪から外れる。


 ときの怯えた声がした。しかし男は、弱々しく抗うときの頬を叩く。甲高く鳴った音に千世も身を竦めた。


「暴れるんじゃねぇっ」


 その恫喝に臆したかと思いきや、ときは必死で男の手に噛みついた。男はギャッと声を上げ、ときの手を放す。


「このアマ――」


 ときは転がるようにして逃げようともがいた。その襟首を再びつかもうと男が手を伸ばす。千世は、すぐそこで繰り広げられていることを見守るどころか、気づけば体が動いていた。破落戸に向かい、体当たりを食らわせる。


 本来であれば、ただの女がぶつかった程度ではびくともしなかっただろう。けれど、完全なる不意打ちだ。構えていない方からぶつかられ、男は見事に転んだ。


「おときさん、走ってっ」


 千世はときに向かって叫んだ。もう、今さらだ。見つかった以上、人目につくところまで逃げなければならない。


 ときは千世の出現に驚いていたけれど、もう声も出ない様子だった。ただうなずき、そうして走る。千世も精一杯駆け出した。


 恵のことも見捨ててはいけないけれど、今の千世には何もできない。助けが来るまで耐えてほしい。

 善人ではないし、自業自得ではあるけれど、かといってあまりに惨い仕打ちはいけない。


 男は起き上がり、吠え猛りながら千世に向かって突進してきた。その激しい声に、千世の体が竦みそうになる。

 男の方を振り返ってしまったから、千世は足元が疎かになって段差につまずいた。あっと声を上げ、よろけて手を突いてしまう。


 この時、千世の帯に挟んであった平たい石が転がり落ちた。特別な価値はない、ただの石である。こんなものに価値を見出すのは千世だけだ。

 それでも、千世にとってこの石はお守りである。割れずに済んでほっとしたのも束の間だった。


「お前、あの損料屋の――」


 ここへ来て、男は改めて千世の顔を見たのだ。男はいつかの屈辱を思い出したらしく、顔を歪めた。


「出しゃばりやがって」


 ぞっとするような、低い声だった。

 へたり込んだまま、千世は石に手を伸ばした。そんなものに構っている時ではないはずなのに、拾わずにはいられない。しかし、男は千世が伸ばした手を踏みつけ、嫌な嘲笑をくれた。それは、獲物をいたぶる獣のような目だ。


「あん時は偉そうにしてやがったのに、一人になったらただの小娘じゃねぇか。情けねぇなぁ」


 下駄の歯に踏みにじられ、手が砕けそうな痛みに襲われる。それでも呻き声は上げたくなかった。

 今ここで男に向け、助けてください、などと懇願したくはない。栄助に金で雇われ、他人を陥れることでも平気でするような下衆に下げる頭はない。


 千世はキッと男を睨みつけた。

 それがよくないのはわかっている。それでも、屈したくなかった。


「まだそういう目をするとは、助けが来るとでも思ってやがるのかっ」


 男がさらに手を振りかぶった。千世はそれを、目を閉じることなく見据えていた。

 團十郎がなけなしの気概で男にぶつかったが、蹴り倒されてきゃぅん、と声を上げた。尻尾を巻いて怯えている。團十郎も、犬だからといって戦えると思ってほしくないだろう。


 團十郎という勇ましい名は、茶色が似合うというだけで名づけられたのかもしれない。

 それでも、團十郎のおかげで千世の手から男の下駄がどかされた。


「なんだこの駄犬はっ」

「やめてっ」


 千世はさらに團十郎を蹴ろうとした男の裾を、無事な手でとっさにつかむ。

 しかし、そんなことをするから、男の注意を引いてしまうのだ。冷たい目に射竦められ、千世は後悔したが遅い。


 男の口元がゆっくりと歪んでいった。

 その時――。


 境内の玉砂利を踏み締める足音を聞いた。

 日が暮れかけた境内で、きらりと光るものがある。それが抜身の刀であると気づいたのは、男の腕から鮮血が散った時であった。


 男の叫びが耳をつんざく。千世はその展開についていけず、呆然としてしまった。

 男の腕は縦に長く斬り裂かれたものの、切断されるようなことはなかった。


 手心を加えたと見える。そうでなければ、この男は瞬時にあの世へ行っていたはずだ。それほどに、力量が違う。


 男は驚き、怯え、傷口を手で押さえてひぃひぃと声を上げながら仲間を捨てて自分だけ境内から逃げ去った。誰もその背を追わない。


 その助っ人の小袖の小紋柄の背中を眺めつつ、千世はこれがうつつの出来事なのかを考えた。考えている間も踏まれた手が痛い。それならば、やはりこれは現なのだろう。

 抜身を手にした迅之介から気迫が抜けていくように、千世の全身からも力が抜けていく。


「千世っ」


 迅之介は刀を収め、千世の肩に手を添えて屈んだ。夕日が迅之介の顔に影を作り、表情がよく見えなかったけれど、声から心配が伝わった。

 安堵からなのか、千世の目から涙が零れそうになる。


 しかし、今、腑抜けている場合ではない。恵たちを放ってしまっている。


「は、迅之介さま、奥で紅梅屋のお内儀さんがひどい目に遭わされています。どうかお助けくださいっ」


 迅之介は、うむ、とうなずくと千世を気にしながらも奥へ急いだ。

 そうしていると、今度は蓮二も駆けつけた。


「蓮二っ」

「おお? 何座ってんだ?」

「今起きるわよ。迅之介さまを連れてきてくれたのは、蓮二?」


 すると、蓮二はがりがりと頭を掻いた。


「迅之介さん? 知らねぇよ。俺は権六さんに呼ばれて、それで慌ててきたんだ。途中でおときさんには会ったが、急ぐからほとんど喋ってねぇし」

「ねえ、迅之介さまの助太刀をお願い。奥で戦われているから」

「迅之介さんなら心配ねぇだろうが、まあいいや」


 そう言って、蓮二は奥へ駆けていった。恵の甲高い叫び声が聞こえてくる。あの声を聞く限りでは無事なようだ。


 千世がすっかり怯えている團十郎の背中を撫でてやっていると、迅之介が戻ってきた。そうして、先ほどの激しさからは打って変わって穏やかに千世に目を向ける。


「千世、お内儀なら無事だ」

「ありがとうございます」


 迅之介は千世に手を差し出して立たせようとする。とっさに負傷した右手を出してしまった。下駄の歯に踏まれたところが紫色になって腫れていた。それを見た途端、迅之介の顔が強張る。


「この怪我は――」

「あ、いえ、大したことはございません」


 失敗したとばかりに千世は手を引っ込め、手を借りずに立ち上がる。両手を後ろに隠すと、迅之介が怒ったような厳しい顔をして千世の袖を引いた。


「もう一度見せてみろ」


 有無を言わせぬ強い口調で、千世はとっさに逆らえなかった。千世の踏みにじられた右手を痛ましい目をしながら眺めたかと思うと、今度は左手を出せと言った。


「えっ」

「左手も怪我をしているのではないのか」

「いえ、左は無事です」

「それならば出してみろ」


 千世が従わないと見るなり、迅之介は千世の左手首をつかんで引っ張った。


 まだ左手に握ったままでいた石を見られた途端に千世はみっともないくらい赤面したけれど、これはただの石だ。どうか迅之介が何も気づきませんようにと祈った。

 迅之介は薄暗くなった境内で千世の握っている石を見てぽつりと言った。


「この石を投げつけるつもりだったのか?」


 まあそう思われるだろう。誰だってこの状況で千世が石を握っていたらそう思う。

 しかし、千世はこの石を投げるつもりなど毛頭なかった。


「え、ええ、まあ――」


 曖昧に言うと、迅之介は急に、くすりと笑った。


「餅のような形の石だな」

「どう見たって猫でしょうっ?」


 千世がびっくりして言い返すと、迅之介はまたくすくすと笑った。

 だから千世はどうしようもなく恥ずかしくて、赤くなっていた。きっと暗くて顔色まではよく見えないはずだと言い聞かせて自分を慰める。


「そ、そんなことよりも、お内儀さんのところへ行かなくては」


 迅之介としなくてはならない話はあるけれど、それはこの後のことだ。

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