第39話

 権六が頼みとした團十郎の鼻は確かだったと千世が納得できたのは、しばらく辺りをうろついた後だった。


 日が沈みかけ、辺りが茜色に染まる境内に女たちの人影が見えた。少し離れたところから團十郎は黒々とした目を輝かせて権六を見上げる。


「よしよし、お前さんはさすがだよ」


 得意げに尻尾を振り回す團十郎の頭を優しく撫で、権六は千世に目配せした。千世はうなずいて返す。

 権六の袖を引き、千世は境内に入った。二人と一匹が息を潜める。それというのも、女が二人いるだけではなかったからだ。


 あれは太助に絡んでいた破落戸たちのように見える。

 そして、破落戸仲間だけでなく、一見して堅気の男が一人混じっていた。


 あれは仕着せだ。どこも似たような縞の着物が多いから店までは判別できないけれど、男が店者であることだけはわかる。


 背は低く、破落戸たちとつき合いがあるようには見えない。背中だけではなんとも言えないが、千世はあの背中を知っているように思えた。


 境内では恵とときがついに破落戸たちに囲まれた。ときは状況がわからず、ただ怯えているようだ。恵は持ち前の気性で一歩も引かない。

 そんな恵に向って、お仕着せの小男が肩を揺らしながら言った。


「久しぶりだねぇ、お恵」


 やはり、千世はあの声を知っていた。聞き覚えがある。けれど、声の調子が激情を抑えて震えているせいでわかりづらい。


 孫次郎でないことだけははっきりとした。

 千世はあの声をどこで聞いたのか、木の陰に隠れながら思い出そうとする。


「あ、あんた――」

「昔の男を覚えていてくれたとは、ありがたい限りだねぇ。嬉しくて涙が出るよ」


 小男はくつくつと笑った。


「あたしが所帯を持つのを許されるまで待つって、本当に好きなのはあたしだけだって、いつもささやいてくれていたねぇ。遊女にまことなんざないことを、あたしはお前さんに教えてもらったよ。今だって、紅梅屋の主はお前さんによくしてくれてるってのに、とんだ疫病神だ」


 言葉の節々に粘つくような憎悪を感じる。関わりのない千世でさえ背筋が寒くなった。

 男の正面にいると、ときはさぞ恐ろしいだろう。


「あたしはね、お前さんがあたしを裏切ってから、悔しくて悔しくて、どうしてもひと泡噴かせてやりたくなったのさ。それで、お前さんが後妻に収まった紅梅屋のことを調べに調べたんだよ。何かないかと思ってねぇ」


 恵の白粉でごまかされた顔は、きっとひどく青ざめていたことだろう。ただ無言で立ち尽くしている。

 小男は楽しげに語り出した。


「十五年前の十五夜の夜、主の吉右衛門の子がかどわかされ、川に流されたそうじゃないか。手堅い商売を続ける紅梅屋を妬んだ商売敵が、自分のところの奉公人に金を握らせてそれをさせたって噂になったが、そんな奉公人は捕まらなかったし、証拠らしい証拠は出なかった。まあ、そんな店は悪評が立ってすぐに潰れ、紅梅屋は憐れだとますます繁盛したんだから皮肉なものだ。ああ、今朝、川から引き揚げられた男がその子攫いの奉公人かもしれないがねぇ」


 恵が息を呑む音が聞こえたような気がした。

 そんな恵の様子を見て、小男は笑いを堪えながら得意げに続ける。


「あたしはね、時折お前さんを見に行っていた。行けない時は、ここにいる皆に頼んで見てきてもらった。お前さん、蛤町の狸長屋をやたらと気にしていたそうじゃないか。ここに何があるのか、あたしも探ってみることにしたんだよ。復讐をやり遂げるためには金が要るから、あたしは賭場にも出入りするようになってね。それでこんな頼りになる仲間もできたことだから、長屋の辺りで張ってもらったんだよ」


 太助は顔が気に入らないと、破落戸に粘着された。それからも執拗に絡まれ続けた。

 それはもしかすると、長屋の周りをうろついても不自然でない理由として、太助を使っただけではないのか。破落戸たちの目的は長屋を見張ることであったと。


「途中、長屋の連中が助っ人を雇ったり余計なことをして大変だったが、まあいい。あたしの読み通りなら、おときさんが紅梅屋吉右衛門の娘だね?」

「な、何を――っ」


 恵の狼狽えた声がした。ときは事態がまるで呑み込めていないのだろう。何も言わない。

 小男は甲高く声を上げて笑う。どうしようもなく耳障りな声だ。


「ただの店者が、いくら主に命じられたからといって赤ん坊を川に流すなんて惨いこと、そうそうできやしないさ。産着だけ見つかるように川縁に引っかけて、赤ん坊は長屋に捨ててきた。そうすれば、育つかどうかは別としても、己が手をかけたっていう咎からは逃れられるからねぇ。どうだい? どこか違うところがあるかい?」


 店者であったが身持ちを崩した茂助は、逃げるように深川を去ったのだ。

 その時、ときが震える声で問うた。


「ば、番頭さん、それは本当なんですか? あたしは、その紅梅屋ってお店の――」


 番頭。

 そのひと言で、千世も権六もあの小男の声に思い至った。


「ぶ、文芝堂のっ」


 権六が千世にだけ聞こえるような小声でささやく。千世もうなずいた。


 文芝堂の番頭、栄助だ。

 もし、ときの身元がよくないものであった場合、縁談が流れてしまうから探らないでほしいと千世に言ったのは、恵への復讐を台無しにされたくなかったからだ。


 破落戸を迅之介に退けられ、栄助は月見堂という店のことを知った。苦々しく思ったはずが、逆に月見堂を利用することにしたのかもしれない。


 栄助はときに向かって小さくため息をついた。


「おときさん、うちの若旦那はねぇ、そりゃあ世間知らずなんだよ。あたしが色々と吹き込めば、すぐにその気になる。あたしがお前さんのことを褒めそやしたら、若旦那はもうおときさんほどいい娘はいないって思い込んだよ。本当はね、おときさんをうちの若旦那と娶せて、そうしてから紅梅屋さんとの繋がりを表に出し、お恵を紅梅屋から追い出してやろうと思ったんだけれど、それをする前にお恵が動いてしまったから、仕方がない。少々筋書きを変えさせてもらったよ」


 その変わってしまった筋書きの中に、茂助を川へ突き飛ばすと書き込んだのだ。


「あ、あんたってやつは――っ」


 精一杯の力を込めて恵は吐き捨てるも、栄助はその恨みのこもった目を心地よく眺めているだけなのではないかと思えた。背中にゆとりが感じられる。


「身から出た錆というやつじゃあないのか。大体、お前さんこそ、おときさんが紅梅屋に戻ったら、後妻のお前さんじゃ分が悪い。大方、おときさんを岡場所にでも沈めようとしたんじゃあないのかい?」


 ときは力が抜けたのか、その場にへたり込んだ。

 そんなときに栄助は冷ややかな声をかける。


「お前さんもついてないねぇ。大店に生まれたってぇのに、貧乏長屋に捨てられて、その上、祝言を前にして全部台無しになるんだから。若旦那や紅梅屋に口づけ(告げ口)されてもいけないし、すぐに出てこられないよう、やっぱり岡場所に入れておくしかないかねぇ。まあ、命を取られるよりはましだろう?」


 勝手な言い分だ。ときは何も悪くない。

 栄助は自らの恨みを晴らすためにときのことまで踏みにじろうとする。


 栄助は本気で好いた恵に裏切られ、傷ついたのだろう。それは憐れなことではある。

 けれど、そこから道を踏み外したのは己のせいでしかない。

 人様を巻き込んでいいはずもないのだ。


「さ、おときさんを岡場所へ連れていっておくれ。真っ当な見世だと買い取ってくれないかもしれないから、見世は選ばなくていい。売った金はお前さんたちの小遣いにするといいよ」


 栄助は破落戸たちにそんなことを言った。破落戸たちは笑い声を立てる。


「おお、そいつはありがてぇ。えいさんは友を大事にしてくれて、本当にいいお人だなぁ」

「その上、切れ者だ。あの店は栄さんがいてこその店だから、その金をちっとばかし俺たちに配ったところで構わねぇよなぁ」


 どうやら、店の金を使って破落戸たちを顎で使っているようだ。

 普段の穏やかな顔しか知らなければ、とてもそんなことをするとは思えない。誰も疑っていないのではないだろうか。


「まあ、そういうことだ。お恵は――両手足を折ってからあたしに寄越しておくれ」

「おお、こわっ」


 と、破落戸たちはふざけて笑った。


 ――ずっと、ここに隠れて一部始終を見ていたけれど、この先はただ見ているだけではいけない。放っておいたら大変なことになる。


 しかし、千世と権六の二人では出ていったところで捕まるだけだ。團十郎も一匹では抑え込まれてしまうだろう。

 誰か、助っ人を呼んでこなければいけない。ここから確実に呼べるのは、狸長屋にいる蓮二と佐藤だろう。


「権六、蓮二か佐藤さま――助けを呼んできて。破落戸たちも今はこっちにいるから長屋は少ないはずよ」


 その途端に権六は千世の袖をつかんだ。


「千世さま、一旦ここを離れましょう」

「それじゃあおときさんがどこに連れ去られたかわからなくなってしまうから、私は見張っていなくちゃ。権六、急いで」

「し、しかしですな――」

「勝ち目もないのに飛び出して行ったりしないわ。大人しく見張っているから、早く」


 権六はどうしても千世を一人にはしたくない様子だった。心配してくれるのはわかるけれど、今、危機にさらされているのはときであり、恵だ。千世ではない。

 困惑しながらも、権六は小声で言った。


「團十郎、千世さまを頼む。助っ人を連れてすぐに戻るからね」


 團十郎は、任せておけというふうではなかった。むしろ、そんなことを言われても困るとばかりに切なく鼻を鳴らした。

 なるほど、番犬にはならない。


「千世さま、くれぐれもお気をつけて。無茶をなさいませんように」

「ええ、待ってるわ。お願いね」


 権六は足音を立てぬように、それでいて急ぎつつ境内を抜けていく。

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