第41話

 千世が社の前まで行くと迅之介もついてきた。

 破落戸の何人かが気を失って倒れている。髷を切られ灯篭にくくりつけられている者もいる。縄ではなく、それぞれの帯で縛りつけられているので、着流しの前がだらしなく開いていた。蓮二の仕業だろう。


 栄助も一緒に木にくくりつけてあった。どちらの顔も人相がわからないほどに腫れ上がっている。ああいう顔になったのは、多分暴れたからだ。


 恵は、社の前でへたり込んでいた。見たところ、手も足も折られてはいない。

 ただし、着物の袖は破れ、結った髪は崩れ、みすぼらしくなっていた。あれでは貸している着物の損料の差額は返せない。


 千世はその項垂れた首に向けて言った。


「正直に話して、おときさんを実の娘のように可愛がったら、紅梅屋さんもお恵さんを今以上に大切にしてくれたのではないでしょうか」


 もし、ときを家に迎え入れたら、後妻はいつか追い出されると恐れたのか。

 不安が膨らんで、そうして抱えきれなくなった。

 その結果がこれだ。そのせいでかえって失うものもある。


 恵はへたり込んだまま千世を睨みつけた。その目の強さは千世もたじろぐほどであった。


「あんたなんかに何がわかるってんだいっ。あたしはね、二度と惨めな暮らしには戻りたくないんだ。あたしは――」


 岡場所の遊女として過ごしたのだ。その毎日は悲惨なもだっただろう。

 やっと手に入れた、満たされた暮らしが崩れる。それがどんなに恐ろしかったか知れない。


 それでも、だからといってときの人生を踏みにじっていいことにはならない。それだけはしてはならなかった。


「自分が不幸だからといって、それが人を陥れていい理由にはなりません。幸せは、惨いやり方で求めると逃げていくものかもしれませんね。お恵さんを見ていると、そんな気がしてしまいます」


 怒りよりも憐みに近い気持ちで千世はこれを言った。それは恵にとってひどく嫌な言葉であったのだろう。


「うるさいっ、うるさいんだよっ」


 恵の叫びに胸が痛くなる。

 誰だって、こんなふうにはなりたくない。もちろん、恵だってこんな自分にはなりたくなかっただろう。


 すると、迅之介が千世の腕を引いた。


「御用聞きを呼んでこよう。蓮二、見張っておれ」

「今に来るでしょうよ。権六さんが呼びに行ったはずですから」

「では、千世の手当てをせねばならぬので帰る。後を頼む」


 へいへい、と蓮二は片眉を跳ね上げて軽く返事をした。

 迅之介が千世をここから遠ざけようとしてくれている気がした。千世は恵や栄助たちのことが気になり振り返ろうとしたけれど、迅之介は千世を放さずに歩き出した。

 引きずられるようにして歩きながら千世は問いかける。


「あの、誰が迅之介さまを呼んでくだすったのですか?」

「おときだ。狸長屋に行く途中で出くわした」

「長屋に?」


 迅之介は狸長屋の近くに来ていたのか。番町にある保科の屋敷にいるものとばかり思っていた。

 すると、迅之介は言いにくそうに、千世の目を見ずに言った。


「佐藤殿のところへは度々出向いていた」

「保科のお屋敷からですか?」


 月見堂には戻らなかったのに、佐藤のところへは通っていたらしい。番町から通うには遠いが、駕籠でも使ったのだろうか。

 そうしたら、迅之介はさらに言いにくそうに答えた。


「実は、保科の家には戻っておらん」

「えっ?」


 それならば、ここ数日迅之介はどこにいたというのだろう。


「あれから、おしな殿の仕舞屋しもたやにいた」

「おしなさんのっ? それは一体――」


 千世は口をあんぐりと開けてしまった。迅之介はずっと深川にいたということになる。

 おかげで助かったけれど、迅之介なりに考えて月見堂を出ていったのだ。それをまたこうして並んで歩いている今があるのはよくないことなのかもしれない。


 けれど、千世はこうしてまた迅之介に会えて、正直な気持ちを言うならば嬉しかった。心細さが嘘のように消えている。

 それがどういう意味を持つのか、深く考えてはいけないと歯止めをかけてしまうけれど。


「そうでしたか――。おかげで助かりました。ありがとうございます」


 どこか他人行儀だと、言ってから思った。

 実際のところ他人なのだ。これくらいが丁度いいのかもしれない。

 そんなふうにも思うくせに、それを寂しいとも思うわがままな自分がいる。


 少し離れて過ごしたせいか、以前よりもその思いが強くなった。結局のところ、千世は迅之介に甘えきっている。どんなふうに言っても、いつも見守ってくれている相手だった。

 家を出て自立したつもりでいた千世は、今もどうしようもなく子供だ。


 そんな千世に、迅之介はぽつりと零す。


「千世が俺を煙たく思うのなら、大人しく別の道を歩むべきかとは思ったのだが」


 煙たく――そういうつもりはない。

 千世の勝手で迅之介の将来を潰してしまいたくないだけだ。


 けれど、そんなふうに受け取られてしまうのは、千世の態度がいけないからだとわかっている。ついあんな口調になってしまうのは、嫌いだからではない。

 迅之介はうつむいた千世に向け、それでも続けた。


「離れていると落ち着かん。事実、こうして危ない目にも遭った。やはり、用心棒は必要だろう」

「――迅之介さまはどうしてそこまでしてくださるのですか?」


 勝手に縁談を壊し、町人になったような娘をそこまで大事にしてくれるのか。

 恨まれこそすれ、想われる理由がわからない。


 すると、迅之介は困ったように笑った。


「どうしてとは、俺が知りたい。そんなことはわからん」

「それは――」


 その返しに千世も困った。戸惑う千世に、迅之介は柔らかな目を向ける。


「まあ、仙吉を雇い入れるようなお前だからというのもある」


 意外な名が出た。あの狐顔を思い浮かべ、千世は目を瞬かせる。


「仙吉を、でございますか?」


 仙吉は行く当てがない子だ。それを雇い入れるのはそんなにも特別なことではない。

 しかし、迅之助は言う。


「仙吉は居場所のない子供だ。それから、逃げ出してきたのだから、厄介事に巻き込まれる心配もあった。それをお前は受け入れた。困っている子供を放り出せないお前を、俺が放り出せるわけがなかろう?」

「迅之介さまに放り出されるようなことをしているのは私です。誰も迅之介さまのことを責めたりは致しません」


 むしろ、あんな跳ねっ返りの許嫁にされて迷惑したはずだと周りが同情するだろう。

 それとも、迅之介の度量を見誤っているのは千世の方なのか。

 ふと、迅之介の指に僅かに力が籠る。


「この数日、俺がいなくても千世は変わりなく過ごせたか?」


 その問いかけに、千世は黙った。

 迅之介はゆっくりと千世の顔を見遣る。その目には期待が、もしかするとあったのかもしれない。


「おしな殿に言われたのだ。俺は引くことも覚えなくてはならんと」

「ひ、引くとは――」

「押して駄目な時は引くのがいいから、しばらくここにいてみろと言う。そうしたら、いくら千世でも思うところはあるだろうからと」


 そんなことを言われていたとは。

 迅之介はいつの間にしなまで味方につけていたのだ。本当に侮れない。

 しかし、迅之介はふと、道端の子犬に向けるような優しい顔をした。


「おしな殿は千世のことを案じてくれている。だから俺の味方でもあるのだ。千世は深川でおしな殿に出会えたからこそ、今でも笑って過ごせているのだろう。俺もおしな殿には感謝している」


 家族を亡くし、そこから一人で立ち直ったような顔をしつつも、そんな千世のことを周囲の人々が見守り、支えていてくれるから今がある。

 その人々の中には迅之介も含まれているのだと、本当はわかっているのに。


「迅之介さま」

「うん?」


 呼びかけると、迅之介は少ない口数以上に目で語りかけてきた。


「月見堂へ戻られますか?」


 たったそれだけ言うのに、千世は思いきり腹に力を込めていた。それを察したかのように、迅之介は微笑した。


「ああ、戻ろう。引くのには疲れた」


 ――なんと返したらいいのか、千世は言葉を探せなかった。

 ただ、嬉しい気持ちを隠すのに必死だった。それを隠すべきではないのだと、そんなことには気づかなかったのだ。


 忘れていたわけではないが、尻尾を巻いた團十郎がそんな二人の後ろをついて歩いた。

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