深川損料屋月見堂 ~片見月~
五十鈴りく
壱❖用心棒
第1話
それは、蝉の声がまとわりつく暑い夏の日だった。
額に滲む汗を時折小さな手の甲で拭い、
優しい母は微笑んでありがとうと言ってくれた。あまり丈夫ではない母だから、この暑さに参ってしまわないか心配になる。
暑いながらにも和やかなひと時だった。
「千世っ」
名を呼ばれ、仕方なく目を向ける。母も、何事かと顔を上げた。
慌ただしくやってきた父が踏み締めた地面の土臭さが鼻につく。草むしりで十分に青臭い己のことは棚に上げて不快に思ったのは、それをしたのが父であったからだ。
千世はいつも父のすることに突っかかりを覚える。
今もそうだ。何か用があれば部屋に呼びつける父が、こんなふうにところ構わず話し始めたことがすでにいつもと違う。その、いつもと違うことする父が嫌だと思った。
表情の乏しい父にしては嬉しそうに見えるのも奇妙だった。
千世に声をかけること自体が少ない父である。千世は表向きだけ畏まりながらその言葉を待った。
「はい、どうなさいましたか」
この時、千世は七つくらいだった。
丁寧に返事をした娘に満足したのか、父は得意げに言った。
「おぬしの婿が決まったぞ」
婿、と。
いずれ、大人になれば祝言を挙げて男女が夫婦になるということは知っている。しかし、千世が大人になるのはまだ遠い先のこと。父の喜びを千世はどうしても受け止めきれなかった。
「文武に秀で、申し分のない相手だ。きっと千世も気に入る」
文武に秀でているというが、千世の相手ならばまだ子供のはずだ。童子を相手に大した褒めようである。
その子供を気に入ったのは、千世ではなく父の方だ。千世の夫というよりも、この
月島家には千世しか子供がおらず、女の千世では家を継げない。それを父がずっと気がかりに思っていることを、千世はすでに感じていた。
だから、千世が気に入る、入らないの話ではないのだ。それなのに、さも千世のためであるかのような物言いをする。それが千世は不服であった。
はぁ、とおざなりな返事しかしない娘に、父は幼さ故によくわかっていないのだと納得したらしい。それだけ告げて去っていった。
去りゆく父に向けてため息をついてみせると、傍らにいた母が千世の背中をそっと撫でた。何故かその手が詫びているようで、千世は母にはなんでもないことのように微笑んで返したのだった。
しかし、優しかった母はその翌年、年越しを待たずに黄泉路へ旅立った。
そこから千世を厳しく躾けたのは祖母である。その祖母も千世が十五の年に亡くなり、続いて父が。
誰もかれもが千世を置いて去った。残ったのは〈家〉という入れ物だけである。
それでも、千世は生きている。
そうして、月日は流れ――。
❖
江戸、深川。
江戸の南東に位置するこの地、もとは漁師町であった。それが、両国橋がかかったことにより徐々に発展を遂げてゆく。
屋台や料理屋が立ち並び、美味いものがそろうと、男が多い江戸では色町としても繁栄するのだ。
幕府非公認の岡場所ながらに、気風が売りと華やぐ深川永代寺門前
今日もまた、客人が暖簾を潜る。
黒光りしている板敷はもとより、土間にも塵ひとつない。古いながらに磨かれた店だ。
「いらっしゃいませ、ようこそ月見堂へ」
千世はこの月見堂の主として、やってきた客に向けて誇らしげに微笑みかける。
武家の一人娘であったはずの千世は、二年前に縁あってこの月見堂を先代より譲り受けた。商いのいろはも知らぬような武家娘が、である。
千世が最後の肉親であった父を亡くした後――。
忌中で参拝はできないとしても、神仏にすがりたい気分で、千世は富岡八幡宮の門前前までふらりとやってきた。
秋の柔いお天道様の日差しの下、千世はその明るさにさえ苛まれているような心地だった。
この時、ふらふらと幽鬼のごとく歩く千世を、この通りに店を構える月見堂の先代が見つけてくれた。
『なんだい、あんた、随分青っ
見ず知らずの老婆だった。小さく、ちょこんと店先に立っていた。
白いが豊かな髪を結い上げ、
『ええ、頂いておりますよ。お気遣い、痛み入ります』
にこり、と上辺で笑ってみせた千世に、老婆は目を怒らせた。急に千世の方へ近づくと、手をぐいぐいと引っ張る。細いのにあたたかい手だった。
『この嘘つき娘が。ちゃんとおまんま食べてたら、あたしみたいな年寄りより冷たい手なんてしてないんだよ』
『あ、あの――』
有無を言わさず店の中に引っ張り込まれた。
何を買わされるのだろうと身構えた千世を、老婆はただ上がり框に座らせただけだった。
看板を見損ねてしまい、中に通されてもなんの店なのかがわからなかった。棚には箱がたくさん並んでいた。
老婆は千世の手を握ったまま、目を見て問いかける。
『あんた、武家娘だろ? そのくせ、お供の一人も連れていないなんてさ、理由(わけ)ありだって言ってるようなもんじゃないのさ? で、何がつらくっておまんまが喉を通らないのか言ってごらん』
見ず知らずの老婆なのに、ひとつ息を吐くほどの僅かな間に千世の心に入り込んだ。
手があたたかいから、そのぬくもりに絆されたのだろうか。
気づけば、家族を立て続けに亡くしたこと、これから許嫁と祝言を挙げて家を守っていかなくてはならないのに、不孝を承知でもその気分になれないことを語っていた。
父の葬儀の時にも出なかった涙が、端から滲んで流れていく。
涙だけがあたたかくて、千世の手は冷えたままだった。
老婆は、同情とは少し違う、けれども深い目をしていた。
『そうかい、おとっつぁんをねぇ。そいつはおまんまが食えないのも仕方がない。つらかったね』
この時、老婆はそう言ってくれたけれど、本当は違う。
父が死んで、それが思いのほかに悲しくなかった自分に嫌気が差して、それで勝手に傷ついていただけだ。
父の死を嘆いていたのとは違う。悲しいのとは、違う。
けれど、そのことは言わなかった。
老婆はうんうん、とうなずく。
『嫌ならやめちまいな』
『え?』
『嫌なら祝言なんて挙げるもんじゃない。家なんて継がないで誰かにあげちまいな』
誰もが生まれた家を守るのは当然とする中、この人だけは違った。
町人だからかもしれないが、こんなことを言ってもらえたのは初めてだった。家つきの娘である千世は許嫁を婿に向かえ、家を守っていくしかないと思いつめていたのだ。
老婆は、にかりと明るく笑っている。
『でも、それじゃあ食べていかれないから、何かしないとね。そうだ、この店で働いたっていいんだよ。あんたはさ、多分
その言葉は、天から差した光のように千世を照らしてくれた。これは神仏の導きかと、この老婆に手を合わせたくなる。
『あたしはこの損料屋月見堂の主で、
『おしなさんですね。私は月島千世と申します』
『へぇ、どっちも〈月〉じゃないか。こりゃあなんかの縁だ。うん、遠慮なんざいらないよ。あたしのことを頼っておいで』
この時、千世の心は半分決まっていた。だからこそ訊ねたのだ。
『あの、ここは何を売るお店なのでしょう?』
すると、しなはクックッと笑って答えた。
『何も売りゃしないよ。
――これが千世と月見堂先代
後になって思えば、深川は岡場所なのだから、悪人に引っかかっていたら千世は今頃
しかし、どうしてもしなのことは悪く思えなかった。信じてもいいと感じたのだ。
千世は家に戻ると、千世よりも十ほど年上の従兄に家を任せることにしてはどうだろうかと考え、すぐに従兄に頼み込んだ。
少々強引に、父が生前から従兄を養子に迎えるつもりであったと、そうした話を進めていたということにしてもらった。もともと、表祐筆など一代限りのこと。構わない。
今のところ千世は己の決断を悔いてはいない。
ただ、誤算があったとすれば、奉公ではなく、しなの跡を継いで女主に収まったことだろうか。
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