第2話

 この日も、月見堂にやってきた客が千世が店主と知ると目を丸くした。

 角ばった顔の、どこにでもいる男である。三十路半ばを過ぎているが、四十路までは手が届いていないという年頃だ。


「あ、いや、ここの店主のおしな婆さんはどうした? まさかくたばっちまったのか?」


 どうやら男は月見堂の昔馴染みであったようだ。久しぶりに月見堂の暖簾を潜ってみれば、主のしなはおらず、見ず知らずの若い娘が主だというのだから、驚くのも無理はない。


「まさか。お元気ですよ。今は仕舞屋しもたやでゆったりとお過ごしです。私はご縁があって先代よりこの月見堂を引き継ぎました。千世と申します。どうぞお見知りおきください」


 千世がこの月見堂へ来てしばらくすると、しなは隠居したかったから後を頼むと言い出した。


『あんた、一番嫌なことは避けただろ? 二番目に大変なことくらいできるんじゃないのかい? なぁに、女だからできないなんてことはない。若くて未熟ってぇのも言い訳だ。しっかりやりな』


 ――そう言って託された。

 もちろん不安だらけだが、千世もいつかはしなのようになりたいと、その引き様に惚れ惚れしたのも事実だ。


 月見堂で長年勤めた古株の奉公人は残していってくれるのかと思いきや、古株は皆年老いていて老後はゆっくりしたい者ばかりであった。新しく雇え、と突き放されたのも、しなからの試練である。



 客の男は、千世の名乗りに目を瞬かせていた。色が黒くよく日に焼けていることから、なんらかの出職ではないかと思われる。

 この娘に女主など務まるのかと思われても、今はまだ何も言い返せないので仕方がない。


「こりゃ魂消たな。お前さん、お千世さんはお武家の出じゃあないのかい?」


 すぐにそれを言い当てられた。二年やそこらでは、身に染みついたものを濯ぎ落すには足らないらしい。未だにこの深川の町に馴染めていないようだ。焦ってはいけないと思うけれど。

 千世は内心を客に覚られないように、落ち着いて話そうと心掛けた。


「お客さまは鋭くていらっしゃいますね。ええ、昔は。でも、今は私も町人でございます」

「まあ、人それぞれ事情があるんだろ。生きてりゃ、誰にだってあるよなぁ。俺だって、昔はこの深川に住んでたんだ。それがよ、夜逃げ同然に出ていって、いろんなところを渡り歩きながら、気づけば十五年だ。ろくなことをしてこなかったくせして、近頃無性にここに帰りたくなってな。そうは言っても身ひとつだ。七輪だって貸してくれる知り合いもいねぇ。それで月見堂を思い出してきたんだ」


 損料屋は、日々の生活に必要な品を期限を定めて貸し出す店だ。

 江戸庶民の暮らしは押し入れさえない狭い長屋だから、余計なものなど置き場もなければ、買うだけの銭もない。


 しかしながら、夏には蚊帳が要る上に、冬は褞袍どてら櫓炬燵やぐらごたつがなければ過ごせない。だから、庶民は損料屋からその都度必要なものを借り受けるものである。

 つまり損料屋は、庶民の生活には欠かせない店ということだ。


「そうでしたか。外見は同じでも人はそっくり換わってしまいましたから、昔馴染みのお客さまにはお寂しいかもしれませんが」

「いや、ばあさんよりお千世さんみてぇな別嬪さんがいりゃ、用がなくても客は喜んで来るんじゃねぇのかい」


 冗談めかしてそんなことを言うが、先代は懐の広い人だった。この人も、きっと会いたかったのだろうなと千世は察した。


「来てくださるといいのですが。――ええと、七輪でございましたね?」

「ああ」

権六ごんろく、七輪をお出しして」


 千世は帳場を振り返って番頭の権六に言う。

 番頭に収まっている権六は、もともと月島家の門番であった。とはいえ、ひょろりとした脛を出した、老齢に差し掛かりつつある小男が棒を手に立っていたところで怖くもなんともない。


 その上、権六は見るからにおっとりとした優しい顔立ちである。門番になど向いていなかった。門番よりは番頭の方がまだ似合っているだろうか。


「かしこまりました」


 五十路で小柄、仏のように優しい顔をした権六は、のっそりとした動きで奥に消えた。

 権六は、門番には向いていなかったが、すこぶる人が好い。その人柄故に暇を出されずに済んでいた。千世も家を出た後も権六とは離れがたい気分で、権六もまた千世を心配してついてきてくれたのだった。


「はいはい、お待たせしました」


 のんびりとした声がして、権六が七輪を抱えている。それを板敷の上にことりと置いた。その七輪の胴にはしっかりと月見堂の印が入っている。〈損〉の文字を月に見立てた丸で囲んであるものが月見堂の印である。


「お、この印は変わんねぇなぁ」


 客は嬉しそうに言った。変わらないものがあるというのは案外嬉しいことである。


「では、こちらの帳面をお書きください」


 権六に帳面を差し出され、客は名前と住まいを記す。そうして、損料(借り賃)を払うのだ。

 損料屋は物を貸し出す際、借り賃に上乗せして保証料を受け取る。その品物が無事に戻った際には保証料を返すのが一般的である。


 そうしなければ、雑に扱って壊してしまったり、古道具屋に売ってしまったりする不届き者も出てくるのだから。


 どんな道具も使えばすり減る。損なわれるのだ。だから、貸すというのは、そのすり減った部分を売ったのと同じこと。すなわち、なのである。


「じゃあ、借りていくぜ」


 この客は帳面によると茂助もすけという名だった。茂助は七輪を抱えた。新品ではなくとも手入れは行き届いている。


「ええ、ひと月の間ですね。ありがとうございます」


 にこり、と笑みを浮かべてから千世は頭を下げた。

 こうしたことを繰り返す毎日だ。こんな日が来るとは、父が存命の頃には思いもよらなかった。




「――ねえ、権六。おみつも仙吉せんきちも遅いわね」


 茂助が去ってから小半時。千世は帳場の方を振り返る。

 いつの間にやら権六の膝には黒猫が乗っていた。野良猫にしては我が物顔で出入りしている。


「そうですなぁ。おみつは繕い物を届けに、仙吉は貸してある行火あんかを受け取りに出ているはずですが、仙吉はどこかで油を売っているということも――」


 やれやれ、とため息をつきながら権六は黒猫を撫でる。千世も撫でたいが、あの猫は権六にしか媚びない。


「ただいま戻りました」


 噂をすると、である。

 女中のみつが戻った。みつは口入屋を介して月島家へ下働きに来ていたのだが、今もこうして千世につき合ってくれている。それというのも、千世のもとで働くのは、嫁に行って家を守るよりも楽しいと思ってくれているらしい。


 年は二十三。目立つ顔立ちではないものの、何せ気が利く。その上、手先が器用で何をさせても卒なくこなす頼れる女子おなごだ。


「おかえり、おみつ。先方には満足して頂けたのかしら?」

「ええ、思っていたよりも早くて助かったと仰って頂けました」


 みつが出かけたのは、頼まれた繕い物を納品に行くためである。

 そうした仕事は本来、針子に頼むものなのだが、月見堂でも頼まれれば引き受ける。人手を〈貸す〉という意味では同じだと千世は考えている。


 千世が店を引き継いだ時、それだけの商売では組合から鑑札が下りなかったのだ。先代は手広く、質屋も商っていた。しかし、物を貸し出す損料屋ならまだしも、質屋まで営むほど千世には経験も貯えもない。それ故に、人手も貸すということで落ち着いたのだった。


 だからこうした細かな仕事が舞い込むこともあるのだが、みつは丁寧で手が早いので評判も上々である。

 その時――。


「ただいま戻りましたっ」


 そう言って、元気よく三和土たたきに飛び込んできたのは、月見堂の丁稚、仙吉である。

 仙吉はつり目がちな目を狐の面ようにして笑いながら戻ってきた。


「おかえり、仙吉。竹蔵たけぞうさんに貸していた品はどうかしら」


 竹蔵は近くの長屋の店子の老人で、もう春だというのにまだ寒いと言って、一度は返した行火をまたしても借りに来たのである。その返納日が今日だったので、仙吉を使いにやったのだ。


「さすがにもういいみたいで、返してもらいやした」


 仙吉は手に持っていた風呂敷包みを解き、行火を千世に見せる。ちゃんと月見堂の印が入っている、貸し出した品に間違いない。


「大事に使ってくれていたみたいね」

「そうですよ。もし痛めたら、損料をたっぷり頂かなくっちゃいけやせんからね」


 仙吉は、キヒヒヒ、と意地の悪い笑みを浮かべている。年の頃は十一、体も小さく、まだまだ子供ではあるのだが、なかなかにいい性格をしている。


「お客様たちが大切に使ってくださるから物持ちもよくて助かるわ」

「うぅん、でも、新しいのに買い替えたいものは少々乱暴に扱ってもらって、損料を新品を買う足しにしたい――なぁんて、ちょっと言ってみただけですってば」


 千世の顔から笑みが消えたので、調子に乗っていた仙吉も慌てた。すぐに調子に乗るし、礼儀もまだまだ教え込まねば危なっかしい子なのだが、なぜか憎めない。

 そこで仙吉は一度外の方を振り返り、それから言った。


「千世さま、実はさっきそこでうちのことを訊ねてきたお人がいて、お連れしたんです」

「あら、お客さまなの? それなら早くお通ししなくては」


 千世が表まで客を出迎えに暖簾を潜ると、そこで立ち尽くして損料屋の看板を眺めていたのは、二人連れの客人であった。

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