第14話
その翌朝、迅之介と権六が出かけるよりも先に、蓮二が珍しくふらりと姿を現した。背を丸め、暖簾を潜ってくる。
「日銭が尽きたのね?」
千世は笑いながら蓮二を迎え入れた。
前に来てからしばらく経つ。そろそろひもじくなったのだろう。
蓮二は首筋をがりがりと掻きながらぼやいた。
「ま、そういうこったな」
出かけるつもりでいた迅之介は、途端に顔をしかめた。蓮二の方はそれを受け流している。
みつは蓮二を横目に千世に向かってささやいた。
「今回の仕事は、蓮二さんが一番向いているかもしれませんね」
蓮二は遊び歩いてろくに家にもいない。だからか、妙に世間の事情に詳しかったりもする。網打場界隈のことも、この店の誰よりも知っているのではないだろうか。
権六ではなく、蓮二と迅之介が内儀を尾行する方がよいような気がした。蓮二なら、女郎の客引きも上手く躱せることだろう。
千世は蓮二に今、引き受けている仕事の話を手短にした。蓮二はやる気こそないが、多分頭は切れる。すぐに事情を呑み込んだ。
「なるほどな。そのお内儀がどこでナニしてんのかを探ればいいんだな」
「ええ。お願いできるかしら?」
「わかった。なるべく弱みになるような尻尾つかんできてやるぜ」
明らかに面白がっている。蓮二にとって大店の醜聞など酒の肴でしかないのだ。
一抹の不安も抱きつつ、千世はうなずく。
「迅之介さま、そういうことですから、蓮二をお連れくださいませ」
そう頼むけれど、迅之介は素直にうなずかなかった。対抗心というのか、迅之介は蓮二をじっとりと見ている。
蓮二としては張り合うつもりはないらしい。いつも通り飄々としていた。
「そのお内儀が家を出る時に、あの女だと教えてくだすったらそれでいいんです。そこからは俺が一人でつけやす。その方が動きやすいんで」
堅物の侍などつれていては、近くにいる遊女たちに話も聞けない。迅之介も昨日のことがあるので、自分には不向きな場所だと承知している。それが悔しいのかもしれない。
「それなら、わたしでもお顔がわかります。わたしが紅梅屋さんまで行きましょう」
みつが男たちの険悪な様子にやきもきし、割って入った。表を掃いていた仙吉は面白そうに、しかし近づかずに見守っていた。
「俺はどっちでもいいぜ。さ、行くか。お内儀が先に出かけちゃまずいだろ」
蓮二はサッと暖簾を払い、表に出た。とりあえず、みつも迅之介を気にしつつ、それに続く。千世は用意していた握り飯を仙吉に手渡し、二人を追いかけさせた。それを外で見守っていると、迅之介が店から出てきて千世の横を通り過ぎる。
「手が空いたので、佐藤殿のところへ参る」
「あ、はい。どうぞ行ってらっしゃいませ」
佐藤というのは、少し前に知り合った長屋に住む浪人である。千世は会ったこともないが、迅之介とは気が合うらしい。
そうした相手ができたのは、迅之介にとってよいことだと思う。
迅之介の背中が遠ざかってゆく中、こちらに向けて歩いてきたのは雪奴だった。今日も艶やかなものだ。
遠目に、雪奴と迅之介は行き合い、二言三言話している。それほど話が弾んだふうでもなく、迅之介は向こうに、雪奴はこちらに向けて歩んでくる。
「おはよう、雪さん」
千世が挨拶すると、雪奴は小首をかしげた。そんな仕草も艶っぽい。
「迅之介さん、しょげてたぜ? あんた、またキツイこと言ったんじゃないのかい」
「言ってないわよ」
「そうかねぇ。怪しいもんさね」
人差し指を唇に当て、くすりと笑われた。女の千世でも見惚れてしまう。
芸者は色々な客に会う商売である。紅梅屋は大店だから、もしかすると何かを知っているかもしれないと思い、千世は訊ねてみることにした。
「ねえ、大きい声では言えないんだけれど」
そう言って、千世は雪奴の耳元でささやく。
「扇屋の紅梅屋さんのお内儀さんってどんな方だか、雪さんなら知っているかしら?」
すると、雪奴はうぅんと唸ってから言った。
「内儀って、今の? それとも、前の?」
「今のよ」
前の内儀は早くに亡くしたと孫次郎から聞いた。
雪奴はそんなことまで知っていたようだ。こくりとうなずいてみせる。
「元長屋女郎のお恵さんだな。ま、あたしは直接知らねぇし、全部噂で聞くだけさ。落籍される女郎は多いけど、その中でもいいところに行けたって皆羨んでいたぜ。まあ、そんなに好かれているお人じゃあなかったから、羨んでっていうよりももっとねっとりしたもんだけどよ」
なんとなく、それはわかる気がした。
雪奴はそれほど思い入れもないらしく、淡々と語る。
「まあ、女に好かれない女ってのは、男受けはいいからな。お恵さんが落籍された時、馴染みの客たちはかなり怒っていたみたいだ。でも、遊女と夫婦になる約束をしたなんて、それを信じる方もどうかってところさ。その手の嘘に騙されたふりをしてやるのが粋人ってもんだろ」
それはそうなのだが、本気の恋になってしまったとして、その女が大店に嫁いだら納得は行かないだろう。恵の幸せを遠くから願ってあげられる男はそう多くなかったようだ。
「その馴染みが言うには、お恵さんは気が強いようでいて脆いところもあって、そこが可愛いんだって」
遊女の手練手管にすっかりはまってしまったのは、紅梅屋の主、吉右衛門も同じである。
しかし――。
千世は考える。
恵が網打場の辺りに消えたというのは、そこが古巣だからだろう。そこで目立たぬ着物に着替え直すのは、一体なんのためなのだ。
吉右衛門は孫次郎の兄なのだから、恵とは相当年が離れている。その上生真面目なたちのようだ。財力はあれど、男としてつまらないと、たくさんの男と関わってきた恵は物足りなさを感じているのだろうか。
目立たぬ着物に着替え、昔の馴染みに会っている。
そういうことだとしたら――。
その時、雪奴が千世の顔を覗き込む。
「あんた、また妙な仕事を引き受けたんじゃないのかい? 人の恨みは買うんじゃないよ」
「わかってるわ」
そう言って苦笑した千世に、雪奴はいつになく真剣な顔をした。
「あんたはさ、自分のことは自分で決めて、自分の生き様を貫いていこうとしてる。あんたのそういうとこ、あたしは嫌いじゃないんだ。だから、この月見堂がずっと長く続いたらいいと思ってる」
「ありがとう、雪さん。私も雪さんみたいなお人には憧れるわ」
世辞で言ったわけではない。己の芸ひとつを頼りに生きる芸者の雪奴を見ていると、権六やみつといった家に仕えてくれていた人を連れて出てきた千世は、まだまだ子供だと思う。雪奴のように凛と、自分を誇って生きられたらいい。
それでも、雪奴はゆるゆると首を振った。
「あんたはあたしみたいになるんじゃあない。迅之介さんが可哀想だろ」
と、笑われた。その名を出すと千世が拗ねた顔をするからからかっているのだ。
「じゃあ、くれぐれも気をつけな」
爽やかな風のようにして去る雪奴を見送りつつ、千世は店の中に戻った。
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