第15話
昼下がりになり、みつだけが月見堂へ戻ってきた。
「やっぱり、紅梅屋のお内儀さんはあのお人でしたよ。今日も風呂敷包みを抱えていました」
「蓮二には着物の柄も伝えてあるし、ちゃんとつけてくれると思うけれど」
近いうちに孫次郎も店に来るのではないだろうか。その時に少しばかりは成果を語りたいところだ。
そうして、店仕舞いをする頃になって蓮二は帰ってきた。
得意げな顔を見ればわかる。何かをつかんだのだろう。
迅之介はまだ戻っていなかった。完全に戸締りをせず、暖簾だけ下して皆で蓮二の話を聞く。
蓮二は上がり框に座り込み、勿体ぶって語り始めた。
「あのお内儀、やっぱり間夫がいやがるな。地味な着物に着替えた後、親しげに寄り添って出かけていったぜ」
「出かけて?」
千世が首を傾げると、蓮二はうなずいた。
「ただ寄り添って歩いているみてぇだったけどな。その辺を見ては二人してぼそぼそと話してたが、内容までは聞こえなかった。松村町から黒江町、橋を渡って蛤町、その辺だな。丁度いい出合茶屋でも探してたのか知らねぇけどよ、場所がわからなかったのか長屋の辺りをうろうろして、それから〈こい屋〉ってぇ船宿の二階に上がって、一時(約二時間)。出てきた時には澄まし顔で、最初に着ていた派手な着物に変わってやがったぜ」
船宿は旅籠ではない。船に乗るための場所である。その二階には休息所としての顔を持つ座敷があり、そこで逢引をする男女が多いのも事実であった。内儀には手持ちの金もあるだろうから、船宿に口止め料を払うことなど造作もない。
「それ、逢引の場所を探してうろついていたってことよね。着物を着換えたってことは――」
千世はそこまで言いかけて、仙吉が興味津々だったので止めた。
「けれど、見たというだけで確かな証はないわけだから、これだけで問い詰めるのも難しいでしょう」
と、みつも唸る。
「孫次郎さんにはお内儀さんがどこに行っているのかを探ってほしいと言われたのよね。だから、これをお伝えすることまでが私たちの仕事」
孫次郎は喜ぶかもしれない。兄が傷ついたとしても、これであの後妻に愛想を尽かしてくれるきっかけとなるのなら、それでいいと。
しかしなぁ、と蓮二は苦々しく言う。
「紅梅屋の主は穏やかな人柄のようだし、不義密通を訴え出る前に、よくよく言い聞かせて二度としねぇって誓いの上で許す、なんてこともあるんじゃねぇのか? そうしたら、内儀も表向きだけ心を入れ替えたふりをして居つくかもしれねぇし、これを伝えたからって番頭さんの望むようになるとは限らねぇぜ?」
「身請けしてくれた旦那さまを裏切った女を許して、なおかつ今まで以上に仲睦まじく暮らすなんて、そんなこと、あるはずが――」
みつは蓮二の言うことが受け入れられない様子だった。
千世もよくわからない。自分だったら許せないと思う。
けれど、権六だけは困ったような顔をした。
「そこが人の心の厄介なところですな。周りがああだこうだと言ったところで、当の本人たちは己の思いで動くんですから」
この中で最年長の権六は、いろんな人々を見てきたのだから、そういうこともあり得ると思うのだろうか。
「特にな、男女の間柄ってのは不可思議なもんだからな」
蓮二が千世を見ながらにやりと笑った。それは、迅之介があれほど千世に執着する
「おや、そういえば、迅之介さんは蛤町の狸長屋に行ったんでしたね。近くにいたわけだ」
権六がそうつぶやいた。捜していた時は見つからなかったのに、捜していない時に限って内儀が近くにいるとは皮肉である。
「そういえばそうね。まさかお内儀さんがそんなところに来るとは思っていないでしょうし、見かけてはいないと思うけれど」
そんな話をしていたせいか、迅之介が戻った。その時、もの言いたげに蓮二の方をじっと見て、それから目を逸らす。
「おかえりさないませ」
みつが丁寧に手を突いて迎えた。千世もおかえりなさい、と声をかける。
迅之介は、ん、と軽く答えた。出かける前よりは幾分落ち着いている。佐藤という浪人に話を聞いてもらい、気が晴れたのかもしれない。
「じゃ、俺は帰るぜ」
そう言って、蓮二は立ち上がる。千世はいつものごとく、帳場から日銭を渡した。
これをするから、蓮二は気が向いた時にしか来ないのだが、そうしなければそもそも来ないので仕方がない。
「おお、ありがとよ」
蓮二は小粒を握り、満足げに笑った。千世は苦笑してしまう。
そこでふと、蓮司は千世の帯の辺りを見て首をかしげた。
「――なあ、ずっと気になってたんだが、お前さん、なんで蜻蛉玉をぶら下げてるんだ?」
千世の帯に紐を通して挟んである蜻蛉玉に目を留めた。
「落とすからよ。というか、そもそも拾った落とし物だけど」
「またか。お前さん、前に拾ったのは猫の鈴だったか? 迅之介さんのために蜻蛉玉より猫の鈴をつけておいた方がいいんじゃねぇの?」
余計なことばかり言ってくる男だ。ちなみに、前に拾った猫の鈴は、権六に懐いている猫に着けようとして挫折した。どうしても大人しく着けさせてくれなかったのだ。
「蓮二こそ鈴を着けておきなさい。すぐにいなくなるんだから」
そう返してやると、蓮二はへいへい、とおざなりに言って手を上げた。
本当に、猫のような男だ。蓮二が猫なら、迅之介は犬のようだから、二人の相性が悪いのも当然かもしれない。
「じゃあ、今回の褒美にその蜻蛉玉もつけてくれ。根付けに丁度よさそうだ」
ニヤリと笑って言われた。千世は吝嗇なわけではない。勿体ないと思うからこそ捨てられなかったり溜め込んだりしてしまうだけで、誰かが使うというのなら手放すのは構わない。
多分もう落とし主には出会えないだろうから、蓮二にあげてもいいだろう。
「いいけど、大事にするのよ? 失くさないようにね?」
「へいへい」
蜻蛉玉を受け取ると、蓮二は面白そうに翳して眺めていた。
「ついでだし、夕餉を食べていったら?」
「ちょいと行くところがあんのさ。また今度な」
行くところというのは、馴染みの女のところか、行きつけの居酒屋か。銭が入ったらすぐに行くつもりをしていたのだろう。
「じゃあな」
あっさりと出ていった。蓮二が去ってから、権六と仙吉が戸締りをし、皆で夕餉を食べる。その時、迅之介にも紅梅屋の内儀の話をすると、眉根を軽く寄せて思案顔になった。
「俺は長屋の中にいたのでな、姿は見ていないが」
「佐藤さまとはよほど話が弾まれたのですね」
千世が何気なく言うと、迅之介はやや間を置いてからうなずいた。
「佐藤殿もだが、あの長屋の人々は皆気持ちがいい」
友蔵や太助も善良であった。恩のある迅之介に対し、それなりの歓待をしてくれるのかもしれない。
「その後、何事もなく過ごせているようで安心しました」
以前絡んできた破落戸も、もう姿を見せていないようだ。
もう二度と出てこなくていい。
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